【戦後の日米中台 関係の時系列】“台湾有事”めぐる発言 高市首相「撤回するつもりはございません」 | ☆Dancing the Dream ☆

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孫崎先生が、サンフランシスコ条約に始まる日本が国際社会に復帰する経緯を解説されていた。

孫崎先生の発言は、条約の精神を伝えてくれているとは思うが、やや不正確なのでは?と思うところもある。サンフランシスコ条約は、「世界に対して日本が行った約束」ではなく、署名国限定で、中国(PRC/ROC)は非署名。中国は冷戦下の代表権問題で招待されず、条約義務の対象外。

 

ということで、「日米中台 関係の時系列」を改めて調べてみた。

 

前代未聞の高市発言(11/7衆院予算委員会)。

「台湾有事は日本の存立危機事態(日本有事)」との言葉が、国内のみならず、日中、日米間で波乱を呼んでいる。

 

日本の新米総理のこの無神経で幼稚な発言が、いかにデリケートな国際外交防衛の均衡をぶち壊すものであるのか。

いまだに「撤回はしない」「明言は慎む」などと意地を張っている。

速やかに、撤回すべきである。

 

重要なのは、米国は「台湾関係法(Taiwan Relations Act)」を維持し、台湾の防衛について「あいまい戦略」を続けているということ。

あの破壊神のようなトランプでさえもこれに準拠している。

Fox Newsでトランプが高市を発言について問われ、「同盟国も友達ではない」と突き放し、「習近平とは仲良くやっている」と述べたのも当然だ。

 

日本には、米国の台湾関係法(Taiwan Relations Act、1979年)のような、台湾(中華民国)との非公式関係を法的に位置づける直接的な国内法は存在しない。

それは、日中国交正常化(1972年)の「一つの中国」原則を尊重し、中国との関係悪化を避けるため、法的明文化を控えているのが主な理由。

日本も米国の「あいまい戦略」を参考にしつつ、中国に配慮で法的拘束を避けている。

 

 

 

高市首相「撤回するつもりはございません」 “台湾有事”めぐる発言の波紋続く(2025年11月10日)

 

 

 

 

 

 

時事放談(2025年11月) 孫崎享 × 鳩山友紀夫

 

 

【日米中台 関係の時系列】

 

サンフランシスコ平和条約(1951年)

サンフランシスコ平和条約は、日本が連合国(主に米国、英国など)に対して戦争損害の賠償を認める内容を含んでいるが、中国(中華人民共和国または中華民国)は条約の署名国・当事国ではなかった。

これは、冷戦下での中国の代表権問題(国連での中華民国 vs. 中華人民共和国の対立)が原因で、中国側が招待されず参加できなかったためである。

日本は「戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される」と定めているが、これは署名した連合国に限定される。

 

日華平和条約(1952年)

日本は1952年に中華民国(台湾)との「日華平和条約」を結び、中国側の賠償請求権を放棄させる形で合意した。ただし、これは限定的な内容で、中華人民共和国(北京政府)はこれを認めず、戦後補償問題を巡る対立が続いた。

 

米華相互防衛条約(1954年)

1954年12月3日、米国と中華民国(台湾)間で署名。

この条約は、朝鮮戦争(1950-1953年)の余波から、台湾海峡の共産中国の脅威に対抗するため、

日米安全保障条約、米比相互防衛条約などとともに対共産圏包囲網「封じ込め」戦略の一環として、

特にアジアにおいては中国の共産党政権を仮想敵国とする軍事同盟網の一つであった。

米軍の台湾防衛義務を明記し、米軍駐留を可能とした。

のちにこの条約は米中国交正常化(1979年1月)によって失効した(1979年12月31日まで)。

これにより「台湾関係法」が非公式防衛の代替として成立する。

 

国連での中国代表権移譲(1971年)

1971年10月25日、国連総会で決議2758号が採択され、中華人民共和国(PRC、北京政府)が「中国の唯一の合法代表」として認められた。これにより、中華民国(ROC、台湾政府)が国連から排除され、中国が安全保障理事会の常任理事国席を獲得した。冷戦下の米中接近(ニクソン訪中)の影響で発展途上国側の支持が鍵となった。

 

