②Youという言葉の謎/ 法蔵の故郷「マー・ワラー・アンナフル」のネットワーク | ☆Dancing the Dream ☆

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英語という言語は、数については、
日本語に比べると、かなりのうるさ型です。
日本人は「a」や複数形の「s」など、
いちいちの数を言葉の中に組み入れるのは、どうも苦手ですよね。
だいたい何でも言下に斟酌しあう傾向がありますからね。
しかし、なぜ、数にこだわりがあるはずの英語の2人称代名詞は、
単数も複数も「You」なのか?
このアンバランスはいったいどうしてなのでしょう?
…というのが昨夜のお話(①)でした。

まぁ、英語にも、もともと、単数と複数の二人称代名詞は、
単数 - あなた thou /主格 thee /対格
複数 - あなたがた ye /主格  you /対格
このように、ちゃんと存在し、
それなのに、どうしたことか、
16世紀末-17世紀、中世末期には、ye も thouも消えてしまったのです。

昨夜、書いた①で思ったことは、
thou を失ってしまったことが致命的だった…ということです。

最近、頻繁に呟いてしまうのは、
「なぜ、こんな狂ったような世の中になってしまったんだろう?」ということ。
金、金、金…
幸福に暮らすために、そこそこお金は必要ですが、
幸福な人生のための手段そのものが目的になってしまっているような、
倫理観を欠いた頭の狂った我利我利亡者が、跋扈した挙句、
世界を巻き込んで、自滅寸前。嫌な世の中です。
こんな世の中になってしまったひとつの遠因が、
英語の親称の thou という言葉を、
イギリスの人々が手放してしまったことなのではないか?
thou という言葉の温かみを忘れてしまったことが、
意外にもボディブローのように、ゆっくりと深く
効いているんじゃないだろうか?ということでした。
日本人の多くは、
Thou art my mother, Thou art my father,
Thou art my brother , Thou art my friend,
Thou art my God. 〜 なんてことは、
言わなくなった英語世界を、学んで来たのですからね。
明治の精神に、イギリス仕込みのアニマルスピリットを持ち込んだのは、
福澤諭吉です。
福澤諭吉は、自ら創刊した時事新報に、
「イギリス人が隣国を圧制しているのが羨ましくてたまらない。」と、
書いているのです。
『学問のすすめ』では、
"「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」とT・ジェファーソンは言うが、
人間世界では、上下があるのは事実であり、
人の上に立ちたければ学問せよ!圧制されたくなければ学問せよ!"と
日本の若者を脅したのですよ。
学問とは、そんな理由でするものですか?
福澤諭吉は、イギリスの病気を日本に伝染させてしまいましたね。

thouが消えてしまった…
その理由は…?
ひとつには、中世末期の王たちが権力確保の闘争の道具として
「言葉」を用いて、言葉歪めてしまったこと。
これに端を発します。つまり、プロパガンダに利用されたんですね。

時のイギリスの王は、カソリックの教皇権に縛られるのを嫌い、
王だけが神の代理人であるという王権神授説などを唱え、
思うがままに王権をふるうため「国教会」を立て
絶対王政を断行。
国教忌避者には、財産を没収、投獄などの弾圧を加えました。

そして、王権のプロパガンダとして、
王は自らを" God and I " を意味する" we "を名乗り、
人々にも自分を二人称複数の"ye(you)" と呼ばせました。
〈王は神という絶対的権威と一体である〉という宣伝を
人々が日常でコミュニケーションのツールとして使う言葉を使って、
広く深く浸透させようとしたのです。

しかし、
国教会の成立は、カソリック、プロテスタント信徒たちに大混乱を及ぼし、
大反発を呼ぶのです。
カソリック信徒は王の暗殺未遂テロ事件を起こしたり、
議会で多数派の地主(郷紳)のプロテスタントは、
ピューリタン革命を起こし共和制に持ち込むことに成功しますが、
プロテスタントの独裁が嫌われ王政復古へと揺り戻しがおき、
復権を狙うカソリックを抑えて名誉革命が起こされ、
妥協的な立憲君主制へ。議会政治が成立します。
王が首長となる国教会が国家宗教として定められました。
しかし、憲法などで制限されながら主権は王が持つという
立憲君主制の中で、王位継承問題は、球技の球のように扱われ、
派閥闘争の中で行われるのです。
この革命で、ジェントリ(郷紳/地主)と
ブルジョワジー(中産階級)を台頭します。

