しろみ茂平の話

しろみ茂平の話

郷土史と雑記

備中や備後の子供たちの、家の手伝いの代表に「真田組み」があるが
それに加えて茂平の子供たちには「干しイチジク」の手伝いがあった。
秋の1ヶ月半くらい、毎日庭に干したイチジクを両手の指で揉んで、裏返す。
その風景は日本に一つの茂平の光景だった。
管理人の家には毎年山陽新聞が来て、それが新聞に載っていた。


茂平名産の「干しイチジク」は市場が神戸や大阪が中心だった。
笠岡や福山や岡山の地方都市には売って無かった。


昭和40年に製造中止だから、今年で60年目だ。

自慢にもならない話だが、管理人は
珍菓「干しイチジク」も、天然記念物「カブトガニ」も食べて大人になった。
その体験者は今や、大半があの世に逝ってしまった。

 

 

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「城見の歩み」


大本 孝太(干しいちじくの祖)

嘉永3年(1850年) 茂平に生まれました。 
小さい時から色々なことに興味を持ち、また器用であったので農業をしながら、 大工の棟梁になって家を建てたりもしました。 孝太さんは干しいちじく作りに初めて成功した人として知られています。
孝太さんは明治38年(1905年)に西洋いちじく「ホワイトゼノアー」の栽培をはじめ、 
明治 44 年(1911年)に干しいちじくの研究を始めました。
はじめの頃はうまくいきませんでしたが、収穫の時期や乾燥の仕方など工夫を重ね、しだいに品質のよいものができるようになりました。
孝太さんの干しいちじく作りは次第に広がり、子どもの葵未太さんも孝太さんの後を受けて研究を重ねたので、 
干しいちじくは全国に知られるようになりました。 
そして、昭和30年(1955年) ごろには笠岡を代表する特産品となりました。


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「高梁川」46号

特産品となったイチジク (干しいちじくの開発)


イチジク栽培の歴史は古く、 西洋種ホワイトゼノアが導入されていました。 
地元の大本幸太が干菓製法を考案 (完熟した生果を硫黄で蒸し、 天日乾燥を行い果を平たくし一週間で製品とする)製菓会社に販売していました。

大正時代から昭和の初期には栽培者も増え乾燥方法も改良されました。 
燻蒸室を作り、練炭火力と硫黄で蒸し、良質な製品ができるようになって栽培も盛んになりました。 
昭和7年(1932年)には 「茂平干しいちじく組合」を結成、共同出荷・検査・販売を行いました。 
五貫目入りの箱詰めにして、神戸・大阪・ 横浜へ共同出荷していました。

昭和13年(1938年)には、 小箱詰め「珍果干しいちじく」として出荷販売しました。 
さらに、昭和20年(1945年) には、手作り自然食品として、岡山鉄道弘済会を中心に販路を広げ、
笠岡特産干しいちじくとして広く愛用されました。 
昭和27年 (1952年)には、農村加工優良組合として山陽新聞社から表彰を受けました。
昭和28年(1953年) には、農村加工補助事業として国の補助があり、組合加工場、集荷場の新築を行い、隆盛時には、栽培面積5haに及びました。

昭和35年(1960年) 頃より食品衛生法による検査が厳しくなり、干しいちじくは硫黄分が検出され、 
組合として岡山県農業試験場・ 岡山工業試験場・大阪府立園芸試験場の協力の下、製造乾燥法の改良研究を重ねました。 
改良されたいずれの方法も製造に日数を要し、人件費材料費がかさみ、品質の面では、色合いが自然食品としてイメージがよくない情況でした。 
昭和39年(1964年)に、食品衛生法に抵触した場合対応のしようがないということで製造販売中止となりました。
昭和40年(1965年)には、生食用として市場に出荷したり、加工会社に販売したりしましたが、 採算が取れず在来種に戻しました。 
特産珍果「干しいちじく」は市場から姿を消しました。

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山陽新聞社から発行されている「岡山県戦後の50年」という、分厚い報道写真集の本がある。
この本に「茂平」が登場するのは一ヶ所だけ。それは昭和30年の茂平婦人消防隊の訓練である。

戦時下の昭和16年、日本で初めて「婦人消防隊」が既婚女性90名で発足した。
どうして、茂平にだけ婦人消防隊ができたのだろうか?

