思いが来て、5月に投稿した記事を再投稿することにしました。

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今回は、キリストの再臨の前に起こる事、携挙や反キリストが統治する患難時代、そして終末に起こる出来事の順序についてのメッセージです。


今の時代がどれほど患難時代に近づいているか、なぜ獣のしるしを受けてはならないのか、また今イエス様を信じる者達、キリストのからだに与えられている権威についても語られています。


長いので、今回もいくつかに分けて投稿しますが、ぜひ最後までご覧ください。


そしてもしあなたがまだイエス様を信じていないなら、今日イエス様をあなたの救い主、主として信じてください。

「今は恵みのとき、今は救いの日です。」


皆さんお一人ひとりにイエス様の祝福と守りが豊かにありますように。


①これから起こる事

~携挙、反キリストが統治する患難時代、そして終末に起こる出来事の順序~



ジョン・チョー(NCTC Dallas牧師)



NCTCの日曜礼拝にようこそ。今日は、棕櫚の日曜日です。


ですから今日は、とても重要なトピックを語りたいと思います。

これは私がずっと語りたいと思っていて、韓国語で韓国人には語ったことがあるのですが、英語ではまだしたことがありませんでした。

これはとても重要なトピックで、皆さんが好きになると思います。



非常に重要なメッセージで、すぐに起こる出来事についてですので、全員注意して聞いてください。

沢山聖句を引用し、情報も多いですので、聖霊様に啓示を求めてください。

しかしこれらの情報は、この世の終末に関する情報と概念を整理するものになると思います。



今日の説教は、「救い主の初臨と再臨の預言的タイムライン」です。


メッセージで引用する聖書箇所が書かれたpdfをダウンロードすることができますので、繰り返し読んで、学ぶことができます。


マタイ21章では、イエス様がエルサレムに入城され、人々はイエス・キリストを棕櫚の葉や自分達の服を用いて歓迎しました。



約2000年前のちょうど今頃、過ぎ越しの祭りの時にイエス様はエルサレムに入城されました。これは勝利の入城と呼ばれます。

その入城から4日後に、イエス様は十字架にかけられ、葬られ、3日目に復活されました。

来週の日曜日は復活の日曜日ですので、主の復活を祝います。



しかし今日は棕櫚の日曜日ですので、マタイ21章から語りたいと思います。


これは預言の成就の出来事なのですが、しかし私達がこれから体験する、これから成就するもう一つの預言に私達の目を向けさせるのです。


マタイ21章1-11節からお読みします。


「それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。

そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。

『向こうの村へ行きなさい。

そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。

それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。

もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。』

これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。」


5節で、マタイの著者は、ゼカリヤ9章9節を引用しています。

4福音書を見るなら、どの著者も、イエス様が預言を成就される時には、旧約の預言を引用しています。

「これは何千年前に、あるいは何百年前に預言されていたことで、それが今成就した」という風に、預言と出来事を結びつけているのです。ここもそうです。


5節。

『シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』


イエス様がろばの子に乗って、エルサレムに入城された時ゼカリヤ9章9節の預言が成就しました。

興味深いことに、預言者は、すでに霊の中で、王がろばの子に乗って来られるのを見ていました。そしてその出来事が彼らの目の前で現れ、彼らはこの預言を思い出したのです。


6節。

「そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。

そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。

イエスはそれに乗られた。

すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って来て、道に敷いた。」

人々が、枝を切ってイエス様を歓迎したことから、棕櫚の日曜日と私達は呼んでいます。


9節。

「そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。『ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。』」


これは詩篇118篇25節です。


過ぎ越しの祭りの時には、ユダヤ人達は詩篇118篇を歌います。

「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。」

「主よ。救ってください。救ってください。」というヘブライ語が、ギリシア語ではホサナと言います。


詩篇118篇27節には、主は神であられる、と書いています。

つまり、「主である神が王として来られ、私達をこの捕囚から救ってくれる」


彼らはそのように、メシアを、油注がれた者、王、ダビデの子が来て、自分たちを捕囚から救ってくれるものと理解し、待ち望んでいました。

「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」と叫び、棕櫚の枝を振りながら、彼らは王を迎えました。


