しろみ茂平の話

しろみ茂平の話

郷土史と雑記

逃げてもいい人がいた。
老人や赤ん坊や病人。もちろん、弱者優先というわけでなくて、作業の邪魔になるから離す。
人権もヘチマもなかった。

(2026.4.14)

「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版  2016年発行 


防空と刑罰
退去禁止、その違反者への処罰は最大懲役6ヶ月または罰金500円。
この規定により処罰された実例は少ないようである。
しかし、市民へ「空襲を恐れて逃げてはならない」という威嚇効果はあった。
逃げることは武士道にも国民道徳にも反しており、
空襲後も戻る資格はない
「非国民」のレッテルを貼られ社会から断絶される。


空襲のことは話すな、書くな
政府広報誌「週報」


空襲があった場合にはできるだけ早く被害の真相を発表した方がよいのでは?

知らせたいのは山々です。
しかし発表すればそれが筒抜けに敵国へも聞こえるということです。
敵国へ真相をおしえてやるようなものです。
結局、国民を空襲の被害から救おうとしているのです。
人から聞いた話などは言いふらさぬようにしてください。非国民的な行為で、お互いに注意していただきたい。


「臨時郵便取締令」
空襲については、手紙に書くこともはばかられた。
昭和16年10月、臨時郵便取締令が、個人同士の私信を郵便職員が検閲することを認めていたからである。


水と砂
写真週報261号(昭和18年3月3日)
「焼夷弾が落ちたら父はすぐ筵や砂をかぶせ、母と長男が水をかけ、長女が隣組中に知ら
せる」
これでルーズベルトに一泡ふかす。


子供を気にせず消化せよ
「主婦の友」昭和18年7月号
日本の家は燃えやすいが、消しやすいという特徴がある。
赤ちゃんは、できれば隣組の老人や子供たちの手で護るようにしたい。
母親は子供に惹かれる気持ちを強く戒めねばならぬ。

子供から離れて猛火に立ち向かえという指示。


空襲下の出産
お腹が痛み出した、どうしようと産婦自身が慌ててうろうろ動き回ったところで、どうにもなりません。
時が来れば、人手をかけなくても自然に生まれ出るものですから、
産気づいてきたなと思ったら、身体を安静にして、落ち着いて救護の手を待ちます。



母は昭和20年8月、お腹に赤ちゃんがいた。当時の出産は直前まで仕事(農作業)をしていれば、より安産ができるといわれていたが、
それにしても妊婦をバカにした記述と思う。
 

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高射砲は敵機に届かず、消化は焼夷弾を塗れた筵で消す、貧弱な防空壕で身を護る、逃げずにバケツリレーに参加する、逃げた人はコメの配給を止める等の防空体制が確立されていった。

(2026.5.5)




「広島県戦災史」 広島県 第一法規出版  昭和63年発行 

防空体制(一)
米軍による本土空襲が活発化した昭和19年11月以降に、
市民を対象として設定された「避難所・救護所・炊出計画」は、
市内各学の町内単位に草戸稲荷・明王院一帯をはじめ5地帯を避難場所に指定し、
避難場所に救護所・炊出所を開設することとしている。


防空体制(二)
町内会長は防空問題の責任者とされ、昭和18年頃から防空壕がつくられていたが、
20年に入ると、
「個人かもしくは共同で一軒に一ヶは必ず防空壕を設置するよう指導され」た。
市内の空き地に防空壕がもうけられ、壕のうえには土が二尺ほど盛られていた。
芦田川近くの廃川地にはやや大規模な防空壕がいくつもつくられ、
周辺の山はさらに大規模な横穴が掘られて、空襲の際に避難することになっていた。


昭和20年5月~6月に入ると、市幹部は「軍隊を持つ福山市としては空襲は必至」と認識するにいたる。
このころ民家にも屋根に迷彩をほどこし、土蔵・塀の白壁は墨やコールタールを塗って、
上空からの発見を防ごうとした。