 

父の話

それはのう、みんな若いのは戦争へ行って消防の団員がおらんようになった。少のうなった。
それとのう、あの頃古いポンプがあった。いらんようになったのが、それを婦人消防隊にやった。
古い(手漕ぎの)ポンプ車で始めた。

(それだけの理由では弱い。何処の村も町も似たような状態。 茂平に火事が特別多かったのか?)

茂平に火事が多いんじゃあない。
用之江や大宣には山に囲まれ坂があるし、イザという時(応援の消防が)来るのが遅い。
茂平は山に囲まれ、まとまっとった。「おい」言えばみんな集まりょうた。村の人間が、すぐ集まるまとまりがあったんじゃ。
男がそうじゃけい、女もそうじゃった。

おじいちゃんが兵隊から帰って、こっちへ帰っとる時にこしらえた。ださあの親父が消防の親分をしとる時じゃった。

母の話・結成の1年後に母は茂平に嫁いできた)

嫁入りと同時に「国防婦人会」と「消防」には・・・当然のように・・・入った。
大本の産婆さんが役というか世話をされていた。
(できたのが)早かったので、めずらしかった。

 

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「城見の歩み」

茂平婦人消防隊
六十人で百五十戸守る

茂平婦人消防隊は、戦時下の昭和16年(1941年) 9月14日、 日本で初めて「婦人消防隊」として誕生しました。 
「銃後のまもりとして」 生まれ、 初代会長は大本八重子さん、 90名での発足でした。
当時は、嫁入りと同時に消防隊に当然のように入り、制服・制帽を作り、 研修会を開くなど、 意欲的な活動を続けてきました。 

隊員の信条は 「自分の家から火を出さない」事で、 研修会や操法訓練などには、 皆、積極的に参加し7割以上の隊員が顔を出していました。 
昭和63年(1988年)には、 全国婦人消防操法訓練大会に出場し、8位に入賞しました。 
「婦人消防隊が存在することは、家庭の防火意識を高め災害予防に役立つことだ」と地区民は語っています。

昭和60年~平成にかけて各地で婦人防火クラブが結成されましたが、 消防隊の名前は茂平だけです。

 

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管理人の高祖母は弘化3年(1847)に備中国吉浜村に生まれ、茂平に嫁ぎ、昭和18年(1943)に亡くなった。
亡くなった当時に長寿番付があるとすれば、岡山県内で3番目以内程度と予想される。

高祖母の暮らしについて、父母やおじおばに何度も話を聞いてみたが、
残念ながら、晩年の高祖母が「日向ぼっこ、たまに真田組みをしていた」程度しか聞けなかった。


江戸時代や明治に、高祖母は何を食べていたのだろう?
たぶん昭和前期まで、大きな変化はなかったと思われる。
主食は米・麦・黍
副主食にサツマイモ
おかずは、さえんで作るほぼ全野菜。海辺で採取する貝類であっただろう。

 

(管理人の高祖母・1847~1943)

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「瀬戸内文化誌」 宮本常一  八坂書房 2018年発行

生活を変えたサツマイモ 

18世紀に入るとさらに活気が出てきます。
それはこの地方でサツマイモが作られるようになったからです。
この地方でサツマイモがはじめて作られたのは、寛文八年(1668)のことであったということです。
しかしほんとうに さかんに作られるようになったのは、享保十七年(1732)の大飢饉の後のようで、
ほんのわずかの間に内海の島じまで作られるにいたったのです。
サツマイモは少々日やけのときもできます。
そこで急な山の斜面をひらいて段々畑をつくりそこにサツマイモを植えました。
食べるものがじゅうぶんあれば人は安心して働けます。
その上、海に魚がいるので、それをとってたべるなら栄養もじゅうぶんにとれます。
ですからサツマイモが作られるようになると、人口がぐんぐんふえはじめます。
そしてふえた人たちは農業以外の仕事を見つけて働くことになります。
まず、綿を作って、その綿を糸につむいで綿布を織ります。 
機織りの仕事はずいぶんさかんで、どの島でも女たちは木綿を織りました。

