△打席に向かう岩村選手兼任監督

福島ホープスの後期最終戦が9月10日、郡山市のヨーク開成山スタジアムで行われた。対戦相手は武蔵ヒートベアーズで、スタンドには球団最多記録となる3607人が詰めかけた。元復興大臣の根本匠衆院議員(福島2区選出)や鈴木正晃副知事の姿もあった。三塁側のカメラマン席にはテレビカメラの砲列ができた。球場の正面には豪華な花束がズラリと並んだ。独立リーグの一戦とは思えないほど賑やかな雰囲気になったのは、岩村明憲選手兼任監督の現役最後の試合になったからだ。
岩村は愛媛県出身の38歳。宇和島東高校時代は全日本高校選抜の4番を務めたが、甲子園出場の経験はない。1996年のドラフトでヤクルトから2位で指名されて入団。 二軍時代に「怪童」と呼ばれた中西太コーチに「何苦楚(なにくそ)」という言葉を教えられた。「何事にも苦しむことが礎(いしずえ)となる」という意味で、以来、今日まで「何苦楚魂」を座右の銘にしている。

△球場正面に並んだ豪華な花束

入団4年目の2000年に内野手のレギュラーに定着し、翌2001年に背番号を48から1に変更した。ヤクルトの1は過去に若松勉、池山隆寛がつけており、いわばミスタースワローズの証だ。岩村の後は青木宣親、山田哲人が受け継いだ。
2007年にポスティング・システムを利用して米デビルレイズに移籍。翌2008年にワールドシリーズ出場を果たしたが、フィリーズに1勝4敗で敗れた。その後はパイレーツ、アスレチックスでプレー。ヤクルト最終年の2006年とレイズ3年目の2009年に日本代表としてWBCに出場し、いずれも優勝を飾った。
2011年に東北楽天へ移籍し、東日本大震災に遭遇した。3月11日は千葉ロッテとのオープン戦で明石市にいたので、岩村自身はあの揺れを体験しなかった。ただ、妻と長男が仙台市にいて、連絡が取りづらい状況になった。約1カ月後に仙台市に戻り、被災地の惨状を目の当たりにした。これまでは災害をどこか他人事のように捉えていたが、これを機に「自分に何ができるのか、どうすればいいのか」といったことを考えるようになった。

△ファンと会話する根本衆院議員

東北楽天では「やってやろう!」という意欲が空回りした。大リーグ時代の怪我にも悩まされ、チームの戦力になることはできなかった。2013年に古巣の東京ヤクルトに戻ったが、渡米前のようなプレーを披露することはできず、75試合の出場にとどまった。2年目の2014年は39試合に終わり、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。
岩村は現役続行を視野に入れて、再び渡米することも考えた。そこに声をかけてきたのが、ホープスGMの小野剛だ。小野は巨人や西武でプレーし、引退後は実業家に転身。会津若松市の芦ノ牧温泉でホテル経営に乗り出したことから、福島県と縁ができ、ホープスGMに就任した。2人は同じ1978年度生まれの同学年という関係にあった。

△三塁側に並ぶカメラの砲列

ホープスを運営する福島県民球団は、2014年8月に設立された。2015年にBCリーグに参入する予定になっていたが、監督の人選は難航した。球団社長の扇谷富幸は小野に「知名度が高い人を監督に起用してほしい」と要請。しかし、その要件に合う人材が見当たらず、監督の発表は先送りになった。10月になって岩村がフリーの立場になり、小野は「これ以上の人材はいない」と白羽の矢を立てた。
小野は、岩村にこう言った。
「ホープスは震災と原発事故に遭った福島県民を勇気づけるための球団だ。復興に力を貸してほしい」
岩村は当時、BCリーグについての知識が皆無に近かった。ただ、「復興」という言葉に引っ掛かり、小野の話をじっくりと聞いてみることにした。東北楽天時代の2年間、満足な成績を残すことができず、復興に協力していないという自責の念があったからだ。

△スタンドに掲げられたフラッグ

2人の話し合いは2回計6時間に及び、岩村は野球を通じて福島県の復興に協力したいと思うようになった。監督就任を受諾し、11月28日に福島県庁で記者会見した。スーツに身を包んだ岩村は「福島の人が笑顔になれるように頑張りたい」と意欲を語った。
岩村は2015年、選手兼任監督としてグラウンドに立った。背番号は岩村の代名詞とも言える1をつけた。青年監督の言動にファンの注目が集まった。しかし、選手を寄せ集めて生まれたホープスは前期、投打が噛み合わず、東地区4チーム中4位、すなわち最下位に沈んだ。8勝25敗4分けで、勝率は242だった。