これと並行して、17-18世紀
イギリスは、国を挙げての集団強盗事業に精を出します。
言い方を変えれば…
海外侵略と重商主義政策をさらに積極的に進め、
植民地主義を拡大して行くのです。
プロテスタントは北アイルランドに入植をはじめ、
ピューリタン革命の指導者は、アイルランドに侵攻し征服、植民地としました。
婦女子を含む虐殺、寺院の焼き討ち、残虐行為を行い、
これを、"神のみちびき"と開き直りました。
またイギリスは王室が経営する金儲け会社による植民地化も行ないました。
勅許会社のバージニア会社による北アメリカのニューイングランドを植民地化、
同じく勅許会社の東インド会社によってインドを植民地化して行きます。
また、イギリスのリヴァプールやブリストルから工業製品をアフリカへ、
アフリカから黒人奴隷を積み込んで西インド諸島や北米大陸に、
そこからタバコや綿花などの産物を積み込んでイギリスに帰ってくるという、
三角形の海路を空荷を無しに運ぶ三角交易で利益を上げました。
プロテスタントの悲劇の女王アンの元、
イギリスとスコットランドは王国が合同し、
グレートブリテンとなり、植民地帝国として繁栄。
やがて、産業革命が起き資本主義経済が発展していきます。

しかし、なぜ、禁欲的であったはずのプロテスタントが、
金儲けに夢中になっていったのか?

おそらく、thou を手放していく過程と絡み合って関係しています。
金儲けに夢中になったからthou が消えていき
thou を手放したことから儲け主義に歯止めが効かなくなった…
彼らは、親しく神に thou と呼びかけ、
本来の自分自身を取り戻す時間を明け渡してしまったんですね。
そして、身近な親しい人と thou と呼び合う人間的な密なコミュニケーションも
薄れていったに違いありません。

立派なプロテスタントであろうとすることは、
逆説的に、資本主義の精神に適合したのだろう、というのが、
マックス・ウェーバー『プロ倫』です。
〜〜禁欲的に行動し、天職に勤勉に励み、
その「結果として」利潤を得るのであれば、
その利潤は、安くて良質な商品やサービスを人々に分け与える
「隣人愛」となる。だから 神の御心にかなっているのだ。〜〜
というように。
まぁ、資本側や教会(信者は所得の1/10献金)の屁理屈にからめとられ、
また、我欲を体良く隠す自己欺瞞に押し流された
という方が正しいと個人的は思うのですが、
結果として、プロテスタント主義が、資本主義を発展させたのですね。

それまで、人間の労働というのは、
南欧のカトリック圏のように、日が昇ると働き始め、
仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、
昼には長いシエスタをとり、日が沈むと仕事を終えるという
おおらかで人間的なものでした。
しかし、せっせと金儲けに精を出すプロテスタントたちは、
やがて、信仰心が薄れ、利潤追求自体が自己目的化するようになるという
罠に、はまってしまったのです。

人々は、一人の王なのに、複数の you を使って呼ぶよう強要されて、
これが習慣づいていくうちに、
二人称代名詞は複数形を使う方が
相手への敬意を表現していると認識してしまい、
複数のye(you )を敬語として使うようになっていきました。
プロテスタントが駆動する、
合理的な生産性や利益追求を重んじる近代的な資本主義の社会になると、
互いに適度な距離間を保つ方が仕事の能率も上がったのでしょう。
やがて、敬語だったはずのyouをあらゆる人に使いはじめ、
親称の単数形の thou を使わなくなったのではないでしょうか。
ついに、thouは、日常会話の中から、
そして、個人的な神との語らいの中からさえも消えていったのです。
こうして、人々の信仰心とともに、倫理観も失われてしまった結果、
自由に金を儲けて何が悪い!とばかりに、
現代のような歯止めの効かない、
法の網をかいくぐり大犯罪を犯している新自由主義的な
マネーゲームが罷り通っています。
こうして、殺伐とした世の中になっていったのかもしれませんね。

言葉というネットワークキングの重要なツールを
歪められたり、掠め取られたりすることが、
これほどのダメージを被るとは、恐ろしいことです。
また、倫理に反する行いを誤魔化すために、
自らの言葉を歪めることは、尚、恐ろしいことですね。