 

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「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行

 

二毛作・三毛作


水田の二毛作地帯では、裏作で麦を作ったが、
畑地では麦の二毛作・三毛作が行われた。
夏作といって、
ササゲとかアズキ、または大豆などを収穫したあとに、粟とか黍、あるいは蕎麦を作り、そのあとに麦を植えれば三毛作となる。 
サツマ芋を収穫したあとに麦を蒔けば二毛作となる。 
水田にしろ、畑地にしろ、休閑することはなく、(菜園を除けば)どの田畑にも毎年麦を作付けしたほどである。

 

サツマ芋

サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。享保(1716~1736)の飢饉切り抜け策として、
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて、普及に努めた。
その遺徳は追慕されて芋代官と呼ばれた。
サツマ芋は享保の飢饉を境に多く作られるようになった。
日照りの年には、栗や黍、蕎麦さえも、ほとんどとれなくても、サツマ芋だけは収穫があった。 
荒れ地、開墾地にもけっこう育ち、豊凶が少ないうえ、税の対象にもならなかった。

サツマ芋は熱帯作物であるため、腐りやすいので、イモ壺とかイモガマといって、
床下とか縁の下に、四角い大きな竪穴を掘り、穴の周辺には小麦わらを立て、底にはスクモ (籾殻)を敷き、
その上にサツマ芋を一面に並べ、またその上にスクモを入れ。こうして年中食べる分をいれておいた。


 

高祖母の98年という長い一生のうち、
サツマイモが主食であった時は一度としてなかったと思える。


ところが高祖母の死から2年後の昭和20年、
日本はサツマイモが主食の状況に置かれた。
学校の校庭は半分イモ畑になり、生徒たちは道ばた落ちた牛や馬のフンを拾い集めた。

昭和20年8月の玉音放送、9月のミズーリ号がなかったとしたら
日本は、世界の近代史上類を見ない飢餓地獄での敗戦となっていたに違いない。

 

 

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江戸時代や明治に、高祖母が作っていたものは何だろう?
米・麦・黍
サツマイモ
綿花がすぐに思いつく。

江戸時代後期から明治中期まで、綿は瀬戸内地方を代表する農作物だった。


茂平の吉原地区は江戸中期の干拓地で、土地は塩分があった。
父の話では麦の裏作だが、
父以前では綿が表作であっただろう。

吉原には管理人が小学生の時まで綿畑が点在していた。
白くふいた綿畑の光景は今でも印象深く覚えている。

綿は白い部分を仲買人のような人が集めにきていた。
売るのでなく綿打ちをしてもらっていた。
ちゃんちゃんこの中にいれたり、ふとんに入れていた。

 

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(管理人の高祖母・1847~1943)

 


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(父の話)
綿

綿は塩分をいくらか含んだところの畑で、麦の後作で植えていた。
ほりあげの畑に植えとった。内海のネキは塩分があるんで。
綿はようできとった。

談・2001年1月5日


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「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


綿

綿の本格的栽培は江戸時代から明治20年ごろまでである。
安い外線の輸入によって生産が減少した。
無霜期間200日(7ヵ月近く)といわれるように、霜に弱い作物である。

温暖な地方でも「地に合う」ところと、合わないところがあり、合わない田畑では綿がふかない。
「地」に合う田畑では毎年のように作られたので、その田畑は「ワタバタケ」と名が付いていたほどである。
県南の干拓地ではまず綿を植え、シオヌキをした。
金肥として干鰯などが重要な肥料であった。
収穫は手摘みで人手を要したので、子供たちをかり出して手伝わせた。

 

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「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

