無言で小泉進次郎が、8月15日靖国神社を参拝・・・これは最早喜劇だ!池亀彩・京都大学教授。安冨歩・東京大学名誉教授。一月万冊
戦前:
招魂社は国家神道(近代天皇制下の国教制度)の一部として、内務省や陸海軍によって管理された一種の国家機関。明治維新前後から国家のために殉難した人々の霊を祀るために設立された神社。
靖国神社や護国神社の前身。
1869年に東京招魂社(現在の靖国神社)が創建され、1879年に靖国神社に改称された。
また、地方の招魂社は1939年に護国神社と改称された。
靖国神社は特に、明治天皇の勅命により創建され、別格官幣社として特別な地位を有していた。
(官幣社:国家が直接管理し、祭祀費用を国庫から支弁する最高位の神社。
国幣社:国家が管理するが、地方の藩や県が祭祀費用を一部負担する神社。官幣社より下位。
別格官幣社:特定の功績や歴史的意義を持つ人物・出来事を祀る神社で、官幣社や国幣社とは異なる
特別なカテゴリー。序列としては官幣社と同等またはやや下位とされるが、特殊な役割を持つ。)
戦後:
1945年の第二次世界大戦終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の「神道指令」により国家神道が解体され、靖国神社や護国神社は国家の管理から離れ、宗教法人法に基づく単立の宗教法人となった。
靖国神社は1946年に東京都知事の認証を受けて宗教法人として再出発し、現在も単立の宗教法人として運営されている。護国神社の多くは神社本庁に所属する宗教法人となった。
靖国神社:
戦後は宗教法人靖国神社として存続し、神社本庁とは包括関係にない単立の宗教法人。
<千鳥ヶ淵戦没者墓苑>
千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、1959年に日本政府によって設立された戦没者慰霊施設で、日中戦争および太平洋戦争で亡くなった身元不明または遺族に引き渡せなかった戦没者の遺骨を安置している。この施設は、政教分離原則に基づき、特定の宗教や宗派に属さない「無宗教」の施設として設計されている。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、靖国神社のような神道に基づく宗教施設とは異なり、あらゆる信仰を持つ人々が違和感なく追悼できる中立的な空間として運営されている。慰霊行事も宗教的儀式を排除し、黙礼や献花を中心とした形式で行われる。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、国家が管理している。
環境省が敷地の維持管理を、厚生労働省が増設納骨室の管理を担当し、国の責任で運営されている。
特定の宗教法人に依存せず、国民公園の一種として位置づけられている。
象徴的施設である六角堂に安置された陶棺には、昭和天皇から下賜された骨壺があり、全戦没者を象徴する遺骨(戦場から収集された遺骨の中から身元不明の遺骨で、軍人、軍属、一般邦人を含むすべての戦没者を代表する象徴)納められている。
六角堂の六角形は、無宗教の施設として中立性、「すべての戦没者を平等に慰霊する」という理念を体現している。
靖国神社参拝に関する政府の基本的立場 外務省 平成17年10月
(※小泉純一郎総理の靖国神社参拝について)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/yasukuni/tachiba.html
大村益次郎は、東京招魂社をアーリントン墓地のようにしたかった
大村益次郎(村田蔵六)は、維新の十傑の一人。
戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者。
日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖。
明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、「東京招魂社(現在の靖国神社)」を建立。
大村は、近代国家の軍隊には、アーリントン墓地のような非宗教的で国家的な追悼施設で、無名の戦死者を慰霊する精神的な動員装置が必要だと考え、「東京招魂社」を建立することを献策。
東京招魂社が明治2年に勅命により創建された。
大村益次郎は、近代的な徴兵制や廃刀令など急進的な軍制改革を推進したため、武士階級の特権を奪う政策に反発した尊王攘夷派の士族らに暗殺された。
実行犯は長州藩出身者を含む8人で、武士の伝統を重んじる思想と大村の改革が対立したためである。
東京招魂社が神社になったのは、明治政府が国家神道を政策にシフトし、戦死者を「英霊」として神格化することで国民の忠誠心と軍事精神を高める意図があったためである。
東京招魂社は、明治12年(1879)に靖国神社と改称され、宗教的色彩の強い靖国神社に変容した。
日本には「共同体Community」という概念はない