米中共同声明(上海コミュニケ)(1972)

1972年2月27日、ニクソン米大統領の中国訪問(初の米大統領訪中)時に発表された米中共同声明。

上海の錦江ホテルで署名され、米中関係正常化の基盤となった。 

米国は「一つの中国」原則を認め、台湾は中国の一部と理解(ただし、平和的解決を強調し、軍事介入については曖昧さを残した)両国は相互不信を認めつつ、対話と平和共存を約束。

台湾問題の平和的解決と米軍の台湾撤退意図を明記(台湾からの米軍撤退は1979年に完了)。

「冷戦」下の米ソ対立で、米国が中国をソ連包囲網に引き込む「三角外交」の産物である。

米中関係の「破氷(ice-breaking)」とも呼ばれた。

 

日中国交回復(1972年)

1972年9月29日の日中国交正常化の際、田中角栄首相・周恩来首相の会談、日中共同声明において、

中華人民共和国政府は日本に対する「戦争賠償の請求を放棄する」と宣言した。

周恩来は賠償放棄の理由として、「日本人民も戦争の被害者であり(軍国主義の犠牲者として)、両国国民の友好のために請求しない」旨を述べ、田中・日本国政府は「台湾は中華人民共和国の領土の一部であることを十分に理解し、かつ尊重する立場を表明する」と述べている。 

賠償放棄は無条件ではなく、日本側が「一つの中国」原則を尊重することがその前提となっている。

日中国交回復(1972年9月29日)は、背景には冷戦下での米中接近、ニクソン訪中(1972年2月21-28日)の影響もある。

 

日華平和条約を事実上破棄(1972年)

周恩来は中国側の「三原則」(①中華人民共和国を中国の唯一の合法政府と認める、②台湾を中国の一部と認める、③戦争賠償請求を放棄する)を提示し、田中首相はこれを了承。

田中は「台湾の将来の地位はポツダム宣言に基づくべき」との従来の立場を維持し、中国側の立場を「理解し尊重する」と柔軟に表現することで合意に至った。 

この日中共同声明の直後、1972年10月1日頃、中江要介参事官が台北の外交部を訪れ、中華民国政府(蔣介石政権)に「中華民国との外交関係を終了する」こと、「日華平和条約(1952年締結)は終了する」ことを伝達し、条約は事実上破棄され、日本は台湾に大使館を閉鎖し、駐日中華民国大使も帰国した。これにより日台関係は「非公式化」(交流協会などの民間機関を通じた交流)が基盤となった。

 

米中国交正常化(1979年)

1979年1月1日に鄧小平が中国の要人(副主席)として初めてアメリカを訪問、カーター大統領との間で

米中の国交正常化が合意された。
難航した台湾問題の交渉では、結局アメリカは台湾からの駐留軍を撤退させる代わりに、武器援助は続けることで妥協案が成立。その結果、アメリカは台湾政府(中華民国)と断交し、米華相互防衛条約が失効した。

 

米国の「台湾関係法(Taiwan Relations Act)」(1979年)

台湾関係法(公法96議会-8、1979年4月10日成立)は、米国が中国との国交正常化(1979年1月)後に台湾(中華民国)との非公式関係を維持するための国内法。

この法は、台湾の防衛について、米国の「厳格な義務(obligation)」として明記せず、「政策(policy)」として位置づけ、抵抗能力の「維持(maintain the capacity)」や防衛兵器の「供給(make available)」を「期待(expectation)」や「適切な行動(appropriate action)」として表現し、法的強制力を避け、「あいまい戦略」をとっている。

「防衛義務ではないが、強い期待を示す」と解釈したカーター政権以降のレーガン、クリントン、オバマ、トランプ、バイデン政権でもこの曖昧さが堅持されてきた。

第二次トランプ政権でも、この「あいまい戦略」を継続。

トランプは、日本の高市総理の「台湾有事は日本有事(存立危機事態)」との発言(25年11月7日衆院予算委・岡田克也への高市答弁)に対し、「同盟国も友人ではない」と突き放している。

 

米華相互防衛条約を破棄(1979年末)

米中国交正常化により、米国は台湾政府(中華民国)と断交し、米華相互防衛条約が失効した。(1979年12月31日まで)