綿

平地で作られた。
春八十八夜ごろに蒔いて、8・9月ごろに収穫した。
綿の実がふいてくると、摘んできて干し、実と綿の繊維を分けて、綿打ちをした。
綿打ちの大きな弓をもって綿打ち廻った。
糸にしなくなってからは布団綿にして自家用に作られた。

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綿

「金光町史」

金光町は浅口郡内でも有数の綿の産地であった。
幕末から明治初めまで、綿を各地で栽培し、実綿や繰綿を玉島港に出していた。
このあたりの綿作の最盛期は天明2年(1782)のころであろう。
稲よりも綿収益が上り、アゲ田をした。
アゲ田とは肥土を除けて砂を入れ肥土を戻す、綿作によい。
収穫したのが実綿で、それを綿繰機(ネジワク)で繊維と実を分け、
繊維が繰綿になる。

繰綿は、綿打ちの弓で繊維をほぐす。
綿打ち屋に頼んで綿打ちをしてもらった。
次に枡の裏などの上で綿を薄く延ばしてシノに巻き、糸車で撚りをかけると手引きの木綿糸になる。
手引きの糸は太さが一様でなく、仕事着によかった。
ほぐした綿は布団綿にしたり、着物の中綿に入れた。


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綿

「福山市引野町誌」 

水野藩は大規模な新田、塩田の造成を行ったが
新田をはじめとして藩内に綿作を奨励した。
藩は綿を米の代替えとして租税の対象とした。
新田での綿作が、商業的ペースに乗ったのは、水野藩末期から阿部藩に入ってからと思われる。
江戸時代中期には米作よりも有利なため盛んに綿作が行われていた。
末期になると良田化も進み、田は米作が主体となったようである。
明治になって更に増えて、備後の特産物のトップとなった。
ところが外国綿が輸入され明治18年を頂点にその後急減。
明治29年の綿花の関税が撤廃されるに及び、凋落は決定的となった。
綿作に代わって興隆してきたのが養蚕といわれている。

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「福山市史 下」 福山市 昭和58年発行

綿花
 

とくに明治23(1890)年以降の凋落は大きい。
この時点の綿作の凋落については、在来綿花が短毛で硬く、新興の機械紡績の原料として不適当であった。
海外の大規模農業による廉価な輸入綿花に太刀打ちできなかったことの二点にその原因がもとめられる。

いずれにしても、綿の大量栽培地であった備後南部は、
藺草を栽培する沼隈郡を除いて適当な代替作物が見出せぬまま明治後期にまで及んでおり、
農業上大きな混迷状態を続けているのである。

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「倉敷市史8」

綿作り

綿作には多くの手間と大量の干鰯や油粕といった金肥が必要とされ、
さらには天候によって作柄が大きく左右されやすい危険性もあったが、
綿花は、
各家庭で衣類や布団綿を自給自足するためばかりでなく、
農家に貴重な現金収入をもたらす商品作物として盛んに栽培されるようになった。

明治20年代後半になると生産量は急速に低落する。
以後は自家用の布団綿などが細々と生産されるにすぎなくなった。

明治13年に倉敷村に生まれた山川均は、その自伝で
「ふだん着は糸車から織った手織り木綿で、
少なくとも綿を作る農家は、糸を買う必要がなかった。
たいていの農家は、綿を作っていた。
ところが、機械で紡いだ紡績糸がでてくると、その方がはるかに精巧でしかも経済的だった。
そこでお百姓の家庭でさえも、糸車は急速に納屋や天井裏に追放され、綿の栽培はまれにしか見られぬようになった。」

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「神島史誌」 神島協議会  昭和60年発行

木綿

木綿作が笠岡・神島あたりにいつごろ入ったかはっきりしない。
ただ 慶長年間、備後の沿海部の村々で、綿の栽培があったことが知られる。
水野領の時代、芦田 川口をはじめ、沿海部 一帯に次々と開拓され田畑を中心に、綿花栽培が増大した。 

