
△日本一を達成したときの看板
1月6日は、午前4時半ごろに目が覚めた。いつものようにラジオをつけ、続いてネットで最新のニュースをチェック。そのとき、スポニチアネックスの記事が目に入った。見出しは「星野仙一氏死去 がん闘病…『燃える男』『闘将』突然すぎる70歳」。
〈楽天の星野仙一球団副会長が4日に亡くなったことが分かった。70歳だった。死因は明らかになっていない。(以下略)〉(午前3時06分配信)
その瞬間、腰を抜かすほど驚いた。2017年は公の場に姿を現し、スピーチなどをしていたからだ。癌と闘っていたというのも初耳だった。
星野が体調に不安を抱えていることは周知の事実だった。楽天監督時代の2014年に腰の病気で2カ月ほど入院し、その間は佐藤義則投手コーチと大久保博元二軍監督が指揮をとった。シーズン途中で現場に復帰したが、楽天は最下位に低迷。星野は「戦線離脱」と「成績不振」の責任をとってシーズン終了後に監督を退任し、球団シニアアドバイザーになった。
星野の後任になった大久保は、2015年のシーズン終了後に退任。日刊スポーツは「球団内で星野シニアアドバイザーが監督に復帰する案が浮上している」という記事を掲載したが、実現しなかった。体調不安を払拭できなかったからだ。星野は球団副会長に就任し、大久保の後任に梨田昌孝(元近鉄・日本ハム監督)を招聘した。
星野は2017年10月26日に行われたドラフト会議に楽天の一員として出席した。11月28日に東京で開催された「星野仙一氏の野球殿堂入りを祝う会」では、田中将大(米ヤンキース)と軽妙なやり取りを繰り広げた。同会は12月1日に大阪でも開催され、王貞治(ソフトバンク球団会長)や金本知憲(阪神監督)らが出席した。身体が細くなっているという印象はあったが、約1カ月後に亡くなるという予兆は皆無だった。

△JR仙台駅に掲げられた看板
死後に判明したのは、星野が癌と戦っていたことだ。2016年7月に急性膵炎を発症し、その際に膵臓がんが発覚。しかし、星野の意向で病については一切公にされなかった。2017年末に病状が悪化し、家族と計画していた年末年始のハワイ旅行は中止となった。年明けの1月4日午前5時25分に死去。70歳だった。最期は2人の娘に抱きかかえられ、昼寝でもするかのような穏やかな表情だったという。葬儀は星野の遺志で密葬とされ、後日お別れの会を予定している。
星野は生前、「燃える男」「闘将」と呼ばれた。試合中の乱闘では真っ先にベンチを飛び出し、巨人監督の王に拳を突きつけたこともあった。中日監督時代は、お粗末なプレーをした選手をよく殴りつけた。病を公にしなかったのは、そのイメージを守るためだろう。
俳優の高倉健は、星野の明治大学の先輩にあたる。高倉も病と闘っていることを公表せず、関係者と新作の準備を進めていた。その最中に体調が悪化して入院し、2014年11月10日に他界した。83歳だった。高倉の遺志により近親者のみで密葬が執り行われ、18日になって事実が公表された。高倉はもともと私生活を明らかにしない主義だが、死去の前後はそれが徹底していた。これも生前の「強い男」のイメージを守るためだろう。

△仙台で開催された優勝パレード
星野は中日でプレーし、引退後は中日、阪神、北京オリンピック日本代表の監督を務めた。中日で2回、阪神で1回のリーグ優勝を達成した。次は巨人の監督と言われた時期もあるが、実際は楽天の監督に就いた。新興球団を選んだ理由について、星野は「弱いチームを強くするのが自分の使命」と言った。
楽天監督になると、東日本大震災に遭遇した。仙台を本拠地にする楽天は、周りから「被災者を元気づける」という役割を課せられ、星野もその期待に応えようとした。しかし、楽天は思ったように動かず、星野はイライラした表情を浮かべる機会が増えた。選手を叱責するのは当然として、怒りの矛先はファンにも向けられた。
「東北のファンはやさしすぎる。ふがいないプレーをした選手に対しては、どんどんヤジを飛ばしてもらいたい。ファンが選手を育てるんだ」
楽天ファンは、試合の前半でマウンドを降りる投手に対して拍手をすることがある。西武の渡辺直人(楽天出身)が打席に入るときも、スタンドから拍手がわき起こった。プロ野球を高校野球的な視点で見ているからだが、勝負の世界に身を置く星野は、これが許せなかった。だから、ファンに前述したような注文をつけたのだ。
星野はあるとき、選手たちにこんな言葉を浴びせた。
「いつまで野村の野球をやっとんのじゃ!」
野村とは2006~2009の4年間、楽天監督を務めた野村克也のことである。星野が言う「野村の野球」とは「弱いチームがデータなどを活用して強いチームに勝つ」という野球だ。
その見本が1997年4月4日の巨人対ヤクルト(東京ドーム)だ。主役はヤクルトの小早川毅彦。広島の主砲として活躍していたが、1996年シーズン終了後に自由契約になり、ヤクルトに移籍。この試合は5番一塁で先発出場し、巨人の斎藤雅樹から三打席連続本塁打を放った。これは、野村が小早川に斎藤の配球パターンを教えたからだ。
野村は後に「小早川は凡人のくせに『来た球を打つ』という落合(博満)やイチローのような天才しかできないことをやっていた」と言った。「来た球を打つ」というのは、何も考えずに、身体の反応で打つことである。
野村は南海時代、杉浦忠とバッテリーを組んだ。杉浦はその球威で打者を打ち取ることができたので、捕手はミットを構えるだけでよかった。野村は「二流の投手とバッテリーを組んだ方がリードのし甲斐があって、捕手としては面白かった」と語った。