△満員になったネット裏のスタンド

後期は一転して波に乗り、終盤は引き分けをはさんで9連勝。最終的に20勝13敗3分け、勝率606となり、東地区で優勝した。前期は怪我で離脱した選手たちが復帰し、調子を上げたことが大きい。
東地区チャンピオンシップは新潟アルビレックスBCと戦い、1勝2敗で敗れた。同年11月に岩村は球団代表に就任し、3足のワラジを履くことになった。オフシーズンは県内のイベントや講演会に出席し、広告塔の役割を果たした。
2016年は群馬ダイヤモンドペガサスが強さを発揮し、東地区の前後期を制した。ホープスは通期の勝率が2位となり、東地区チャンピオンシップに進出。ホープスが東地区で優勝するためには、敵地で3戦3勝が絶対条件になった。しかし、初戦で敗れたため、その時点で敗退が決まった。

△三塁側の2階席に集う応援団

2017年は東地区に栃木ゴールデンブレーブス、西地区に滋賀ユナイテッドBCが参入し、BCリーグは計10球団となった。東地区はまたもやダイヤモンドペガサスが前後期を制した。ホープスは9月10日の試合でヒートベアーズと引き分け、通期の勝率が2位になった。2016年と同じ形で東地区チャンピオンシップ進出を決めたが、地区優勝を手にするためには敵地で3戦3勝しなければならない。1試合でも敗けたら、ジ・エンド。同チャンピオンシップは16日から前橋市民球場で行われる。

△福島駅前通りにある中合福島店

1998年3月、JR福島駅周辺は買い物客で賑わいを見せた。2館体制になった中合福島店と曽根田SCに移転した福島ビブレが揃ってオープンしたからだ。入口の前には長蛇の列ができ、開店と同時に店内は通勤電車並みに混雑した。何階で何が売っているのかよく分からないので、店内を回遊する客が目立った。両店を行き来する客もいた。
中合の店舗面積は、計画段階で「一番館が1万5169㎡、二番館が1万1214㎡で計2万6383㎡」と発表された。その後、計画が少し修正され、オープン時は計2万7464㎡になった。目標の売上は220億円だった。一方のビブレは平和ビル時代、店舗面積が1万0332㎡だった。曽根田SCへの移転に伴って1万6261㎡に拡大し、余裕のある売場となった。目標の売上は100億円だった。

後述する表は、両店の年度別の売上である。日経流通新聞の名物企画「百貨店調査」を基にして作成した。出発点は1992年度とした。百貨店業界に勢いがあり、両店の売上も好調だったからだ。中合が約176億円、ビブレが約84億円。当時は中合が辰巳屋ビル、ビブレが平和ビルで営業していたので、両店が軒を並べていた。
1997年度は、その最後の年だった。売上は、中合が約159億円、ビブレが約59億円。バブル崩壊で百貨店業界は冬の時代に突入し、両店の売上も減少傾向にあった。ただ、ビブレの売上が前年より約10億円も減ったのは、曽根田SCへの移転に備えて、11月25日から2月末まで営業を休止したからだ。

△立体駐車場を併設する曽根田SC

1998年度は、中合が2館体制、ビブレが曽根田SCに移転した最初の年だ。中合の売上は約170億円。店舗面積を約1万2000㎡も拡大したのに、売上はさほど増えなかった。前年より約10億円増えただけで、目標の220億円より約50億円も少なかった。これに対して、ビブレの売上は約97億円で、目標の100億円に迫った。

【中合福島店の変遷】
年度/売り上げ/店舗面積
[92]176億3000万円、15,169㎡
              ↓
[95]171億2400万円、同上 
[96]165億5800万円、同上
[97]159億1400万円、同上
[98]169億6600万円、27,464㎡
[99]160億6200万円、同上
[00]162億5900万円、同上
[01]156億0000万円、同上
[02]150億1800万円、同上
[03]141億9600万円、同上
[04]126億9600万円、同上
[05]133億4700万円、同上
[06]129億9300万円、同上
[07]124億5000万円、同上
              ↓
[13]105億4800万円、同上
[14]100億8400万円、同上
[15]  94億9800万円、同上
[16]  90億7200万円、同上

【福島ビブレの変遷】
年度/売り上げ/店舗面積
[92]83億7700万円、10,332㎡
            ↓
[95]69億1600万円、同上
[96]68億5200万円、同上
[97]58億8800万円、同上
[98]96億8000万円、16,261㎡
[99]93億6900万円、同上
[00]89億7300万円、同上
[01]…未公表…
[02]58億3000万円、同上
[03]55億8600万円、同上
[04]62億5500万円、同上