まじりに碁石のごとき小石ある土地、または性よく強き中分の土」が綿 の適地と説く。
これは適期に油かす、干鰯など速効性肥料を多量に施し、成熟期には肥料分の地中に残らないことを目的としている。
また綿作は 稲作の三倍の働き手が必要としている。
木綿で衣服をつくり、冬の寒気を防ぐので『農業全書』は「賤(しずが)山がつの肌までをおほふ事、誠に天恩のなす所にして、これ則ち天下の霊財と云ひつべし」としている。

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茂平の農家は栽培していた綿花を、
紡いで織って縫って着る。
余剰品は売って換金していた。
 

綿花栽培を止めて、
糸や布は買うようになった。
綿花の代わりの作物が必要となった。

綿花の代わりに果物を作るようになった。
果物は茂平を代表する産業となった。

 

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明治になって日本は生活も食も大きな変化があったが、
食では明治20~30年ごろから果物を食べるようになった。

果物栽培を代表する桃は、岡山県から多くの先駆者が出ている。
笠岡の渡邊淳一郎、
赤磐郡の大久保重五郎は「白桃」を発見、
井原の山室運平、
そして茂平・国繁の松浦岩蔵さん。


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「城見のあゆみ」 城見地区まち協  2017年発行

城見の果樹
松浦岩蔵(城見の果樹王)

明治2年(1869年) 大宜に生まれました。 若い時から勉強好きで特に果樹栽培に熱心でした。 
日清戦争後 (1893年ごろ) 大宜から国繁に移って山林2haを開墾して 「国繁園」と名づけ、 
夏だいだい・ワシントンネー ブル・温州蜜柑・梨・甲州ぶどうを栽培し、
ぶどうのマスカットハンブルグを畑で栽培することに初めて成功しました。 
また除虫菊の山地での栽培にも初めて成功しました。 
この地方に現在のように果樹栽培が発展したのは岩蔵さんの研究と苦心があったからです。
岩蔵さんが生まれた大宜には小さな田畑があちこちに散らばっていて、農業をするにはとても不便でした。 
岩蔵さんは、軍隊に行っている時も農業の本を買って研究をしていましたが、 
農業の将来に不安を感じていました。 
そこで岩蔵さんは除虫菊栽培をヒントに、この地でのこれからの農業は果樹栽培が中心になると考え、
手元にある田畑を小作に出し、思い切って国繁に出て果樹栽培を始めることにしました。

 

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有岡利幸 法政大学出版2012年発行

「桃」 

 

縄文時代に桃が渡来して以降ずっとその果実を、
食用や薬用として利用してきた。
桃の果実は小さくピンポン玉程度の大きさであった。
現在私たちが見るような巨大な果実は、
明治以降改良が行われたもので、近世以前のものとはくらべられない。
別種と考えてもよいほどの違いがある。

梅も桃も、
春の咲く花は美しさを愛でるというよりも、
薬の材料がたくさんできたなあというようにみられ、
そして実を結んだのちには、その実が薬とされた。

桃太郎
流れてきた桃は、川上からではあるが、
上流に桃畑があったような気配は伺えない。
流れてきた桃は神の授けてくれた桃で、木に生っている桃の実でない。


明治以降の桃
大きな果実をつける桃
 

明治時代になると、政府は勧業奨励のため、各種の事業に干渉してきたが、
農業も同じ熱心さで保護奨励につとめた。
明治初年に北海道を開拓するため、いわゆる開拓使を置き、
主としてアメリカより各種の果樹を買い入れた。
けれども当時の北海道は山林原野のすがたをとどめた土地であった。

今の新宿御苑に、もっぱらヨーロッパ種の果樹・野菜の種苗を輸入し、栽培して繁殖させ、各地に配布していた。

桃も明治6年、ヨーロッパから7品種、中国から華北系と華中系品種が導入された。
これらは在来品種に比べて果実が大きく、内質や風味が優れ、とくに中国から導入された上海水密桃と天津水蜜桃が注目された。

桃は明治初期には東京で苗木を養成し、有志の者に配布していた。
明治11年に清国から導入した水蜜桃がはじめて結実した。
明治28年以後に至って、
岡山県では土用水蜜桃、六々園水蜜桃、離核水蜜桃、白桃が発見され、
これらは有望種として各地で栽培されていった。

