麻生太郎と「炭鉱(ヤマ)」 | ☆Dancing the Dream ☆

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・・・まぁ、どうぞ、現在の「麻生太郎氏のwiki」をご覧ください。
wikiでは、
「この存命人物の記事には検証可能な出典が求められています。
 信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。
 存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、
 特に潜在的に中傷あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。」
・・という但し書きがありますけれど~

麻生氏のあらゆる項目の最後は、
「私たちは、ナチスから学ぶことができます!」
・・という文言で括られている~~叫び

一瞬、アンサイクロペディアかと思いました!
これは、只事じゃないですね!!!!



さて、麻生氏は、自称、「生まれは良いが、育ちは悪い」ということですが・・
こう言っちゃなんですが、「生まれは良い」のか?
お金持ちだからと言って、生れが良いとは、言えませんよね?

『麻生炭鉱』は、麻生グループの根幹を築いた企業である。

麻生太吉(麻生副総理の曽祖父)が炭鉱業に乗り出し、
麻生鉱業として、麻生太賀吉(麻生副総理の父)が、
石炭産業の衰退により、炭鉱は次々と閉山に追い込まれ、
麻生セメントが麻生グループの中核企業となった経営した。

麻生炭鉱は、戦前、「納屋制度」などがあり労働環境が劣悪だとして問題になった。
筑豊地方において同社は三菱系についで朝鮮人炭鉱労働者、被差別部落民が多かった。
1932年、朝鮮人による労働争議が起き、筑豊全体に広がる大規模なものであった。
また、戦時中に外国人捕虜を働かせ死なせていたことから、
麻生太郎は、総理大臣就任時に遺族から謝罪と補償を請求された。

「納屋制度」とは、
タコ部屋労働と呼ばれ、労働者を長期間身体的に拘束して行われた
非人間的環境下における過酷な肉体労働のことである。

タコ部屋労働で使役された労働者をタコと呼び、
タコを監禁した部屋をタコ部屋(ないしは監獄部屋)と呼ぶ。

大資本や地域の有力者がタコ部屋労働の上部構造として存在し、
管理していたのは下請け業者であり、談合や中間搾取などにより、
元請け業者や政治家に利益の半ばを吸い取られた。

「納屋制度=タコ部屋労働」は、強制労働の一種であり、
現代の日本では労働基準法第5条により、禁止されている。

そして、
1970年頃、麻生太郎本人も、西アフリカのシエラレオネ共和国で、
ダイアモンドの採掘業に従事していた。
しかし、内戦勃発で撤退帰国した。

この内戦は、西アフリカの覇権を握りたいリベリアがシエラレオネを傘下に収めようとして
反政府組織を密かに鍛え上げ(RUF)、引き起こされた戦争だが、
採掘権を巡っての戦争ということもできる。

紛争地帯では、ダイアモンドで得た外貨を武器の購入に宛てるため、
内戦が長期化、深刻化することになる。
とくに反政府組織はこれら鉱物資源による外貨獲得とそれによる武器購入を広く行って
おり、罪のない人々が採掘に苦役させる。
そのため シエラレオネのダイアモンドは
血塗られたダイヤモンド (blood diamond)とも呼ばれる。

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麻生氏は、大変お金持ちのご子息ですが、
実に・・人を人とも思わぬ、生れも育ちも修羅の国。
その地盤は、修羅の如き搾取から得たものなのです。




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以下は、以前、
「原発労働者」について調べ、
それに関連して、
ポレポレ東中野にて上演されていた「炭鉱」のドキュメント映画について書いた
未投稿の記事の一部です。

現代の「原発労働者」と同じく
かつて、非人間的な環境で働いてきた「炭鉱労働者」の人々が、
虐げられながら、その時代の暮らしを照らすエネルギーを
支えたのだという事実を知りました。
そして、その悲惨な状況を知るにつけ、
ぬくぬくとエネルギーを消費し、宙を行きかうネットから、
このような記事を書く自分自身の空々しさ、無力さに萎えてしまい、
投稿できないのまま、置いておいた記事でした。

けれども、
犠牲の上に胡坐をかくが如き、偽りの豊かさを享受してきた日本の在り方に
なんらの、反省も自戒の念もない
我が国の副総理麻生氏のこの度の発言に、
戦慄し、嘔吐を催します。