1998年度は、他にも大きな動きがあった。福島市南矢野目に10月、大型SCがオープンしたのだ。東北マイカルが経営する福島サティ(現イオン福島店)である。場所は国道13号のバイパス沿い。店舗面積は1万7500㎡で、東北マイカルの直営店が1万2500㎡、テナントが計5000㎡という構成だった。同市では初の本格的な郊外型SCで、1500台収容の無料駐車場を併設した。東北マイカル直営店の売上は1999年度が77億6900万円、2000年度が80億8000万円だった。

東北マイカルは、マイカルの関連会社だ。旧社名は東北ニチイ。ニチイグループは1990年からGMS(総合スーパー)の店名をニチイからサティに切り替えた。超大型SCの店名はマイカルとした。その代表がバブル期の1989年にオープンしたマイカル本牧(横浜市)だ。テーマパークのようなこのSCは「新時代の業態」として話題になり、1年で約1500万人の買い物客を集めた。経済誌は小林まことの漫画『ホワッツマイケル?』に引っかけて、『ホワッツマイカル?』という特集を組んだ。これらに気を良くしたニチイは、1996年に社名そのものをマイカルに改称した。

△郊外に立地するイオン福島店

話をニチイ時代に戻す。
ニチイは1978年、丸光(仙台市)、カネ長武田百貨店(青森市)、山田百貨店(福島市)、イチムラ(長岡市)、小美屋(川崎市)の5社と共に百貨店連合を設立した。5社が経営していた各百貨店は、後に百貨店連合が引き継ぎ、店名をダックシティとした。続いてニチイの新業態であるビブレを店名にしたが、中身は百貨店のままだった。この間、百貨店連合は社名をダックシティ、さらにダックビブレと変えた。
ニチイはマイカルと改称した後も拡大路線を推進し、マイカル名の超大型SCやサティ名のGMSを全国各地に出店した。そのイケイケ路線が裏目に出て経営が悪化し、2001年に民事再生法の適用を東京地裁に申請した。これに伴い、ダックビブレも自力経営が困難になり、ほぼ同じ時期に民事再生法の適用を東京地裁に申請した。
前述した表では、福島ビブレの2001年度の売上が未公表になっている。これはダックビブレが民事再生法の適用を申請し、経営再建の途中にあったからだ。

△JR福島駅東口の中合福島店

JR福島駅東口の中合福島店は、一番館と二番館の2館で構成されている。その間にある広場は「ツイン広場」と呼ばれ、イベントなどに活用されている。何もないときは割りと閑散としているが、8月31日の夜(午後7時台)は違った。小雨が降る中、約70人が集まり、二番館の方を凝視していたのだ。
このうち、約20人は報道陣だった。二番館の入口前に列をつくり、カメラの用意をしていた。彼らは雨に濡れないように、一番館と二番館をつなぐ空中回廊の真下に集まった。報道陣以外の人々はその西側、より具体的に言えば一番館の軒下に列をつくった。スマホを二番館の出入口に向けている人もいた。

△二番館の入口前に並ぶ報道陣

二番館の閉店時間は、地上1~7階が午後7時半、地下1階(食品売場)が8時だ。ただ、31日は全館が7時半で閉店すると予告されていた。地下1階の閉店時間が通常より30分早まったのだ。その理由は、二番館の営業が31日で終了するからだ。
ツイン広場から店内を見守っていると、7時10分ぐらいから店内が慌ただしい雰囲気になった。客と店員が会話したり、握手するケースもあった。店を出る客に対しては、店員がガーベラ(花言葉は感謝)とブルボンのお菓子を手渡した。ブルボンのお菓子は、報道陣にも配られた。

△中合の買い物袋を持つ女性客

そのとき、30歳ぐらいの体格のいい男性に「まだ(店内に)入れるんですか」と話しかけられた。「あと15分で閉店ですが、まだ入れますよ」と回答すると、彼は小走りで店内に向かった。9月1日以降はシャッターが閉まったままになるので、残り15分でも店内に入り、買い物した方がいい。
7時半、店員がショッピングカートを押して、店内から出てきた。黄緑色のかごが上下に2つ乗せてあり、どちらも商品が山盛りになっていた。それに続いて、女性がやはりショッピングカートを押して、店内から出てきた。こちらも黄緑色のかごが上下に2つ乗せてあり、どちらも商品が山盛りになっていた。

