③後藤氏のコラム「もうひとつのラストメッセージ」~NHK「奥克彦大使・イラクでの足跡」 | ☆Dancing the Dream ☆

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 この後藤氏のメッセージ動画・・消されて行ってますね。これもいずれ消えるかも。

後藤健二氏は、↑この「映像によるメッセージ」と共に、
もうひとつ「文字によるメッセージ」を残して
シリア・イスラム国のラッカへと向かった。

おそらく、この2つのメッセージは、つながりを持っており、
2つでひとつなのだ。

クリスチャンであった後藤氏は、
日本のキリスト教系新聞・インターネットメディア、Christian Todayに
ラッカ入りする2014/10/25の前日、10/24、
コラム投稿し、それ↓は26日掲載された。
「戦争に行くという意味 後藤健二」 Christian Today

ここには、
「生かされている命」の尊さについて書かれている。
与えられた命を奪うこと、
与えられた命を自ら諦めること、
そのどちらも罪深いことなのだ、と。

そして、2003年に発生した
「イラク日本大使館員殺害事件」の被害者、二人の外交官について言及している。
後藤氏は、イラクのwar zoneに入り、
米軍に敵と見なされ、間近で銃を突き付けられた。
自らの命をあきらめた一瞬だった。
心の中で、与えられた命を自ら袖にした自分自身。
その罪を悔いて告白し、それと比べて、
同じく危険なイラクで仕事をしていた二人の外交官は、
なんらの罪もない無実の人であった。
にもかかわらず、彼らは殺害されてしまった。
戦争というものは、それ自体が罪深く、
人類は神の意志に反した罪を繰り返している。
そういうメッセージなのだろう。

そして、
後藤氏は、
かつて、小泉政権が、「イラク日本大使館員殺害事件」を口実に、
イラクへの自衛隊派遣を行ったように、
安倍政権が「起きる可能性のある自分自身のISによる拉致、殺害」を口実に
集団的自衛権の行使を行うことを恐れていたのだろう。

これらの2つのメッセージは、
対テロ戦争に日本が参加することを止めるよう
勧告したものではないだろうか。


しかし、
開戦宣言には、常に、神の名が持ち出され、
戦争は、悪を裁くためとして、正義の名のもとに行われる。



2001年
アメリカ同時多発テロ事件 ⇒ブッシュ
                  「テロリストとテロリストを匿う者を区別しない」

ブッシュは、
世界を「敵、味方」の2局に分けることによって恐怖を与えた。

2003年
イラク日本大使館員殺害事件 ⇒小泉
                    「どのようなテロにも屈しない」
2015年
イスラム国日本人拘束事件 ⇒安部
                   「テロに屈してはならない」

これらの事件は、
イスラム教過激派による犯行とされている。
しかし、実際には、多くの謎が残る未解決事件なのだ。


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後藤氏は、
謎の多い2003年「イラク日本大使館員殺害事件」の犠牲者のひとり、
奥克彦氏の足跡を追うことで、
事件に迫ろうとするNHKの番組に関わっていた。
 
その番組が、2004/03/06に放送された
NHKスペシャル 
奥克彦大使 イラクでの足跡である。

この番組では、NHKが奥克彦大使に行った
インタビューの一部が使われていた。

奥克彦大使の言葉や、
彼らの置かれた状況を知るためには、
彼の事実上の上司であった「岡本行夫」という人物について
知る必要があるようだ。

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岡本行夫氏は、2013年の冒頭、
NHKスペシャル「2013 世界とどう向き合うか」に出演した。

岡本行夫氏、孫崎享氏は、
「尖閣問題」において、
真っ向から意見が対立していた。

孫崎⇒中国と経済連携・平和外交 (=後に自民党より弾圧を受ける)
岡本⇒対中・軍事拡大をすべき

岡本行夫氏は、外務省北米第一課長など
日米外交の有力ポストを歴任後、
湾岸戦争で人道支援に留まった日本政府の対応に反発。
1991年に早々に外務省を見限り辞職。
橋本、小泉首相の首相補佐官を務めた。
知米派として政権の外交参謀の役割を担い、
一貫して自衛隊の国際貢献の必要性をアピールしてきた。

ビジネス面ではコンサルタント会社、"岡本アソシエイツ"を経営し、
日本のグローバル企業の、アサヒビール取締役、三菱自動車監査役、
三菱マテリアル取締役、日本郵船取締役、NTTデータ取締役ともなった。
外務省OBがゼネコン会社の役員となって、この企業を
イラク復興支援に当てて儲けるという筋書きが見て取れる。

