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しろみ茂平の話

郷土史と雑記

月日・2025年7月25日

 

「どんどこ船」は天神祭の船渡御の華。

 

 

 

船がすれ違う時は、漕ぐのを中断して”大阪締め”と呼ばれる手締め。

 

 

 

大川を挟んで、手前が中央区八軒家で向こう岸は北区南天満公園。
公園には露店が川に沿って並び、岸にはもうすぐ篝火が灯る。

 

 

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「日本の祭り」 菅田正昭 実業之日本社  2007年発行


大阪府
天神祭り


開催地/大阪市北区・大阪天満宮 
開催日/7月24日~25日

 

天満宮の社域は少彦名命の社が祀られた地で、天暦2年(948)に京都の北野天満宮を勧請し、
2年後の6月1日より天神祭りがはじまったとされる。

太宰府で死んだ菅原道真の霊は「天満大自在天神」とされて天神と呼ばれ、
その霊を鎮める祭りで、大阪人の生活に深く密着したものである。

初期の祭事は大川より神鉾を流して、流れ着いた場所に祭場を設け、その祭場で禊払いを行なったものであった。 
これが鉾流神事のもととなり、その祭場に船で奉迎したことが船渡御の起源となったとされる。


安土桃山時代に豊臣秀吉より催太鼓を拝領し、江戸時代から日本三大祭の一つと呼ばれている。
維新の騒乱、本社営繕やコレラの流行、明治天皇の崩御や日中戦争、第二次世界大戦などで中止されたこともある。


25日は天満宮境内で神輿や鳳輦、地車が賑やかに囃し立て、王朝装束の3.000人が鉾流し橋までの陸渡御が行なわれる。
夕刻からは鳳輦船などの船渡御がはじまる。
100隻余りの大船団が堂島川を経て都島橋まで上っていく。

船のかがり火、川の両岸での花火、川の中央の舞台船では神楽など繰り広げられ、
行宮祭では安倍保名や関羽などの人形が迎え、水の都大阪の夏を華麗に彩る。

 

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日時・2025年7月25日 午前4時50分~(市役所北側)

 

”日本三大祭”というのがあるそうだ。

神田祭(東京都)
祇園祭(京都府)
天神祭(大阪府)


初めて大阪の日本三大祭の「天神祭」を見に行った。
この日は猛暑日で、見物よりも熱中症にならないことの方に気がいった。

天神祭の「陸渡御」は午後3時半に天満宮を出発する。
大阪市役所前が午後5時予定。

午後4時40分に市役所前で待っていると、
5分も待たないうちに堂島川を渡る「陸渡御」が見えてきた。

 

 

 

 

陸渡御の行列は長く、総勢3.000人。
1時間以上つづいた。

 

 

 

 

市役所東の大阪中央公会堂前。

 

つづく(天神祭り・船渡御)

 

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場所・大阪市中央区北浜・大阪証券取引所


五代友厚は大阪経済に尽力した大人物である、
とそこまでは言えるが、それ以上はよく知らないので大商の人物紹介を転記する。

 

 

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【大阪商工会議所HP】


五代友厚


大阪商工会議所ビル前に、初代会頭五代友厚の銅像が建っている。
この五代の人物と業績を知る人は、今日大阪でもごく少ない。
五代こそは大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人である。
五代友厚は、1836年2月(天保6年12月)鹿児島に生まれ、
幼少よりその才ゆえに藩主より才助の名を賜った。
青年となり、長崎海軍伝習所でオランダ海軍士官より航海、砲術、測量、数学などを学び、
勝海舟、グラバーなど様々な人たちと藩を超えての交友を得た。
後に、欧州に留学。神戸事件、堺事件と続く外国人殺傷事件の解決に奔走し、
明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。
欧州留学して外 国事情にあかるいことから、明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。
これが大阪とかかわる第一歩であった。
五代はまもなく官を辞し、民間に投じ、大阪の退勢ばん回に努力した。
五代が自ら起こした事業、設立に関与した会社の主なものは 別記のとおりである。
東の渋沢栄一と並び称される五代が49才の若さで亡くなったことは、
大阪にとってまことに不幸であった。
遺言で大阪の土となった。墓は阿倍野斉場にある。
当時、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだ。

(参考:「大阪商工会議所100年の歩み」)

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撮影日・2025年7月25日

 

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場所・大阪市中央区中之島「中之島公園」

 

大都会の大阪ともなると、その市長は歴史に残る著名人も多い。


中でも関市長は今でもマスメディアに取り上げられることがある。
大正~昭和の約20年間市政を担当したそうだ。

大阪地下鉄建設の最大功労者だそうだ。
戦後、息子さんも大阪市長になった。

 

 

 


銅像の横に顕彰碑が建つ、その碑文を写す。

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関市長顕彰碑


わが大阪が今日の大をなし得たのは 
長い歴史に培われた自由の精神と古い伝統に養われた実践力行の美風によるものでありますが
また市民とこれを代表する市会の博士に対する信頼が市政の運営に不動の基盤を築いたことを忘れてはなりません 
大阪市民がその最も必要とする時期において学徳ともに優れた関市長を得たことは われわれの喜びとして
永久に銘記すべきであろうと思います

故大阪市長関一博士遺徳顕彰会
建立 昭和31年 6月

 

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撮影日・2025年7月25日

 

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場所・大阪市天王寺区茶臼山「天王寺動物園」

 


この市長さんは、近代都市大阪にとって大恩人だそうだ。

御堂筋や地下鉄の都市計画の他に教育、築港・・等々。

 


管理人が一番気になるのは会津藩の武家出身、
戊辰戦争とその後の斗南藩の開拓を経験している。

白河以北一山百文と言れ、中でも会津藩は冷遇されてきた。
そういう状況下で高官にまでなったのは、
才能や努力や人間性が並外れて高かった人なのだろう。

 

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池上四郎 (大阪市長)

(Wikipedia)

池上 四郎

生誕 1857年5月11日
陸奥国会津現(現福島県会津若松市)
死没 1929年4月4日(71歳没)
東京府
出身校 藩校日新館
職業 朝鮮総督府政務総監
大阪市長
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池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年4月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月4日)は、日本の警察官僚、政治家。
第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。

生涯
1857年、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれた。
11歳のときに戊辰戦争を経験する。兄の友次郎は、鳥羽・伏見の戦いの正月五日の戦で戦死。
父・武輔は井深宅右衛門の第二遊撃隊の組頭として越後小千谷で新政府軍と戦い、負傷する(北越戦争)。

開城後は再興を許された斗南藩へ父母に連れられ一家六人で移住し、開拓農民として辛苦の生活を体験する。
1877年、池上は警視局一等巡査として採用された。
1880年、石川県警部となり、1882年、石川県警察部第一部長に進んだ。

1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて、肝付兼行の後任として大阪市長に就任した。

 

 

天王寺公園内にある像

財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港などの建設などの都市基盤を整備し、
近代都市への脱皮を図ると同時に、以下の政策を実行および計画を実施して、大大阪時代初期まで大阪市政を担った。
池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。
1923年には大阪電灯株式会社より事業を買収し、電灯供給事業を市営化した。
同年9月1日に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。
御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は、池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現し、
後任の関市政時代に大大阪時代の全盛期を迎えることとなった。
また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。

1935年、大大阪時代を実現させた池上の功績を称え、大阪市民の手によって銅像が建立された。
この銅像は太平洋戦争最中の1942年、金属供出により撤去されたが、戦後の1959年6月に市政70周年を記念して再建された。

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撮影日・2025年7月25日