空襲から家財を守るための荷物疎開も縁故・知人をたよっておこなわれた。
その状況につき、
「殊に大峠街道は連日連夜自動車、荷車・乳母車あるいは背負いあるいは堤げもってつづきたるものなり」
といわれている。


軍の防空体制は、
誠之館中学校のグラウンド、廃川地(現競馬場)、第41聯隊などに高射砲・高射機関銃が据えられていたが
台数も少なく、性能的にも劣るものであった。
大津野の海軍航空隊には練習用の小型機(通称赤トンボ)が数機あったが、
グラマンの攻撃を避けるために解体し、真鍋島・神島などに分散疎開する始末であった。


防空体制(三)
昭和20年6月に入るとグラマンが大津野の海軍航空隊を攻撃した。
4機編成のグラマンは仙酔島方面から海面すれすれに目標を直撃し、
さらに急上昇・急降下しつつ銃撃を繰り返した。
白い弾跡が2本、しぶきをあげつつ海面を走る。
銃撃が終わったグラマンは、使用済みの薬莢をがらがらと捨てながら、ゆうゆうと神島方面に引き返した。





「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版  2016年発行 

防空法
昭和12年「防空法」が制定された。
”避難については原則として非難せしめざるよう指導する”と明確に定めた。

昭和15年内務省は指導方針を定めた。
「特に認められたもの」以外は退去・非難させず、国民各自が「持ち場を守ること」が指導方針とされた。
「市民は空襲から逃げるな」という方針が確立されたのである。


昭和16年「逃げずに火を消せ」へ改正された。


(燃え盛る火の海で、筵で火を消した人は誰一人いなかったと思える)



空襲は怖くない、消化は簡単、防空は「国民の義務」 
(昭和16年~昭和18年)

「国民防空訓」--避難、退去は一切許さぬ

政府では国民の退去を認めない。
したがって勝手に退去したものに対しては食料等については責任を持たぬ。

だから国民は有事の際自分の家、自分の町、自分の都市は死守せねばならぬ。


貴族院・水野甚次郎議員(=呉市長=五洋建設社長等)の異論

「私は先般の防空演習をみましても”お祭り騒ぎ”の感があるのであります。
あの小さなバケツで水をそばにもっていくような余裕は果たしてあるのか?
火が消しえるのであるか?
全焼を待つよりほかに仕方がないのじゃないかと思うのであります」
内務省
国民がさらなる「熾烈の責任感と、強固な団結」を強めるよう求めた。
各人の防空精神で補えという。



 

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中学校の時、理科の若い先生は野々浜から通勤していた。
よほど機銃掃射の恐怖がしみついて、授業中、小学生で何度も田んぼ道を転げるように走り逃げた話をしていた。



「広島県戦災史」  広島県 第一法規出版  昭和63年発行 

本土空襲が激しくなった昭和19年末ごろから福山の防空体制も緊張してすすめられた。
町内会では会長が防空問題の責任者とされ、防火部長ももうけられた。
昭和18年頃から防空壕がつくられていたが、20年に入ると
「個人かもしくは共同で一軒に一ケは必ず防空壕を設置するよう指導され」た。

芦田川近くの廃川地にはやや大規模な防空壕がいくつも作られ、
市周辺の山にはさらに大規模な横穴が掘られて、空襲のさいに避難することとなっていた。

昭和20年5月、6月に入って、空襲が中小都市におよぶようになると、市幹部は
「軍隊をもつ福山市としては空襲は必至」と認識するにいたる。

このころから民家でも屋根に迷彩をほどこし、土塀・塀の白壁は墨やコールタールを塗って、
上空からの発見を防ごうとした。

空襲から家財を守るための荷物疎開も縁故・知人をたよっておこなわれた。
その状況につき、
「殊に大峠街道は連日連夜自動車、荷車・乳母車或いは背負い或いは堤げ以って続きたるものなり」といわれている。

市と警察の責任者は、福山市が被災した場合は
「梅干しや漬物を入れたにぎり飯」を松永周辺で2万食、春日・坪生周辺で1万食、神辺町周辺で2万食の計5万食を所定の場所に持参できるよう」
計画し、乾パンなどとともに緊急配給することとしていた。