財団法人 日本原子力文化振興財団の月刊誌「原子力文化」に、
記事が掲載された2004年座談会では、
日本原子力文化財団理事(三菱マテリアル元会長)、
米国・原子力規制委員会元委員長(MIT卒・物理学博士)との3名で、
イラクの電力供給の安定に言及し、
原発を設置することを目論んでいた事が解る。

2012年2月には、東北震災及び原発事故を受けて設けられた
復興庁復興推進委員会の委員にもなっている。

2012年より放射能汚染が危ぶまれる日本から脱出。渡米。
マサチューセッツ工科大学国際研究センター(リチャード
サミュエルズ氏が所長。)シニアフェローに就任。
つまり、日米関係の専門家としてMITの研究者の称号を
授与されたわけである。

MITといえば、第2次世界大戦中、放射線研究所を設立。
敵機位置確認に抜群の効果を発揮したマイクロ波レーダーを作り、
また、原爆を生み出した"マンハッタン計画"の
政府研究機関・ロスアラモス研究所にMITの放射線研究所から、
多くの研究員が派遣され連動していた。
新兵器開発機関として
潤沢な資金や物資を得、学生の徴兵も免れた。
戦争の一翼を担うことによって、発展した私立大学、
ペンタゴン(米国防総省)とつながる大学でもあるのだ。

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さて、このような背景のある岡本氏は、
第2次小泉内閣で内閣総理大臣補佐官を勤め、
事実上の奥氏の上司であった。
奥氏らは、日本の政府開発援助(ODA)の
可能性を調査、情報収集して挙げ、
岡本氏は彼らが日本に挙げてくる情報を元に、
日本の各企業に対する復興需要の「箇所付け」を行っていた。

奥氏らは、
無政府状態の国で復興支援をする場合は、
国連中心とすることが義務付けられる国際法を重視して
日本のイラク復興支援に臨んでいた。

しかし、国連の筋を通して行っていたウンム・カスル港の浚渫事業で、
奥氏らは、アメリカのゼネコン、ベクテル社と衝突してしまうのである。

彼はその経緯を手記に残し、
その直後に、
奥氏・井ノ上氏は、
援助活動を行う人々のための宿泊施設の開所式に向かうため、
サダム・フセインの出生地でもある街ティクリットに向かう途中、
走行中に、三、四台の車に囲まれ銃撃され、殺害された。
武装車列のあとを、すぐに米軍車列が通り過ぎて行ったと言う。

2003年11月29日、
イラク日本人外交官射殺事件の犠牲となったのは、
奥克彦・駐英参事官と
井ノ上正盛・駐イラク三等書記官。

  
事件現場からも奥氏のPDA(携帯用パソコン)とノートパソコンが紛失。

さらに、日本政府仮大使館から奥氏の使用していたパソコンとフロッピーディスクが紛失。



後藤氏が関わった
NHKスペシャル「奧克彦大使 イラクでの足跡」

アメリカのイラク戦争の目的は石油利権である

奥氏「明らかにまずイラクの石油を温存する。
   その次はイラクの生産体制をアメリカのコントロール下に置く。
   これが最初からこの戦争のねらいだったと思いますけどね。
   その体制をアメリカは作っているなというのが
   非常によく分かりましたけどね。」

  「大量破壊兵器が見つかったかどうかということの関心?
   そこに対する関心って言うのはあまりないんですよね。
   それは戦争をはじめる理由のひとつだったですけれども、
   そのためにやっているわけじゃないから。
   それはサダムのレジーム(政権)をつぶすためにやっている戦争だから。」

ORHAに頼らず復興支援のための情報収集は自分でやる必要がある

  「机上の空論をやっているわけです。いろいろと。
  (ORHAは、=(Office of Reconstruction=アメリカ政府のイラク復興人道支援室
   この役所はこういう風にしようとかね。
   実際にバグダッドに移ってからドタバタし始めて、
   その当時描いた絵とはぜんぜん違うようなことをやっているわけですよ。
   着いた日から思いました。こりゃだめだなと。」

  「この組織は動かないから情報収集やって、
   日本の支援の一番目立って意味のあるところを取るのが
   仕事だなっていうのは、
   もう着いた瞬間にすぐわかりました。」

奥氏「文書へのアクセスは国防省のクリアランス(基準)に従った
    アクセス権なんですよね。
    レベル1、レベル2、レベル3あるんですけれども」

奥さんはレベル1まではもらえるんですか?

