戦争と女と子供たちとマイケル ~映画・カルラのリスト/女たちの戦争/サラエボの少女 | ☆Dancing the Dream ☆

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with ☆Michael Jackson☆

映画『カルラのリスト』

旧ユーゴ紛争の戦争犯罪人を探し出し、起訴するために闘う
女性・国連検察官カルラ・デル・ポンテの姿を追った
社会派ドキュメンタリー。

紛争下で起きた集団虐殺の責任者たちを告発する
旧ユーゴスラビア国際刑事法廷に初めてカメラが入り、
“国際正義”を貫こうと奔走する女性の活動を映し出す。

戦犯捜査に非協力的な当事国の対応など、
国際社会の中で戦争犯罪を裁き、
正義を貫くことがいかに困難なことであるかを浮き彫りにしている。




カルラのリスト full


2013年の4月、シリアの首都ダマスカスの近くでサリンが撒かれ、
1300人のシリア人が死んだ。
犯人は、シリア政府(アサド政権)だとされたが、 
犯人は、逆にシリアの反政府勢力の方だった。
その背後には、イスラエルと、サウジアラビア(バンダル王子)がいる。
シリア問題に関する国連調査委員会で
調査官も務めていたカーラ・デルポンテは、
化学兵器のサリンガスを使っているのは反体制派だ」と指摘して、
反体制派を支援するアメリカなどから批判された。 



ドキュメンタリー 女たちの戦争と平和
ユーゴスラビア紛争 12歳-15歳の少女を含むレイプ↓による戦争犯罪











旧ユーゴの少女からマイケルジャクソンへの手紙
『Michael Jackson Opus』より、
Annie Salijevicによる2009年(22歳時)の手記

1992年5月、私は母に連れられてボスニアのTuzlaという町に住む祖母のもとを訪れました。私はクロアチア人で、普段はKorculaという島に住んでいたのです。ところが、そこにいる間に、内戦が始まってしまいました。私達は逃げ出そうとして、どうにかサラエボまではたどりついたのですが、そこで3年間身動きがとれなくなってしまったのです。

 当時7歳だった私の子供時代は、めちゃめちゃになりました。まわりには私と同じ年頃の子供などいず、手榴弾やサイレンの音が日課。他の現実はすっかり遠くのものになってしまいました。昔の記憶も、ごくおぼろげな夢のようにぼやけてしまいました。

戦争が始まってから6カ月ほど経った頃、私達の住んでいた建物の近くに駐留していた国連軍の士官が何人か、私と話すようになりました。4歳の頃から母に教わっていたので、英語はそこそこ分かりました。私は母にもらった英語の児童書をすっかり覚えてしまうほどだったのです。

子供時代の友達といえば、この期間は、その優しい国連軍の士官達だけでした。彼らは、ニューヨークのブロンクスやクイーンズから来ていました。私が彼らにボスニア語を教えるかわりに、彼らは私の発音を直してくれたり、難しい単語の意味を教えてくれたりしたものです。そんなある日、士官の一人が、ヘッドフォンで聴いていた音楽を、私にも聞かせてくれました。

とても素敵な音楽だったので、私は彼に、それを聴きながら眠りにつきたいのだけれど、と頼みました。そしてその夜は、その数カ月で初めて、夜じゅうぐっすり眠れたのです。朝起きてみると、枕元にメモが置いてありました。それには、「きみにあげるよ」と書いてありました(このメモはまだとってあります!)。ヘッドフォンは前夜したままになっていて、MJのBadとThrillerのカセットも置いてありました。それから2年間と言うもの、彼の音楽が私の楽しみでした。

当時は、マイケル・ジャクソンというのが誰なのか、全く知りもしませんでした。でもとにかく、彼の音楽が私に勇気をくれ、外界の雑音を静めてくれたのは確かです。今でも何か心配事があるとき、彼の音楽を聴くと、まるでお気に入りのタオルケットか何か持っているみたいに、心が落ち着いてくるのです。

私達のもとに届く救援物資は、たいていは国連からのものでしたが、時折、「Heal The World」というラベルのついた箱もやってきました。そしてこの「Heal The World」の箱の中身は、いたんだ小麦やお米だけ、などということは決してなかったのです。食べ物や医薬品と一緒に、いつも必ず、毛布やおもちゃも添えられていました。今でも、そうした救援物資の箱でもらった毛布を大切にとってあります。

1995年、私達はドイツに逃げ延びました。難民として、母と私の二人きりで。私はすぐに現地の言葉を吸収しましたが、母は1年は言葉で苦労していました。母は私がきちんと心地よく暮らせるようにと、懸命に働いてくれました。何カ月かごとには、私にMJ関連のもの(や、やはりその頃私が夢中だったパワーレンジャー関連のもの)まで買ってくれたものです。

1997年の誕生日に、母は、6月にあるMJのコンサートチケット(Gelsenkirchenにて、3列目ペア)*ヒストリーツアー/ドイツ・ゲルゼンキルヒェン/June 15, 1997をプレゼントしてくれました。誕生日は1月でしたから、そんなに長い間待ち続けるのは拷問のようでした。でも、それだけの値打ちはありました。彼を目にしたその日のことは、ただ圧倒的で、現実とは思えない気がするほどです。自分は、彼が勇気付け、影響を与えた無数の人のうちの一人に過ぎない、ということはよくわかっています。でも、私にはまるで、そこに自分だけしかいないように感じられたのです。今でも、あの時のことは、ただ奇妙で、ありえない、現実離れした出来事のように思えて仕方がないのです。