△「がんばろう東北」が合言葉
一方、星野はチームそのものを強くすることにこだわった。だから、ときには選手をトレードなどで大幅に入れ換えた。楽天の監督になったときは、大リーグでプレーしていた松井稼頭央(現・西武)と岩村明憲(現・福島ホープス監督)の2人を獲得した。投手には攻めのピッチングを要求した。相手を仰ぎ見ながら試合をやっていたのでは、いつまでたっても優勝できないと受けとめていたのだ。
星野野球は2013年に結実した。楽天は球団創設9年目でパ・リーグ初優勝。田中将大は24勝0敗という漫画のような記録を打ち立てた。星野が優勝に導いた球団は、中日、阪神に続いて3球団目。異なる3球団で優勝を飾った監督は、三原脩(巨人、西鉄、大洋)と西本幸雄(大毎、阪急、近鉄)に次いで3人目となった。
楽天はその勢いでクライマックスシリーズも勝ち抜いた。日本シリーズに進出し、セ・リーグを制した巨人と対戦。現役時代から打倒・巨人をライフワークにしている星野は、闘争本能をむき出しにした。

△日本シリーズ第7戦のKスタ
楽天の3勝2敗で迎えた第6戦。星野は絶対エースの田中を先発させ、シリーズ優勝を取りにいった。しかし、田中が打たれて試合を落とし、シリーズは第7戦にもつれ込んだ。両チームの戦力を比較すれば、巨人が圧倒的に有利。崖っぷちに追い込まれた星野は、美馬学を先発させた。第3戦で先発し、5回3分の2を無失点で乗り切ったピッチングに懸けたのだ。美馬はその期待に応え、巨人打線を再び6回1安打無失点に抑えた。
7回と8回はルーキーの則本昴大が投げ、得点を許さなかった。9回は、第6戦で160球を投げた田中が登場。常識外れの継投だが、田中が「投げさせてください」と志願したので、星野はマウンドに送ることを決断した。
田中は2アウト三塁一塁のピンチをつくったが、代打の矢野謙次を三振に仕留めた。試合は楽天が巨人を3-0で破り、日本一の座を勝ち取った。監督としての星野は過去に計3回のリーグ優勝を達成したが、日本一になったのは初めて。中日と阪神でできなかったことが、新興球団の楽天でできたのだ。

△本拠地の楽天生命パーク宮城
日本一を決めた後、星野の胸に飛び込んで大泣きする選手がいた。銀次だ。2人の間に身長差があったので、その姿はまるで親子のようだった(公称の身長は、星野が180㌢㍍、銀次が174㌢㍍)。
銀次は野村監督時代、守備に難があるという理由で二軍生活をしいられた。一時は戦力外通告も覚悟したが、ブラウン監督時代の2010年7月にプロ初安打を記録した。後任の星野は銀次の打撃力に目をつけ、守備力に目をつぶって我慢強く使い続けた。それによって銀次の才能が開化し、レギュラーに定着。そうした経過があったので、銀次は星野の胸に飛び込んだのだ。
星野は面倒見がいいことで知られる。例えば、NHKの野球解説者を見ると、中日出身者が多い。このうち、大島康徳、与田剛(現・楽天2軍投手コーチ)、武田一浩、今中慎二の4人は、星野の口利きがあったと見られる。星野は引退後にNHKでキャスターを務めたので、同局に太いパイプを持っているのだ。
「仙一」という名前の星野が、晩年に仙台を本拠地にする球団の運営に関与したのは、運命的としか言いようがない。1月は、1年のうちでプロ野球界が最も暇な時期である。そのときに亡くなったのは、周りに迷惑をかけたくないという遺志の表れだろうか。亡くなった場所は、いまだに明らかにされていない。自宅のある兵庫県の病院か、それとも娘の嫁ぎ先である三重県の病院か。あるいは全く別の場所か。その印象で言えば、「亡くなった」というより「消えた」に近い。
【文と写真】角田保弘