*******

今まさに欧米中心主義が危機に瀕し崩壊に向かっており、
断末魔の叫びをあげて暴れ狂っている、と指摘しているのが、
板垣雄三教授です。

イスラム学者の板垣先生が言うには、
欧米中心主義は、イスラムに多大な恩恵を受けながら、
頭が上がらないことを悔しがり、そのコンプレックスの感情が、
〜尊敬しているから軽蔑する、憧れているのに侮辱する〜と、
複雑な二律背反の感情にさいなまれ、
世界に途轍もない弊害をもたらしているのだ…と…

近代を興したのはどこか?という視点で
世界を俯瞰してみれば、
欧米中心というのは、全くのインチキで、
イスラムを中心にヨーロッパなどの周辺があり、
中国という中心に日本などの周辺があるとするのが正しいのだ、と。

西洋が目の上のタンコブのような
イスラムのネットワーキングを壊すために行ったのが、
西洋的な二項対立の論理に引きずり込む戦略。
・ユダヤ人迫害、東方教会の呪詛
・十字軍の侵攻 (エルサレム/ レコンキスタ/ 大航海(イスラム包囲))
・東方問題(オスマン帝国内で宗教紛争を煽る)
・パレスチナ問題(欧米からユダヤ人を棄民する= イスラエル建国)

実は、一般的に西洋で完成されたと言われる「近代」というのは、
イスラムがすでに7世紀に成したものに過ぎず、
自由、平等、兄弟(人類)愛、法の支配、社会契約、知識社会、
環境保護、ネットワーク・パートナーシップなどは、
西洋のものだと思い込まされているが、
これらは全て「イスラムが作り上げた近代」である。
むしろ、欧米の自前の近代性というのは、病理を孕んでおり、
現代においては、倫理観を失いもはや発狂状態に陥り、
逃げ出すにも行き場がない状態になっている難民が溢れている…
どうにも収拾のつかなくなっているのが現状である。
イスラムの〈遊牧〉に対し、
西洋の〈農業本位〉に始まる排他的土地保有は、
原料、資源、市場を抑えるための軍事化に結合していき、
覇権主義によって倫理の崩壊の一途を辿るのは必然なのだと言います。
そして、この欧米中心主義の病変、がん細胞は、欧米と日本である、とも。

このように西洋中心主義の崩壊していく
末期現象のひとつとして、対テロ戦争があります。
これは、西洋が仕掛けた西洋的な二項対立の罠でもあるということです。
イスラム社会もこの罠に掛かり、絶望、憤懣、屈辱の中で喘ぎ、
イスラム的近代のあり方を自ら壊しつつありました。

しかし、2011年、イスラム社会で大転換が起こりました。
イスラムの市民(ムワーティン)革命です。
アラブの春という言葉は、それを終息させようとする西洋の欺瞞語です。
この革命は、タウヒードに基づいたネットワークキングで、
誰に指令されるわけでもなく、
非暴力による闘いによって「イスラムが作り上げた近代」の再定義、
すなわち、スーパーモダニティの世界を
新たに作り出そうという動きだったのです。

因みに非暴力の闘いというと、
インド独立を導いたガンジーのサッティーヤグラハ(真理の把持)ですが、
ガンジーの言葉としてサンスクリット語で語られていますね。
しかし、これは元々、イスラムの基本思想なのだそうです。
ガンジーが、弁護士として南アフリカに渡ったのも
インド人ムスリム商社の依頼でしたが、
よく知られるガンジー自身の差別体験は、この旅の途上の
一等席に座っていた列車から追い出される事件でした。
イギリス植民地支配下にあったインド人は、南アフリカに
クーリー(苦力)ととして、苛酷な年季労働を負わされ差別を受けていました。
そして、実は、ヒンズー教徒のガンジーが、
南アフリカで非暴力運動を共に闘ったのは、インド人ムスリムです。



そして、板垣先生は、
アジアの東西、イスラムと中国では、同時期に同じ思想で、
共振共鳴したのだ、と説きます。
http://www.geocities.jp/viva_keyaki/KeyakiArchive/Itagaki0801.htm

イスラムの「タウヒード」という思想と、
中国の華厳思想の「多即一」は、
7世紀、中央アジア南部で溶け合った
同じものだというのです。
中国のモスクに掲げられている「萬殊一本」の額は、
万の数の殊なるものが実は一本であることを意味する言葉、
つまり「多即一」のこと。