コンサートが終わると、強引な母は私をステージ裏口へ引っ張っていきました。そこには、MJを一目見たいという人たちが集まっていました。彼が出てくると皆、狂ったようになりました。彼は母が持っていたCDにサインしてくれました。私は恥ずかしくてたまらず、母の後ろに隠れていたのですが、そんな私にも彼はニッコリ微笑み、ウインクをすると、髪をなでました。母はMJが「ヘイ、キューティ(かわいこちゃん)」と言ったんだと言い張るのですが、私はその言葉を聞いた覚えはありません。

やがて2000年の初めに、私達一家はカナダのバンクーバーに移り住むことになりました。MJのライブをもう一度見ることができる可能性は薄くなってしまいました。たとえ彼がまたワールド・ツアーをやっていたとしても、北米でやるつもりはなかったでしょうから。ですが、MJの思い出は、その一つ一つが、私の宝物。今では彼に会う機会に恵まれたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。

こんなに早く彼が逝ってしまうことにならなかったら、どんなにいいかと思います。ですが、私には、一番素晴らしい人は、真っ先に逝ってしまう、というのが自然に思えるのです。小さい頃の経験から、そう分かっているのです。まだ、彼の死のことを考えるだけでも、苦しくて、「乗り越えた」などとは全く言えないような気持ちでいます。でも、彼は逝ってしまわなくてはならなかったんだ、というふうに感じるのです。彼は私達みんなのピーター・パンでした。本当に寂しくなります。いまだに、マイケル・ジャクソンのいない世界とはどんなものなのか、理解もできない、判らない。そんな思いです。

こういう経験をしたのは、私だけではありません。私は、「MJのHeal The World財団が救援物資をサラエボに送った」というニュースをのせたYouTubeビデオにコメントしていた人達数人と、連絡をとってみました。すると、私同様、難民生活を経験(する中でMJに助けられ)した人が沢山いたということです。そして、脱出先でMJのパフォーマンスを見た人も大勢いたのです。私も含め、そういう経験をした人達は、子供の頃、MJがしてくれたことを、決して、決して、忘れることはないでしょう。「子供時代」を持つ望みなどほとんどありえなかった時代に、私達に「子供時代」をくれたのがMJだったのです。かけがえのない贈り物でした。 どうか安らかに、お眠りください。



1992 Michael Jackson Heal the World Conference Sarajevo
1992 マイケルジャクソン・ヒールザワールド会議・サラエボ

1992年11月24日
マイケルはサラエボに向けて救援物資を空輸することをアナウンスしました。
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子ども達は、その明るい笑顔の中に誰の中にもある神聖なもの見せてくれます。この飾らない美徳は、彼らの心から真っ直ぐに光を放っています。彼らとともにいると私たちは人生の深い知恵と繋がります。
そんな子ども達は、あらゆる命あるものの大切さを思い出させてくれます。特に痛み、偏見、貪欲にさらされていない幼い命は。大きな混乱、複雑な問題を抱えている今、私たちはより一層子ども達を必要としています。

子ども達の生まれ持つ知恵は、私たち自身の心の中にあり隠れている解決策を指し示しています。子ども達は世界で一番の理想主義者であり楽天主義者です。“Heal The World”が来年、8才から16才の代表者で構成された世界子ども会議を計画しているのはその理由によるものです。世界は、世界にある問題における子ども達の純粋な視点を心から必要としています。

今日目にする無意味な破壊、絶望、混乱で傷ついた私たちの惑星を、私たちは癒さなければなりません。“Heal The World”の使命、私の使命は癒すことです。簡潔です。世界を癒すために、子ども達を癒すことから始めなければなりません。

私たちは戦争で荒れ果てたサラエボの子ども達に贈り物を届けます。1992年、サラエボは世界で悲劇の象徴となりました。が、しかし、この世界では回避することができます。偏見や民族的憎悪、環境破壊、家族や数世紀に渡る地域社会の崩壊を。

アメリカの子ども達の苦境における活動を私たちの拠点とすることを、この特別な時期に発表することを嬉しく思います。この目的に向かい、私たちは“Convoy USA”を計画しています。これは、スラム地区の子ども達を癒すというただ一つの目的に向かい共に活動する、すべてのアメリカ人を助けるという試みです。今年の感謝祭は、この“Heal The World”の始動により、私にとって特に特別なものになります。

私は、私たちの世界の皆さんのためにこの曲を書きました。世界の調和をもたらす手助けをするために。この曲の収益はすべて、“Heal The World Foundation”のものになります。

ここにお集まりの皆さま、ありがとうございました。
このプロジェクトにおいてご協力くださったAmeriCaresの皆さまに感謝します。貴重なお時間と寄付で“Heal The World”を支えてくださっている皆さまに感謝します。私たちの祈りと感謝をこめて。