△客にガーベラを手渡す佐々木店長

2台のショッピングカートで運ばれた商品は、いずれも女性が購入したものである。1人で運べる量ではないので、店員が手伝ったのだ。二番館ではもう買い物ができないので、まとめ買いをしたようだ。女性は待たせていた車に商品を積み込み、店員にお礼を言って二番館を後にした。
7時半を過ぎても、店内にはまだ客がいた。店員と記念写真を撮影している客までいた。何度も来店しているうちに、仲良くなったらしい。その背後では、2人の店員が「中合福島店二番館19年間ありがとうございました」「中合福島店リニューアルオープンに向けた売りつくし」という横断幕をそれぞれ掲げていた。

△客にブルボンの菓子を手渡す店員

7時50分、店内に客がいなくなった。二番館の入口前に白い台が置かれ、佐々木浩店長が上がった。その両側に前述した2人の店員が並び、再び横断幕を掲げた。佐々木店長はマイクを持ち、「約20年間皆さまのご愛顧に支えられながら、また、お取り引き先の皆さまのご協力によりまして営業させていただいたことを感謝申しあげます」とあいさつ。続いて、佐々木店長は台を降りて、両側の店員と共に深々と頭を下げた。

△大量の商品をカートで運ぶ女性客

佐々木店長と2人の店員はその後、店内に戻った。ツイン広場から見えるところに1列に並び、他の店員と共に再び頭を下げた。次の瞬間、シャッターがゆっくりと下がり始めた。店員たちの身体は頭部、上半身、膝上の順番で見えなくなった。シャッターが閉まり切ると、店員たちの身体は完全に見えなくなった。一番館の軒下でその光景を見ていた人々は、一斉にため息をもらした。

中合は1830年に創業した。2代目中村治郎兵衛が福島市荒町に蔵を構え、太物行商を始めたことが発端だった。1874年に中村呉服店を開業し、正札販売を始めた。1938年に百貨店業を開始。1973年に大町から福島駅東口の辰巳屋ビルに移転した。旧店舗は大町パルクとして営業を継続(1984年に閉店)。オイルショックの時代に経営が悪化したため、1978年に大手スーパーのダイエーと資本提携し、その傘下になった。1993年に会津中合(会津若松市)、翌1994年に清水屋(酒田市)と合併し、3店舗体制になった。


△報道陣にあいさつする佐々木店長

中合福島店のライバル的な立場にあったのが、旧山田百貨店だ。1928年に山田英二が創業。もともとは福島市本町に店舗を構えていたが、中合福島店と同じ1973年に福島駅東口の平和ビルに移転した。これに伴い、中合福島店と旧山田は軒を並べる格好になった。店舗面積は、中合福島店が1万5169㎡、旧山田が1万0332㎡だった。
両者は地域一番店の座を争うライバルだったが、福島駅前通り商店街に人を呼び込むという意味では利益を共有する関係にあった。両者の間にある広場は、それぞれの頭文字から「山中広場」と呼ばれた。1992年度の売上は、中合福島店が176億3000万円、旧山田が83億7700万円だった。

旧山田はその後、ダックシティ山田、福島ビブレと店名を変えながらも、平和ビルで営業を続けた。しかし、1996年に「平和ビルから撤退し、新設の曽根田SC(ショッピングセンター)に移転する」と表明した。JR福島駅の北側約500㍍にある旧東開工業跡地に積水ハウスが建設するもので、店舗面積は中合福島店を上回る1万6261㎡。福島ビブレのほか、複合映画館「ワーナー・マイカル」がテナントとして入る。車社会に対応するため、約1000台収容の立体駐車場も併設するとした。


△入口のシャッターが下がり始める

これにより、平和ビルはキーテナントを失うことが確定した。代わりのテナントが見つからなければ、福島駅東口に巨大な空き店舗が出現することになる。危機感を抱いた福島駅前通り商店街振興組合や福島商工会議所は、中合に「平和ビルのテナントになってほしい」と要請した。中合は「駅前通り商店街に巨大な空き店舗ができると、自らもダメージを受ける」と判断し、平和ビルへの出店を決断。辰巳屋ビルと合わせて、2館体制にすることを表明した。

中合は増床に合わせて、大規模な改装を実施すると表明した。投資額は約40億円。辰巳屋ビルと平和ビルを一体化するため、4~6階部分を空中回廊でつなぐ。通路の幅は4㍍。辰巳屋ビル側は従来通りに婦人層を対象にした売り場とし、平和ビル側は書店や食品など幅広い層を対象にした売り場にする。売り場の名称は一般公募により、辰巳屋ビル側が「一番館」、平和ビル側が「二番館」と決定した。店舗面積は、一番館が1万5169㎡、二番館が1万1214㎡で、計2万6383㎡。目標の売上は220億円に設定した。