奥氏「レベル1ももらえないの。
    レベル3というのはインテリジェンス(機密情報)ですよ。
    だから、私は人の話をあっち行ったり、
    こっち行ったりして聞いているだけで、
    だから新聞記者のような仕事をしているわけですよね。
   “あいつ何やってんだ”と思われているわけですよね。
    本国に報告ばかりやっていると。」



奥氏の雑誌『外交フォーラム』への寄稿文
国際法に則り国連を通じたイラク復興支援を貫くも米国ゼネコンが妨害
5月1日に、ブッシュ大統領が「イラクにおける主要な戦闘行為が終了した」と宣言する前から、国連の援助機関はイラク国内での活動を再開していました。特に南部イラクを中心とした、水、医薬品の供給は、まだバクダッド周辺で激戦が続いていた4月上旬には、ウンム・カスル港周辺や、バスラ近辺で展開されていました。私も復興人道支援局(ORHA:CPAの前身)がクウェートで戦後のイラクの青写真を描いていた4 月上旬、国連児童基金(UNICEF)の水調査団に加えてもらって、ウンム・カスル唯一の病院での水供給調査に参加しました。この時の私は、イラクへの武力行使発生後、イラク領内に入った最初の日本政府関係者だったと思います。

しかし驚いたのは「調査」といいながら、UNICEFの関係者はポリビニール製の組立型簡易水タンクを携行していて、その日のうちにタンクを組み立てて病院に水を供給し始めたのです。解放されたイラク領内の水供給システムが全く機能せず、UNICEFがクウェートで借り上げたタンクローリー車が、ひっきりなしにイラク領内に入り、あちこちで水を配っていた頃です。国連事務所爆破で亡くなってしまったUNICEFのクリス・ビークマン次長が、1日に60台規模のタンクローリーで緊急水供給をやっている、と説明してくれました。

この背景には、戦前からUNICEFがイラク国内の医療施設、教育施設の現状をきちんと把握していたことがあって、応急措置とはいえ、現場で直ちにプロジェクトを実施できたわけです。私はそれまでの経験から、国連の援助機関はどちらかというとオーバーヘッド・コストばかり高くて効率が悪い、と感じていたのですが、それは誤りでした。これこそ、お手本のような緊急援助です。

また、当時、ウンム・カスル港の土砂の浚渫が問題になっていました。英軍がいち早くこの事態を重視し、私に日英共同でウンム・カスル港の浚渫をやろう、さもなくば、世界食料計画(WFP)が調達した食料援助船が入港できず、折角の食料支援もイラクの人たちに届かなくなってしまう、と協力を呼びかけてきました。WFPの担当者も必死でした。日本政府としては、法的にイラクのように相手国政府が未成立の場合、非政府組織(NGO)か国際機関を通じた支援しか、実施できません。そこで私は直ちにクウェートにある国連開発計画 (UNDP)事務所にこの話を持ち込んで協力を仰ぎました。担当のベルギー人、ピーター・ルーズベルトは、「ミスター・オク、簡単ではないかもしれないけれど、やってみようよ」と、にっこり笑って応じてくれました。

実際、このプロジェクトは、英国国際開発省(DFID)のクレア・ショート大臣(当時)が、軍関係への援助になる、といって引いてしまい、また、米国のコンサルタント会社*ベクテルが入ってきて、明日からでも浚渫を始めるので日本の出る幕はない、といわれるなど、いろいろな横槍が入りました。

しかし結局、ピーター・ルーズベルトが粘りに粘って、日本のプロジェクトとして仕立て上げてくれました。そのピーター本人は、たまたま別の場所にあるUNDPのバクダッド事務所にいて難を逃れたのですが、爆破テロで、ご夫人が腕にかなりの負傷を負ってしまいました。
                       『外交フォーラム』(2003年11月号)
                             奥克彦「イラクの戦後復興における国連の役割」


 
*ベクテル (Bechtel Corporation ; Bechtel Group)
アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコに本拠を置き、総合建設業を営む多国籍企業。
石油コンビナート、発電所、ダム、空港、港湾などの建設を請け負う世界最大級の建設会社。

*ジョージ・シュルツ
ニクソン政権の労働長官、財務長官、レーガン政権の国務長官を歴任
1974年、シュルツは政府を離れ、「ベクテル社の社長」に就任した。
2000年の大統領選挙ではジョージ・ウォーカー・ブッシュの選挙参謀を務め、その後ディック・チェイニー、ポール・ウォルフォウィッツ、コンドリーザ・ライスらが所属するブッシュの政策顧問団バルカンズでは上級顧問も務めた。2003年のイラク開戦では支持を表明した。