「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
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二毛作・三毛作
水田の二毛作地帯では、裏作で麦を作ったが、
畑地では麦の二毛作・三毛作が行われた。
夏作といって、
ササゲとかアズキ、または大豆などを収穫したあとに、粟とか黍、あるいは蕎麦を作り、そのあとに麦を植えれば三毛作となる。
サツマ芋を収穫したあとに麦を蒔けば二毛作となる。
水田にしろ、畑地にしろ、休閑することはなく、(菜園を除けば)どの田畑にも毎年麦を作付けしたほどである。
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「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
サツマ芋
サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。享保(1716~1736)の飢饉切り抜け策として、
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて、普及に努めた。
その遺徳は追慕されて芋代官と呼ばれた。
サツマ芋は享保の飢饉を境に多く作られるようになった。
日照りの年には、栗や黍、蕎麦さえも、ほとんどとれなくても、サツマ芋だけは収穫があった。
荒れ地、開墾地にもけっこう育ち、豊凶が少ないうえ、税の対象にもならなかった。
サツマ芋は熱帯作物であるため、腐りやすいので、イモ壺とかイモガマといって、
床下とか縁の下に、四角い大きな竪穴を掘り、穴の周辺には小麦わらを立て、底にはスクモ (籾殻)を敷き、
その上にサツマ芋を一面に並べ、またその上にスクモを入れ。こうして年中食べる分をいれておいた。
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「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
菜種
菜種以前の油の原料はエゴマとかゴマで、県下でも広く栽培されて灯用にした。
菜種は、吉備高原や南部地方では水田の裏作や畑で作り、中国山地では焼き畑でも栽培し自給した。
明治末期ごろが最盛期で、以後漸減し、昭和50年ごろには消滅した。
菜種の油絞りは面倒なので、たいていは油商人の所へ持って行って、油と交換した。
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「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
除虫菊
県下では、備中西南地方で栽培された。こ
の地域は温暖寡雨の気候で、よく適し、土壌はやせていても育つし、連作を嫌うが薄荷ほどではない。
秋の彼岸ごろ、苗圃に播種し、4月中旬から下旬にかけての間に本圃へ移植する。
麦の土寄せをした中に、 浅い溝をきり、5寸間隔ぐらいに、一本ずつ根の部分だけに土をかける。
小豆・ササゲ・ブンズ(文豆・緑豆) など夏作物を収穫した跡地に、 除虫菊を植栽する場合は、
アゲ苗といって、苗を本圃の一部に密植しておいて秋の彼岸ごろ本圃に本植えをする。
移植してからは草取りと施肥をするほか、ほとんど労働力を要しない。
収穫期は5月である。
根まで抜き取り、千歯こぎで花弁をこぎ落とすのであるが、
抜き取らないで鎌で根刈りをし、株を残しておくと、芽を出して生長し、翌年収穫することができる。
花の色で価格は決まる。
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「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
はつか
薄荷
1886年(明治19)ごろから赤磐・邑久郡および笠岡・井原市、小田後月・浅口郡が薄荷主産地となり、明治末期以降、北海道に次ぐ主産県であった。
栽培はまず、11月末から12月初旬の、秋の諸収穫、麦などのしつけが終わって、種(種根)を植える。
薄荷は極度に酸性土壌を嫌い、また、連作を嫌う。
「薄荷八年」と言われるように、一年栽培したら八年間は植えても、できないといわれているくらい、酸性、連作を嫌う作物なので、薄荷植栽の前には畑一面に石灰肥料を施す。
収穫期は一番刈りが5月下旬であり、二番刈りは8月中旬である。
10月下旬に三番刈りをする。
一年に三回収穫できるが、三番刈りは収量がよくないし、雨量の少ない年はできが悪い。
三番刈りをしたあと、そのまま長くおくほど良い種がとれるが、麦の作付けのため、そうもいかない。
刈り取った薄荷は縄に 編んだ連を、主屋や納屋の軒下に吊して干す。
干した薄荷は、一村に一つあるいは二つ程度あるウムシガマにいれ、しぼって油を売るのだが、
野立て売りや、縄に編んだ連のままで売るものなどがある。
昭和10年が 最盛期で、昭和35年ごろ衰滅した。
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「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
真田組み
原料は裸麦わらで、
品種のうち、ヤハズは節間が長いので真田用に適している。
青刈したヤハズわらを麦稈燻蒸小屋に入れて、硫黄を燃やして漂白する。
麦わらは穂の方から先・中・三節といい、四節以下は切り捨てる。
麦わらで三平と五平(五ベタ)という真田に編む。
老人・子供といわず、 冬なら炬燵で、あるいは歩きながらでもできる簡単な作業のため、 重要な副業になっていた。
夏には近所中の子供が一カ所に寄って 真田組み、夕方には牛を連れて外出、牛飼い子をしながら真田組みというのが、子供の生活であった。
第二次大戦前小学校では廊下に並んで真田組みの競争をしたり、真田一反組んでくることを 夏休みの宿題に課されたものである。
真田組みの講習会があり、規格にあった綺麗な真田を組んだ者には品評会で等級をつけ、表彰状・賞品を出していた。
第二次大戦後、一時高値をよび、トンビと称する仲買い人が家々を回り買い集めていた。
昭和30年代後半に、経木真田に移行した。
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