軍の防空体制についてみれば、
誠之館中学校のグラウンド、廃川地(現競馬場)第41聯隊などに高射砲が据えられていたが台数も少なく、性能的にも劣るものであった。
大津野の海軍航空隊には小型機(通称赤トンボ)が数基あったが、グラマンの攻撃を避けるために解体し、真鍋島・神島に分散疎開する始末であった。


昭和20年6月に入るとグラマンが大津野の海軍航空隊を攻撃した。
4機編成のグラマンは仙酔島方面から海面すれすれに目標を直撃し、さらに急上昇・急降下しつつ銃撃を繰り返した。
白い弾跡が二本しぶきを上げつつ海面を走る。
銃撃が終わったグラマンは、使用済みの薬莢を捨てながら、ゆうゆう神島方面に引き返した。
グラマンの攻撃はその後もつづいた。


(2026.7.31)


「本土空襲」  NHKスペシャル取材班  角川書店 2018年発行 

最新鋭戦闘機P-51

1945年3月26日、アメリカ軍は硫黄島を手に入れた。
そこに配備されたのは100機を超える戦闘機P-51。
当時、戦闘機の中でも最新鋭の性能を誇る機体だった。
P-51が、ついに日本の上空へと姿を現すことになるのだが、
この戦闘機が現れたことで戦局は大きく変化した。

これまで日本軍は護衛機なしで飛来するB-29に対して、辛うじて応戦していたが、ここにきて、性能で圧倒するアメリカ軍最新鋭の戦闘機の登場によって、完全に制空権を掌握されることとなった。

戦闘機P-51に護衛された爆撃機B-29は、日本軍による迎撃を受けることがなくなり、次々と軍事都市への爆撃を遂行。
その結果、主要な基地や飛行場は機能しなくなり、アメリカ軍の空襲に対して「迎撃」という行為そのものがすくなくなっていった。
日本による反撃力が弱まったことで、B-29は護衛がなくても単独で爆撃できるようになっていく。

そこで,P-51はこれまでの護衛という任務とは異なる「新たな動き」に出始める。
それは、
「独自の地上攻撃」への移行であった。
爆撃機に比べてはるかに機動力に優れており、焦点を絞った空襲を行うことができた。
小回りを利かせて、低空飛行でターゲットに向かって何度も繰り返し攻撃を仕掛けるようになっていった。



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五大老・宇喜多秀家が築城した岡山城天守閣は昭和20年6月19日、米軍の空襲で落城した。
岡山城の本丸は、旭川や内堀や後楽園に囲まれ、城内には中学校が建っていた。
場所的には、空襲の火災から免れる可能性はあったと想像できるが、
絨毯爆撃がすごいのと、運もなくで炎上した。

父は三度目の入営中で、本土決戦要員で岡山の聯隊にいた。
当時下士官兵で、当日は休暇をとって岡山県小田郡城見村の実家にいたが、
「すぐ戻れ」という電報で岡山に向かったが、汽車が倉敷で止まり、
倉敷から岡山の兵営まで徒歩で戻ったそうだ。
岡山の街ははんぶんくすぼって、匂いながら燃えていた。

岡山の聯隊は無傷で「ミッション(現・ノートルダム清心女子大)があるので大丈夫だった」
と父は言っていたが、
米軍の目標地点は現在の郵便局周辺で、もとから米軍の空襲は岡山の軍隊は無視されていたようだ。



2022年11月27日・ 
岡山後楽園夜間特別開園「秋の幻想庭園」

・・・・・

「城が燃えた」 矢野宏著 西日本出版 2025発行

岡山城炎上

「180都市の空襲候補リスト」は31番目だった。
大小合わせて10万発近い焼夷弾が市民の頭上に降り注いだが、この夜、M74油脂焼夷弾が初めて使われている。
一般的なM69油脂焼夷弾を改良したもので、弾頭部の長さは約51センチ、直径約8センチとほぼ同じで、
重量は約3・8キロ。
M69油脂焼夷弾は落下速度を制御し、垂直に落下するために長さ12メートルのリボン(ストリーマー)を4本つけているが、
M74油脂焼夷弾は伸縮可能なスライド式の金属製の尾翼で、垂直に落ちるようにして貫徹力を増幅させた。
発火性が強く、猛毒の黄燐も詰められており、より殺傷能力を高めた焼夷弾だった。
一度火が消えたように見えても再び発火することがあり、厄介だったという。

