小島剛一氏『トルコのもう一つの顔』~母語は受け継ぐ命 | ☆Dancing the Dream ☆

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入手したばかりの『トルコのもう一つの顔』の著者、
フランス在住の言語学者・小島剛一さん。

どんな方かは、
F爺・小島剛一のブログをお読みいただくと、
その一端を垣間見ることができる。
時に仰け反り、時に目を丸くし、
時に煩悶して胸かきむしり、時に爆笑して読まずにはいられない。

小島先生は、
トルコ国内に、トルコ語の方言としてではなく、
事実、少数民族語として存在しているが、
トルコ政府が頑として認めたがらない言語を
辺境に住む人々と相まみえながら、
研究し続けてきた特異な学者さんだ。

トルコ国内の少数民族は、
トルコ政府の迫害を受け続けているが、
小島先生も、1986年にラズ人の結婚式でラズ語の歌を歌って、
トルコ政府に「国外退去勧告」を受け、
2003年には『ラズ民謡集』『ラズ語文法』を出版して直後、
「国外追放」処分を受けたという。
トルコ政府に睨まれ、
その研究は妨害を受け続けているのだ。
この経緯が、手元の『トルコのもう一つの顔』に書かれている。
しばらく梅雨の雨音のする夜毎に、これを読むのが楽しみだ。

小島先生が、ラズ語で歌って政府に咎められた歌というのは、
ブログにも紹介されていたサルプ村の「Heyamo」かもしれない。
なんと、美しい・・・。


Heyamo - Birol Topaloğlu


Laz Halk Şarkısı- Heyamo (Laz-Lazistan Folk Song)

サルプ(Sarp)村は、
トルコ東部の黒海沿岸、グルジアとの国境の村。
グルジア側の国境沿いにはサルピ(Sarpi)という村があるが、
トルコのサルプとグルジアのサルピは、もともとは一つの村だった。
トルコとソ連(グルジアはソ連領だった)が戦争を始め、
突然、村は二つに引き裂かれたのだ。
村人たちは、婚礼などの祝祭の時を利用し、
離れ離れになった鉄条網の向こうの家族や恋人に、
「Heyamo」のメロディーにのせて、替え歌を作って歌い、
近況を知らせ合ったのだという。


いったい、トルコでの少数民族が、
政府にどんな酷い目に合わされてきたのか、
おなじくF爺さんのブログに、
ほとんど日本人には知られることのない迫害の実態を
少数民族・クルド人自身が赤裸々につづった著書の紹介があった。

日本語には翻訳されていない、
Mehdi Zanaメフディ・ザナ著
『La Prison No 5(第五号刑務所)』である。

この本は、トルコ語で出版されたものを
フランス語に訳したものとされているが、
小島先生によると、
実際は、両方には大きな違いがあり、
トルコ語版では発表できない部分の多くが
フランス語版に記されているのだとのこと。

**** 以下、F爺さんブログより転載 ****

クルド人の書いた『第五号刑務所』という本の舞台は、トルコです。
看守はトルコ人、囚人はクルド人やザザ人です。

「夜になると40人もの囚人が4平方メートルしか無い室にぎゅうぎゅうに詰め込まれることがある。そのまま扉を閉じられて朝まで10時間ぐらい放っておかれる。立ったままである。呼吸さえ思うに任せない。そのうちに悪臭がし始める。我慢できずに尿を・・・あるいはもっと始末に負えない物を・・・漏らす者が出て来るのだ。眠り込む者や気絶する者がいても、倒れることさえ出来ない。(・・・)朝になって看守が扉を開けると、扉の近くにいた何人かは、痺れた体のまま、どうと倒れる・・・」

「看守の気に入らないことを言ったりしたりすると、むごい目に遭わされる。どんな目かというと・・・まず真っ裸に剥かれる。制服を着た屈強の男が四人がかりで手足をがっしりと押さえる。その格好で四つん這いか腹這いにさせられる。股を開かせられる。そして警棒を肛門に突き刺されるのだ。直腸の奥の奥まで、深々と突き刺される。そして肛門を犯されている我々の耳元で『ケツの穴を刺してもらって嬉しいだろう。おかま野郎め。ほら良がれ。ほらほら』と警棒をぐいぐい動かしながら繰り返す」