10節。

「こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、『この方は、どういう方なのか』と言った。」


このような祭りの時には、各地からユダヤ人達がエルサレムに集まって来るので、何百万人もの人達がいました。


11節。「群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ』と言った。」


これがイエス様の、エルサレムへの勝利の入城でした。

けれどもイエス様が王として入城された時、馬ではなく、ろばの子に乗って来られたというのは興味深くありませんか。



当時、王がろばに乗って都に入って来るなら、それは平和を意味していました。

逆に、馬に乗って都に入って来るなら、戦争を意味していたのです。


イエス・キリストの初臨は、平和のためであって、戦いのためではありませんでした。


私達はイエス様の初臨について知る必要があります。

私達はメシアが来られた、と信じています。

ナザレのイエスはキリストです。


ジョン・チョーの場合は、チョーが苗字ですが、キリストは苗字ではありません。


キリストは、『油注がれた者』という意味です。イエスは、ヘブライ語では『イエシュア』ヨシュアです。


イスラエルの民をカナンの地に導いたヨシュアと同じ名前です。


イエシュアという名前は沢山ありましたが、ナザレのイエシュアです。

油注がれた者イエシュア。

イエス・キリストです。

それは、つまり、救い主は来られた、という意味です。


私達は、この時代の終わりにあるイエス・キリストの再臨は、戦いと裁きと、イスラエルの民を敵から救いだすためであることを知っています。


けれども、私達は、ユダヤ人達が預言的メッセージをどのように受け取っているのか知る必要があります。


神様がアブラハムを選ぶはるか前、アダムとエバが堕落してしまった時、神様は動物を殺し、その皮によって彼らの裸を覆われました。

すでにそこで、救い主が来て、十字架にかけられ、犠牲となることが、多くの異なる方法で預言、予告されていたのです。

神様はサタンに、「女の子孫がお前の頭を砕く」と言われました。


後に神様はアブラハムを選ばれ、アブラハムの子孫からキリストが来ると語られ、キリストは来られたのです。


しかしイスラエルの民について考えてみてください。


私達は彼らに接ぎ木された者達です。

ユダヤ人の子孫からメシアは来られた。

彼らはエジプトから解放され、最終的に約束の地カナンに入りました。


そしてヨシュアの時代から士師の時代に入ります。

士師の時代には、士師達が国を治めていましたが、それでもなお彼らは王を欲しがっていました。


預言者サムエルが「民が王を欲しがっている」と神様に告げましたが、神様ははっきりと「わたしは、イスラエルの民が王を持つことを願わない。

わたしが彼らの王となる。

彼らは、サムエルあなたにではなく、わたしに対して罪を犯したのだ。しかしわたしは彼らの望みどおり、王を与えることにする」と言われました。


そしてサウル王が選ばれ、その次の王としてダビデが選ばれました。

ダビデ王の時代に、イスラエルは領土は広げ、王国が最も拡大し全盛期となりました。


現代、イスラエルの国旗には、ダビデのシンボルが使われています。


ダビデは重要な人物で、預言者であり王でした。

また彼は多くの点で、メシアの陰、ひな形でした。


ダビデ王、そしてソロモン王となりましたが、ソロモン王の後、イスラエルは2つに分裂しました。

ユダヤと北イスラエルとなりました。

彼らは神の命令に従わなくなり、神に反逆しました。



そして何が起こったでしょうか。

バビロン王国がやって来て、南王国ユダを滅ぼし、イスラエルの民は捕囚としてバビロンに連れて行かれました。



彼らはショックを受けました。

まさか自分達の王国が滅ぼされ、捕囚となるとは思ってもいなかったからです。自分達は神の民なのに、と。



しかし彼らが神に反逆したため、彼らは捕囚として連れて行かれた。


その時から、彼らは、嘆き、待ち望み、神に、この捕囚の立場から、奴隷の身分から解放してくれるようにと祈り求めました。


王国がダビデの王国の時のように回復してほしいという、彼らの渇望に答えるごとく、預言者が、預言的メッセージを受け取りました。



そして預言者達は、自分達が霊で見聞きしたことを書き記しました。

メシアが来て、彼らを捕囚から救い出し、この地で王国を再建すると。


主の御名によって来られる、この油注がれた方、救い主が彼らを解放すると。




しかし私達はこの預言の成就の二重性について理解しておくべきことがあります。

旧約の預言者達は、霊の領域で見聞きしたことを預言しましたが、彼らは、キリストの初臨と再臨を区別することができませんでした。



ただキリストが現れる。しかしそこには時の区別がありませんでした。

それなので、彼らは時間的に一続きの出来事として捉えていたのです。


その一つの例を挙げます。

ゼカリヤ9章9-10節。先ほど、ゼカリヤ9章9節は、マタイ21章で成就したのを見ました。

「シオンの娘よ。大いに喜べ。

エルサレムの娘よ。喜び叫べ。

見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。

それも、雌ろばの子の子ろばに。」

これは成就しました。


でも考えてみてください。


なぜイスラエルは国として、イエス・キリストを彼らのメシアとして受け入れることができなかったのか?


宗教的な人達は、イエス様をメシアとして認めるのではなく、異端扱いしました。


イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城した時、人々は大喜びで歓迎しました。


「ようやく預言が成就した。」

「ローマ帝国の支配から解放してくれるんだ。この捕らわれの状態からようやく我々は自由になる。我々の王国が復興するんだ。」


彼らは物理的領域に目を留めていました。


彼らは、イエス様の誕生やその他の預言が成就するのを目の当たりにし、またイエス様が多くの奇跡と癒しをするのを見、また5000人に食べ物を奇跡的に与えるのを目にして、イエス様が自分達の王国を復興してくれるに違いないと思ったのです。



イエス様の弟子達もそのようなアジェンダを持って従っていました。

ローマ帝国を滅ぼした後、この地上でキリストの王国が築かれた時には、それなりの地位に就くことを願っていた。



それなので群衆は大喜びして、イエス様を歓迎しました。

けれども、そのすぐ後に、イエス様は逮捕され、十字架にかけられました。



イエス様が逮捕された時、彼らの喜びは失望に変わりました。

「私達を救ってくれると思っていたのに、逮捕されてしまった。」

そして群衆は怒り、「十字架につけろ!」と叫んだ。



マタイ21章の出来事の後、イエス様は宮清めをしました。

そして23章で、イエス様は、預言者達を迫害し、殺してきたように、宗教指導者達はメシアさえも迫害し、殺すと言われました。


そしてこう言われました。

「あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」


どういう意味でしょうか?


「あなたがたは、国としてわたしを拒絶したから、『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言う時まで、わたしを見ることはない。」ということです。


確かに、21章で、多くの人達が『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』と言って歓迎しました。

しかし彼らは国としては、キリストを受け入れなかったのです。



それなので、この世の終わりに、イスラエルが反キリストの軍隊に取り囲まれ、全ての希望が消えうせた時に、彼らはキリストに救いを叫び求め、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言います。


そしてその叫びに答えて、キリストが来られ、イスラエルを反キリストから救い出すのです。

それが再臨の時です。


続く