明治32~33年ごろ、
東京神田の果物店に天津水蜜桃が陳列され、
珍しくて立派な桃として一個十五銭でとぶように売れたという。

岡山県はむかしから桃樹栽培が発達したところで、
明治6年小田郡の渡邊淳一郎がはじめて桃樹の栽培に着手した。
御津郡の山内善男は、果実に袋掛けをしたところ、害虫の被害を免れた。
これにより岡山県下では栽培する者が増加し、年を追うごとに産額が増加したのである。
赤磐郡の大久保重五郎は「白桃」を発見、
白桃の育成は、わが国の桃栽培の歴史における品種革命といっても差支えないであろう。
大久保は離核化のため大正末期に「大久保」を育種交配した。


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「日本の農業4果物をそだてる」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

果樹の話


庭先果樹という言葉もあるように、日本では果物は、古くから農家の庭先などでつくられていました。
商品として栽培されるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。
明治時代には、外国から新しい品種が入り、品質も向上し、生産量が増えていきました。
第二次世界大戦で一時減少しましたが、昭和35年頃から急激に増え、昭和50年には667万トンに達しました。
しかし農産物の自由化により輸入が増え、その後毎年減りつづけ平成19年(2007)には約350万トンになっています。
とくに温州ミカンの減少が著しい。

生産量は減っていますが、消費量は少しづつ増え平成19年(2007)では約850万トンになっています。
このうち外国の果樹が約60%を占めています。

 

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「小田郡誌」


果樹園芸

本村の果樹栽培は殆ど大字茂平に属し、
海岸に沿える部落にして三面山、海に面するが故、気温他の二大字に比し暖なり。
本村の果樹は明治25、26年頃夏橙作付。漸次柑橘の栽培盛んにして、
近年
葡萄・無花果・梨・桃等の産出を見るに至る。

 


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「瀬戸内の産業と交通」  横山昭市 瀬戸内海環境保全協会 昭和54年発行


明治の農業
小豆島

ところで現在の小豆島での主な農作物は、米をはじめジャガイモ・タバコ・ミカン・キクなどである。
ここではそれらの作物も含めて、小豆島における明治以後の主な作物の変化についてふれてみよう。

小豆島では明治時代のはじめごろは米や麦・サツマイモなどの生産が中心であった。

その後、明治時代の中ごろから終わりにかけて商品作物としてリンゴや温州ミカン・オリーブなどが導入された。
まず、リンゴ は明治20年(187)に二生村(池田町)へ導入されたが、それは早生種が中心であった。
これらのリンゴは 「青リンゴ」と呼ばれ、関西市場で好評であった。
しかし、明治時代の終わりから大正時代に綿虫の被害が発生したため、生産が一時減少した。
大正時代の終わりには硫酸ニコチンが綿虫対策に効果をあげたことから、再びリンゴ生産が増加し、昭和10年ごろに最盛期をむかえた。
その後は第二次世界大戦の影響や、戦後の青森県や長野県などのリンゴにおされて、小豆島のリンゴ生産は衰えた。
このリンゴに代わって、昭和30年ごろからスモモの生産が池田町で盛んになってきている。

 

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父の話 (2002)

 数字は「小田郡史」城見村の数


年間収入 一戸平均年収 485円

そわんもねぇ。(そわぁな、もんじゃった。)

桃 353本


梨 2433本

梨が多かった。
どうめん・うつろ・しんがい、皆梨を植え取った。

腐って、予防しつきょうた。
雨が降りそうないえば予防、止めば予防。

タゴへ(予防薬をいれて)手押しポンプでするんじゃった

20世紀はおいしゅうて、おいしのができょうた。

やすうなりだしたんと、
腐るばあするんで、桃に植え替えた。(作者記・昭和20年代前半か?)


葡萄 16700本

「きゃん」葡萄が多かった。

牛 95匹


うさぎ 759000匹
殺して食ようた。

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