宮沢賢治は、法華経に深く帰依していたと言いますが、
法華経は、ブッダが最後に説いた教えとされるのに対して、
華厳経は、一番最初に説いた教えです。
その意味でもこれらは、殊に大事にされており、繋がりがありますので、
賢治が、華厳経にも興味をもっていたとしても不思議ではありません。
賢治は、華厳経を元に「インドラの網」という
ひとつの美しい作品を書いています。
「インドラの網」は、華厳経に説かれる仏の世界観を
透明感溢れる幻想的なヴィジョンで描き出した賢治の真骨頂とも言える作品です。
インドラの網とは「帝釈天 インドラ」の宮殿にかけられた球状の網のこと。
その結び目には,美しい宝珠が編み込まれ、宇宙そのものを表現しています。
その宝珠の一つ一つが鏡のように他の一切の宝珠を映し込んでいて、
ひとつの宝珠に宇宙のすべてが収まっているのです。
この目眩いのするような美しい世界観は、すなわち、「多即一」ですね。
(因みに、このブログのタイトルに掲げている
マイケルジャクソンの「Dancing the dream」というエッセイも
同じような世界観を描いていると思っています。
http://ameblo.jp/et-eo/entry-12071835784.html )

7世紀、中国では唐代に華厳経の漢訳が完成し、
華厳教学が大成され、
宋代に発展した儒教をさらに再構築した新儒教の宋学に、
華厳思想は大きな影響を与えました。

ところが、実は、華厳思想、宋学の発展の〈引き金〉となったのは、
〈中国に入ってきたイスラム〉であると言うのです。

これは、どういうことでしょう?
ちょっと自主学習してみて驚きました。

唐の時代、旧訳の華厳経には、まだ欠けている部分があるということから、
その未訳の梵本があるウクライナのホータンにこれを求め、
ホータンから経訳者が招かれました。
その経訳者が「実叉難陀」でした。
そして、実叉難陀を助けて新訳を完成させたのが「法蔵」です。

実は、法蔵は、
中央アジア、今のウズベキスタンとカザフスタンの国境をまたぐ
かつて大変栄えたオアシス都市にルーツをもつ人物だったのです。
法蔵の先祖は、代々「康居国」のいまのタシケント、チムケントあたりで
丞相(天子を補佐する最高の官)を務め、
祖父の代に中国に帰化し、長安に移住してきた家柄でした。

康居は、匈奴の遊牧国家で、
タシケントは、 あの玄奘三蔵も訪れ、
「西遊記」には「赭時」という名で記されている
国際交易の盛んな康居の中心地でした。



そして、法蔵のご先祖のこの故郷は、
アラビア語で「マー・ワラー・アンナフル(川の向こうの土地)」と呼ばれた
〈アム川北岸の地域〉である、と言い換えることができます。

マー・ワラー・アンナフルとは、イスラーム化後の時代を指して使用される語で、
イランと対峙する地域である「トゥーラン(Tūrān)」と呼ばれた地域と
ほぼ同一です。
そして、イスラム以前のサーサーン朝からは、
「ソグディアナ」と呼ばれていた地域と一致します。

「ソグディアナ」は遊牧国家「康居」が支配していました。
中国では胡人と呼ばれていた西方異民族の
ソグド人胡商 (イラン(ペルシャ)人 /アーリア人)も
その下のコロニーを作って暮らしていました。

中国は漢の時代から西域との交易を行なっていましたが、
4世紀以降、シルクロード交易が盛んになるとソグド人商人が、
シルクロードの各所にコロニーを形成し、
ソグドネットワークともいえる情報網を張り巡らし、
ソグド人はこれによってシルクロード交易で主導的な地位を成していたのです。

ソグド人の暮らすソグディアナは8世紀中ごろには、
イスラム教のイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権アッバース朝の
直接支配下には入り、
アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、
アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの
諸文明の融合がなされたことで学問が著しい発展を遂げ、
「近代科学」が生まれました。
イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったのです。

「ソグディアナ」には、バルフという
シルクロードのオアシスの交易国家もあり、
スーフィーのレジェンドとして知られる
バルフの王子 Ibrahim ibn Adham イブラヒム・イブン・アダハム(8c)は、
自ら王座を放棄し、禁欲的清貧なスーフィーとして生き、
仏教に共感した人物でもありました。
スーフィーの旋回瞑想は仏教の悟りに似たものでもあるのでしょう。
イブラヒム・イブン・アダハムの伝説は、
ペルシャ語文学史上最大の詩人・ルーミーの大叙事詩集
Masnavi マスナビにも記され、広く知られました。