「共同体」という言葉は、近代日本の翻訳語として西洋の「community」を取り入れたもので、
Communityとは、西洋のキリスト教の「教区(congregation)」や市民社会の集団を指す。
明治期に西洋の社会学や政治思想が導入された際、地域や家族、国家といった集団を「共同体」と表現するようになったが、これは日本の伝統的な「ムラ」や「イエ」といった概念を近代的な枠組みで再解釈したもの。
神道における「死者の御霊」や「守り神」の概念は、本来、特定の地域や氏族の祖霊信仰に根ざしており、近代的な「共同体」という概念とは異なる土着性を持っている。
日本の神社は「怨霊を鎮める」装置
日本で国家に貢献した人をどうするか。日本ではその人の子孫を優遇する。
そして、子孫がその御霊をお祀りする。
例えば、藤原氏の繁栄は、8世紀に「大化の改新」の藤原鎌足の子孫を優遇したことによる。
「イエ」は、家族や家系を基盤とした日本の伝統的な社会単位で、古代の氏族制度(ウジ)に由来し、農耕社会や武士社会で発展した。
日本の神社は、歴史的には非業の死を遂げた者の怨霊を鎮める装置であり、平安時代から中世にかけて、菅原道真(北野天満神社)、平将門(神田明神)、崇徳天皇(白峯神宮)といった「三大怨霊」は、自然災害や社会不安の原因とされ、怨霊を神として祀ることでその霊を鎮め、災いを防ぐ意図があった。この怨霊信仰は、神道のアニミズムや仏教・陰陽道の影響を受けた日本独自の霊魂観に基づいている。
また、日本の神社は、現世利益(ご祈祷、厄除け、商売繁盛など)を求める場として親しまれた。
神社合祀政策に抗った南方熊楠
明治政府は、1906年(明治39年)、神社合祀政策を本格的に開始した。
地方の小規模な神社を統合し、国家神道の管理下で効率化を図ることを目的としていた。
この政策は、1900年に設立された内務省の神社局が主導し実施をした。
政策の目的は、
・神社の数を減らし、財政的に持続可能な神社に集中することで神社の尊厳を維持する。
・地方自治の中心に神社を据え、「一町村一神社」の基準を適用し、行政区画と神社の氏子区域を一致させる。
・国家神道を通じて国民の忠誠心を高め、近代国家の統治を強化する。
1906年から1914年までに、全国約20万の神社のうち約7万7899社(約40%)が廃止された。
南方熊楠は、神社合祀政策が地域の文化・信仰・生態系を破壊すると考え、特に和歌山県での神社合祀に強く反対した。
1910年代、熊楠は、地元の神社が地域の民俗や生態系(社叢(しゃそう)=神社の森)と深く結びついていると主張。1911年に東京大学の植物学教授に宛てた長編の意見書「神社合祀に関する意見」を書き、柳田国男の協力でこれを印刷・配布し、影響力のある人物に訴えた。
生態学的視点をもつ熊楠は、「エコロジー」という言葉を用い、鎮守の杜の自然環境や地域文化の保護を訴えた。これは日本におけるエコロジー思想の先駆けと評価される。
熊楠の反対運動は、和歌山県を中心に一定の効果を上げた。1910年以降、帝国議会での政府の回答や反対運動の広がりにより、神社合祀のペースは大幅に鈍化し、特に、熊楠の科学的・文化的な論拠は、知識人や地元住民の支持を集め、政策の見直しに寄与した。ただし、1910年までにすでに多くの神社が廃止されていた。
「一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇のめでましし森ぞ」
昭和5年6月1日 南方熊楠謹詠并書
この和歌は、昭和天皇が和歌山県の神島を訪れた際に熊楠が詠んだ歌。
神島の「おやま」の砂浜に建碑に刻まれている。
1909年(明治42年)に神島の森が神社合祀政策により伐採の危機に瀕した際、熊楠らの反対運動により伐採が阻止された。
1929年(昭和4年)の昭和天皇の神島行幸では熊楠が天皇に拝謁し、島の生態学的重要性について進講した。この際、熊楠の主張が皇室に認められた形で、和歌の碑建立につながった。
1930年(昭和5年)に神島は、和歌山県指定天然記念物、1936年に国指定天然記念物となった。
島は原則として立ち入りが禁止され厳格に保護されている。
その大戸島には、なんと「呉爾羅(ごじら)伝説」というものがある。
その伝説とは…
「呉爾羅は普段は海の底で静かに眠っているが、その眠りを妨げるものが現れた時に出現して暴れる。その為、大戸島の人たちは島に呉爾羅神社を作り、古くより御神体として呉爾羅を崇め、呉爾羅の眠りを妨げないように奉った。」というもの。
小泉進次郎が株を上げた「備蓄米」…親子揃ってパフォーマンス
放出された随意契約の備蓄米について、販売の申し込みのあった30万トンのうち、1割の3万トンがキャンセルされた。
8月末の期限までに売り切れるか不透明だという見方が出ている。
理由は、「遅すぎた」「不味い」。
コンビニのレジ前に売られているが、古古古古米に、5kgで2000円では買わない。もう安い感はない。一瞬だった。