「この拷問のもっとむごいやり方をされることもある。囚人が50人ぐらい集められる。みんなが見ている前で一人が警棒を床に立てろと命じられる。真っ裸に剥かれた男が引き出されて、自分の肛門をその警棒にあてがって警棒が直腸にめり込むように坐れと命令されるのだ。命令に従わないと警棒で全身殴りまくられるので命令通りにする者もいないわけではない。だが、大概の者は拒否する。すると看守が七、八人襲いかかって股を開かせる。警棒を無理やり肛門に突っ込む。何分も何分も警棒で肛門を責める。引き抜いた時は、警棒は血まみれである。哀れな男は、その警棒を口に突っ込まれて舌で清めさせられる。衆人環視の許でこの拷問を受けた者は、心身に深い傷を負って何ヶ月も立ち直れない」

「15~18歳の若者は、慰み物にされる。真っ裸に剥かれて、やはり真っ裸のもう一人の男の身体の一部に性器が触れる姿勢を取らされる。警棒を持った看守どもがその二人を取り囲み、若者に腰を動かして性器を年長の男の身体と擦り合わせろと命令するのだ。警棒怖さに腰を動かす若者が勃起すると看守どもは下品な笑い声を立てる。笑い声は、若者が果ててしまうまでやまない」

「夜になると、必ず、拷問されている囚人の悲鳴が聞こえる。男の悲鳴だけではない。女の悲鳴が聞こえると、男の囚人は自分の妻が拷問され、強姦されているのではないかと考えて眠れない。時には子供の悲鳴さえ聞こえる。自分の子ではないかと案ずる男は眠れない」
 
                       *つづきはこちらで。

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メフディ・ザナ氏は、
1974年に、21歳年下の14歳のレイラさんと結婚。
クルドでは、女性はこの程度の年齢で結婚するのが、
一般的なのだという。
ザナ氏は、1977年にトルコ南東部の住民の大半はクルド人からなる
ディヤルバクル市市長に当選。
1980年クーデターの後、軍事政権によって、
11年間、囚われの身となる。
『第五号刑務所』は、
その軍事刑務所内での体験の証言である。

ザナ夫妻には、2人の子供がいるが、
政治家となり、投獄されたのは、
夫ザナ氏だけではなかった。



メフディ・ザナ氏の妻、Leyla Zanaレイラ・ザナさんは、
1991年、トルコ大国民議会(国会)総選挙に
ディヤルバクル選出から立候補し、
84%の支持を集めて30歳で当選した。
そして、議員就任式にレイラさんはクルド人民族の伝統色をまとい、
トルコ語で議員宣誓を行ったあと、

レイラさんはクルド語で、
「私は民主主義の枠組みの中で、
 クルド人とトルコ人が平和裏に生きるべく闘う」
「クルド人とトルコ人の兄弟愛に万歳」と述べた。
クルド語をつかうことは、当時トルコでは違法とされていた。

レイラさんは議員不逮捕特権を奪われ、
1994年に禁固15年の刑が言い渡され、
以後2004年6月に釈放されるまで10年間
獄窓に閉じこめられた。
解放された時には43歳になっていた。
2011年6月、再び国会議員に当選した。

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トルコで、法が改正され、
クルド語やザザ語などの少数民族言語の自由が与えられたのは、
2002年のことだ。
しかし、小島先生が、『ラズ民謡集』『ラズ語文法』の本を出版して
国外追放になっている。

現在も、少数民族ラズ人の母語であるラズ語という言語の辞典の
草稿をまとめ、出版に漕ぎ着けようと
力を尽くされているようだが、

母語を守ることがいかに大事か。
私たちは学ばねばならないだろう。

命がけで、自分たちの言葉を守ろうとする人々がいる一方で、
日本政府は、日本語を蔑ろにしようとしているようだ。
英語化教育を推し進め、
協力する大学には、巨額の補助金を出すとし、
英語を公用語とする英語特区をつくろうという案まである。
日本は、自ら進んで植民地化されようというのだから、
これほど愚かなことはない。