また、イスラーム世界が生み出した最高の知識人、
イブン・スィーナibn Sīnāもバルフの出身です。
医学書『医学典範』哲学書『治癒の書』で有名ですが、
数学、物理学、化学、音楽、博物学、クルアーンの解説、
スーフィズムなど、100を超える書を著作し、
包括的な知識をもちヨーロッパの学問にも多大な影響を与えた偉人です。

なんと、これらのイスラムのレジェンドたちと
法蔵は、同郷人なのです。

東方に広がるスーフィーは、
中央アジアで仏教徒のイスラム教への改宗を促し、
東南アジアへイスラム教が拡大する原動力となっていきました。

今も、回教(イスラム教)と儒教とが融合し一体化した
「回儒」の存在があります。
イスラームを儒教と漢字の文化圏に融合させようとしてきた「回儒」たちは、
文化の接点となり、文化変容の重要な役割を果たした人々なのです。

このように、
中国とイスラムが〈タウヒード=多即一〉という共通の思想で
共鳴しあった7世紀から、時を遡ること2000年前…
すなわち、bc13世紀頃…
同じく、現在のアフガニスタンのバルフから、
多神教のヴェーダの宗教(ゾロアスター教の原型)を信仰する民族、
アーリア人(トゥーラーンを出自とする人々)が、インドにこれをもたらし、
インドでヴェーダを基にしたバラモン教が生まれました。
バラモン教が、アーリア人を上位に置いたカースト制をとったことから、
これに反発する多くのアンチバラモン教が生まれ、
バラモン教が、新しく生まれた平等思想の釈迦の仏教やジャイナ教などと
対立する中で、ヒンズー教が生まれ、ヒンズー教は仏教の影響を大きく受け、
「梵我一如」のヒンズー教と大乗仏教は、重なり合い、
兄弟のような宗教となっていきます。
釈迦の死後に大乗仏教の法華経、華厳経が生まれました。
そして、7世紀、中国の僧らはその原典を求めてゆくことになるのです。

驚いたことに、紀元前13世紀から、2000年の時を経て一回転し、
7世紀、華厳経は、初期仏教の原点、
中央アジアの「マー・ワラー・アンナフル/ソグディアナ/トゥーラン」で、
「イスラムが作り上げた近代」と出会い、
共振共鳴したことになります。

何という、ダイナミックな巨きな動的な円でしょう!
変革は辺境から。と言いますが、
マー・ワラー・アンナフルという土地は、
辺境どころか、ネットワーキングが泉のように生まれる
ある意味世界のおヘソですね。

19世紀末、ガンジーが南アフリカで開始した
非暴力抵抗運動を
インド人ムスリムが、ヒンズー教のガンジーと共に
パートナーシップを結んで闘ったことは、
このような巨きな銀河の渦巻きを描くような
イスラムと仏教の長い動的な繋がりをみれば、
自然なことかもしれません。

しかし、ガンジーは、ヒンドゥー主義を標榜する
ヒンズー教徒に暗殺されました。
暗殺したナトゥラム・ゴドセは、
攻撃に対する武力抵抗が不正ではないとして、
ガンジーの非暴力抵抗運動を批判し、
また、ガンジーの親ムスリム的政策に不満を持っていました。
「私はなぜガンジーを殺したのか」
http://blog.livedoor.jp/indianews/archives/680014.html


インドの大半の国民が信仰するヒンドゥー教は、他宗派にたいして寛容であり、
13世紀から18世紀、北インドを支配したイスラムのデリー・スルターン朝や
ムガル帝国の方も、ヒンドゥー教徒との融和策を積極的に行い、
彼らは仲良く共存していたのです。
しかし、20世紀初頭から現在まで宗教対立が起こっている要因は、
インドを植民地支配したイギリスが、
インド人民が団結して植民地支配に反対することができないよう、
宗教間やカースト間の違いを強調して対立をあおる
「分割統治」の政策を行ったことにあるのです。

ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立によって、
インド独立に際に、インド・パキスタン分離独立という
事態になってしまいました。

ガンジーを暗殺した
ヒンズー教徒のナトゥラム・ゴドセは、
英語教育を受けた教養人でした。

*********

またまた、『You are not alone』に辿り着けませんでした (//∇//)

このお話は、つづく…