萩原吉弘監督作・『炭鉱(ヤマ)に生きる』

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山本作兵衛さん

 
明治から昭和にかけて、筑豊の炭鉱に生き続けた一人の炭鉱作業員、
山本作兵衛(明治25年生)。
60代半ばに、「子や孫にヤマ(炭鉱)の生活や人情を残したい」と絵筆を取り、
彼の自らの経験を描いた1000点を超える炭鉱絵画を中心に、
炭鉱の人々の暮らしを描いた。
炭鉱画は、2011年5月25日、日本で初めて、ユネスコから
 世界の記憶(世界記憶遺産)登録を受けた。

映画『炭鉱(ヤマ)に生きる』は、作兵衛さんの炭鉱記録画と、
炭鉱で働いていた人々のインタビューを交え、
筑豊の炭鉱で生きた人々の生活を描いたドキュメント。
 



熊谷博子監督作・むかし原発 いま炭鉱『三池 終わらない炭鉱(やま)の物語』 

1997年3月30日に、150年以上にわたる歴史の幕を閉じた
日本最大規模の三池炭鉱。
近年はネガティブなイメージがつきまとい、
炭鉱の歴史そのものが時代から消し去られようとしていた。。
危険と隣り合わせの中、誇りを持って炭鉱に生きた人々の証言を集め続け、
7年の歳月をかけ完成させた労作ドキュメンタリー。


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▼うえの・えいしん
1923年8月7日、山口県吉敷郡井関村(現山口市)に出生。41年、旧満州国建国大学に入学。学徒召集で関東軍に入隊後、45年に広島宇品駐屯地で被爆。
46年、京都大学文学部に入学したが翌年中退し、福岡県と長崎県の炭坑で働く。
53年退職し、58年、谷川雁、森崎和江らと「サークル村」を刊行。
64年、福岡県鞍手郡鞍手町の自宅を「筑豊文庫」と名付けて開放する。
主な作品に「地の底の笑い話」「眉屋私記」「写真万葉録・筑豊」などがある。
84年に西日本文化賞を受賞した。87年11月、鞍手町立病院にて死去。享年64歳。


  =======以下(文=平原奈央子氏より引用)=======

上野英信「追われゆく坑夫たち」
 
「この世のもんじゃなか……」
掘り尽くされた炭坑を再び堀りあばいた坑道の片隅で、ふんどし一枚の老人は壁を打ち、亡者のようにつぶやく。
妻子が家出した男は筑豊から60キロの道を歩いて福岡市まで血を売りに行き、糊口(ここう)をつなぐ。
「どげちこげち、こげなひどか監獄ヤマははじめてたい」
青ざめた顔で、地下の男たちは語り始める。

 福岡県飯塚市相田。
かつて中小炭鉱が点在したこの谷で、上野英信は1955年から56年の冬を越した。エネルギー革命の波に洗われ、閉山が相次いだ筑豊で、最も深刻な「飢餓の谷間」と言われた。吹きだまりのようにあふれた失業者たちはボタ土を掘り抜いた半地下の小屋で眠り続けた。英信はたずねる。
仕事がほしいかと。

 「ああ……あればなあ…」
〈泥のような無気力〉と、〈もはや救いがたく高じた被害妄想的な恐怖心〉に覆われた失業者の谷を、英信はひたすら歩いた。水をくみにいった少女が坑口で足を滑らせて水死した。焼酎を飲んでいるところを発見され、生活保護を打ち切られた家の子どもが栄養失調で死んだ。英信は、死んだ子どもの死亡届や火葬手続きのために、おろおろと歩き回った。なすすべもなく-。この谷での経験が、のちにルポルタージュ「追われゆく坑夫たち」を書かせることになる。
〈だれにも知られないままに消えさってゆく坑夫たちの血痕を、せめて1日なりとも1年なりとも長く保存しておきたい〉という〈ひとすじの執念〉にかられて。