先導機によって大型のA47油脂焼夷弾が394トン落とされたあと、M74油脂焼夷弾を前後2段の計38本束ねたE48集束焼夷弾が496トン投下された。
設定された高度で解束され、M74油脂焼夷弾が散らばって落ちていく。
米軍は、そのうちの半数が「爆撃中心点から半径1・2キロ圏内に着弾すれば市街地を焼き尽くせる」と考えていたという。
爆撃中心点は、国道33号と県庁通りの交差点。
現在のNTTクレド岡山ビル前の交差点 付近(北区中山下)である。
陸軍歩兵第10連隊など岡山の軍事の中枢は岡山城から4キロ北西の津島(現岡山大学)にあり、
目標となった爆撃中心点内に軍事施設はない。
住宅が密集し、人口密度が高い市街地を狙った計画的な無差別爆撃だったことは明らかだった。
米軍の「作戦任務要約」には、来襲したB29爆撃機138機の99%が精度の低いレーダに頼ることなく目視で投下しており、
〈成果は甚大。煙が2万フィート(約6000メー トル)まで上昇〉したことが報告されている。


明治の岡山城
旧藩士らの陳情で生き残った天守


1869年の版籍奉還に伴い、最後の藩主池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は兵部省(のちに陸軍省)の所管になった。
新政府にとって封建時代の象徴ともいうべき城は無用の長物。
巨大建築であるがゆえに老朽化が激しく、
岡山城も屋根は波打って瓦がずれ落ち、
壁の漆喰は剥落、
板戸や窓枠は外れ、
草が生い茂るといった有り様だったという。
1871年の廃藩置県で知藩事がなくなり、章政が東京移住を命じられると、城はさらに荒廃していった。
「廃城令」が出された1873年、城の土地建物は陸軍省の財産だったが、
陸軍が軍事に使用するものは「存城」処分。
それ以外は「廃城」処分となり、大蔵省に引き渡して売却用の普通財産とされた。
岡山城は廃城となり、城門や櫓などの建物が次々と取り壊され、堀の埋め立てが行われた。
1882年に旧藩士による陸軍への陳情により、天守は月見櫓や西手櫓、石山門とともに残ったが、
本丸を除く城郭は市街地へと変貌し、かつて五重の堀に囲まれた巨大城郭は威容を失っていた。
1890年、岡山城は旧藩主章政に払い下げられた。池田家の提供により9年、
本丸に県立岡山第一中学校(現県立岡山朝日高校)が建てられた。


・・・・・


「探訪日本の城」  相賀徹夫編 小学館 昭和52年発行

広島に原爆をおとされ、間もなく降伏して戦争はあっけなく終末を迎えた。
ちょうど敗戦になった頃のこと、わたしは烏城のほとりのわが家の焼跡へ出かけていった。
実際、焼かれて間もなく、戦争をやめましたでは、なんだかひどく馬鹿をみた気がするものである。
しかし焼跡に出かけていくと、おどろいたことには、もう両隣には新築の二階家がでんと建っている。
その川ぶちのところは、資産のある者が住んでおり、家を建てるくらいのことに、不自由はなかったのである。
ところが、その川ぶち地帯のむこうには、
数段低くなり、住宅地帯が続いている。
焼けたトタンをかき集めたような小屋が、あちこちに見えるだけである。

それを眺めているうち、戦争の被害というものが、有産層にはさしたるものでなく、
貧しい層へ痛烈な痛手を与えることが、ありありみえてきたものだった。
目にはみえないが、一家の大黒柱を兵隊にとられ、戦死したような家もあるにちがいない。
そういう家庭では、戦争の被害はこれから何十年もの間、いわれのない苦痛を与えられるのである。
こんな不公平な話はないではないか。
二度と戦争なんかするものか。