「ぼくらは井の中の蛙(かわず)だった」
英信の取材に同行した元炭鉱マンの山口勲さん(69)=福岡県中間市=は、ある小ヤマに足を踏み入れた日をこう振り返る。
「人が住んでいる感じがしない。畳なんか、歩くとズボーッと足が落ち込んでしまうでしょ。隣の家との境はベニヤ板一枚。戦後以前の感じがしました」
 山口さんが働いていたのは大手の日炭高松炭鉱。同じく炭鉱で働き、炭鉱住宅で生活しながら、目の前に広がる光景は、自分たちのそれとは懸け離れた、想像を絶する世界だった。
 「ヘルメットもない。布の帽子にカンテラの火を立てていて、高齢者が多かった。あまりの落差にショックを受けましたよ。当時は誰もが必死で、目を向ける余裕がなかった」
 日本列島は東の安保闘争と西の三池争議の熱狂に揺れていた。政界では、蔵相時代に「貧乏人は麦を食え」と放言した池田勇人首相が、「国民所得倍増計画」を唱えた。
 時代に取り残された中小炭鉱では、高齢や負傷のために大手炭鉱から追われた労働者たちが明治さながらの原始的な採炭を続け、奴隷のような労使関係に耐えていた。閉山で職を追われると、さらなる非人間的な生活に身をやつしていく。
 猛進する経済成長からはもとより、華々しく繰り広げられた労働者組織の闘争からも疎外された、心身ともにぼろぼろになるまで搾取しつくされた最底辺の人々。英信が描いたのは、そんな人たちの姿だった。

 「追われゆく坑夫たち」は、作家の杉浦明平によって岩波新書の編集部に持ち込まれる。編集部内には当初、作品に対して懐疑的な意見が少なくなかったという。東京の人には内容のすべてが事実であると信じ難いのではないか…。杉浦の心配をよそに、刊行にこぎ着けた本書はベストセラーとなり、全国に衝撃を与えた。


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▼本橋成一さん               写真集「炭鉱(ヤマ)」
写真家・映画監督・
映画館「ポレポレ東中野」のオーナー   

 炭鉱で働く人々を撮った「炭鉱(ヤマ)」で太陽賞を受賞した写真家で映画監督の本橋成一さん(67)も、この本が「ぼくの出発点になった」と語る1人だ。
 本橋さんは写真学校の卒業を間近に控えた1965年の冬、卒業制作で炭鉱を被写体に選んだ。数年前に出版された土門拳の写真集「筑豊の子どもたち」と、その続編「るみえちゃんはお父さんが死んだ」が話題になり、筑豊の失業と飢餓の惨状は広く取り上げられるようになっていた。「今考えると自分も格好良く、悲惨な写真をとりたいとのあこがれがあったのでしょう」
 雪がちらつく冬の日、沢山の付箋(ふせん)を張った「追われゆく坑夫たち」をカバンにしのばせて、本橋さんは炭鉱離職者の交流センターを目指した「筑豊文庫」(福岡県鞍手町、現在は解体)に住む英信を訪ねた。玄関先で緊張している本橋さんに、初対面の英信はニコニコと声をかけてきた。
 「上がれ上がれ。飲め、飲め」
 本橋さんはこの日から足掛け5年、筑豊に通い、筑豊文庫を宿としながら写真集を完成させる。
 「上野さんは、単なる悲惨さということではなく、どの目の高さから撮るのか、どこに軸足を置くのか、ということを暗黙のうちに教えてくれていたと思います」
 本橋さんのように、英信に触発され、学び、問題意識を追求していった作家やジャーナリストたちの裾野は広い。

 近代化を地の底から支え、見捨てられた人々の姿が世に問われてから、すでに半世紀がたとうとしている。上野英信という記録文学者の存在で、現在にその生き様を伝えられた男たち、女たち、そして子どもたち。彼らを代弁する英信の語りは、やり場のない静かな怒りを含み、私たちは無関心という知らず知らずの罪悪に気付かずにいられない。英信は自らの文学についてこう残している。
 〈文学のしごとは、ぼくにとって、はたらくなかまたちに対する、つきることのない感謝と献身のちかい以外のなにものでもありません…はたらくなかまたちによって、ぼくは、はじめて生きることのよろこびをしり、あなたがたをとおして、ぼくは人間のとうとさと美しさをしることができたのです〉
 「なかまたち」の魂に寄り添った上野英信の記録は、消えることのない灯火として地底の闇を浮かび上がらせる。記録することには明らかに価値がある。