 

 

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備中や備後の子供たちの、家の手伝いの代表に「真田組み」があるが
それに加えて茂平の子供たちには「干しイチジク」の手伝いがあった。
秋の1ヶ月半くらい、毎日庭に干したイチジクを両手の指で揉んで、裏返す。
その風景は日本に一つの茂平の光景だった。
管理人の家には毎年山陽新聞が来て、それが新聞に載っていた。


茂平名産の「干しイチジク」は市場が神戸や大阪が中心だった。
笠岡や福山や岡山の地方都市には売って無かった。


昭和40年に製造中止だから、今年で60年目だ。

自慢にもならない話だが、管理人は
珍菓「干しイチジク」も、天然記念物「カブトガニ」も食べて大人になった。
その体験者は今や、大半があの世に逝ってしまった。

 

 

・・・


「城見の歩み」


大本 孝太(干しいちじくの祖)

嘉永3年(1850年) 茂平に生まれました。 
小さい時から色々なことに興味を持ち、また器用であったので農業をしながら、 大工の棟梁になって家を建てたりもしました。 孝太さんは干しいちじく作りに初めて成功した人として知られています。
孝太さんは明治38年(1905年)に西洋いちじく「ホワイトゼノアー」の栽培をはじめ、 
明治 44 年(1911年)に干しいちじくの研究を始めました。
はじめの頃はうまくいきませんでしたが、収穫の時期や乾燥の仕方など工夫を重ね、しだいに品質のよいものができるようになりました。
孝太さんの干しいちじく作りは次第に広がり、子どもの葵未太さんも孝太さんの後を受けて研究を重ねたので、 
干しいちじくは全国に知られるようになりました。 
そして、昭和30年(1955年) ごろには笠岡を代表する特産品となりました。


・・・

「高梁川」46号

特産品となったイチジク (干しいちじくの開発)


イチジク栽培の歴史は古く、 西洋種ホワイトゼノアが導入されていました。 
地元の大本幸太が干菓製法を考案 (完熟した生果を硫黄で蒸し、 天日乾燥を行い果を平たくし一週間で製品とする)製菓会社に販売していました。

大正時代から昭和の初期には栽培者も増え乾燥方法も改良されました。 
燻蒸室を作り、練炭火力と硫黄で蒸し、良質な製品ができるようになって栽培も盛んになりました。 
昭和7年(1932年)には 「茂平干しいちじく組合」を結成、共同出荷・検査・販売を行いました。 
五貫目入りの箱詰めにして、神戸・大阪・ 横浜へ共同出荷していました。

昭和13年(1938年)には、 小箱詰め「珍果干しいちじく」として出荷販売しました。 
さらに、昭和20年(1945年) には、手作り自然食品として、岡山鉄道弘済会を中心に販路を広げ、
笠岡特産干しいちじくとして広く愛用されました。 
昭和27年 (1952年)には、農村加工優良組合として山陽新聞社から表彰を受けました。
昭和28年(1953年) には、農村加工補助事業として国の補助があり、組合加工場、集荷場の新築を行い、隆盛時には、栽培面積5haに及びました。

昭和35年(1960年) 頃より食品衛生法による検査が厳しくなり、干しいちじくは硫黄分が検出され、 
組合として岡山県農業試験場・ 岡山工業試験場・大阪府立園芸試験場の協力の下、製造乾燥法の改良研究を重ねました。 
改良されたいずれの方法も製造に日数を要し、人件費材料費がかさみ、品質の面では、色合いが自然食品としてイメージがよくない情況でした。 
昭和39年(1964年)に、食品衛生法に抵触した場合対応のしようがないということで製造販売中止となりました。
昭和40年(1965年)には、生食用として市場に出荷したり、加工会社に販売したりしましたが、 採算が取れず在来種に戻しました。 
特産珍果「干しいちじく」は市場から姿を消しました。

 

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