神のみことばをその通り信じることの力
TJ・マッカンジー
神のみことばをその通り信じることの力
ビル・ウィンストン師という方が、今週、創世記27章から信仰について語っていました。
創世記27章の箇所から、信仰について語るのを聞くのは初めてです。
とても珍しい方法ですが、その箇所から、アブラハムやイサク、ヤコブが、語られたことばをどれほど重んじていたのかが分かります。
まずこの箇所を読んで、それから、神のみことばをその通り信じることがどれほど力あることなのかを語って行きたいと思います。
この箇所では、年を重ね、視力も弱ってきたイサクが、長子のエサウに祝福を宣言しようとしていたのですが、だます者であったヤコブが母リベカにそそのかされて、父をだまし祝福を奪ってしまいます。
18節から。
「ヤコブは父のところに行き、『お父さん』と言った。
イサクは、『おお、わが子よ。だれだね、おまえは』と尋ねた。
ヤコブは父に、『私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召しあがってください。ご自身で私を祝福してくださるために』と答えた。
イサクは、その子に言った。
『どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。』すると彼は答えた。
『あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。』
そこでイサクはヤコブに言った。
『近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえが本当にわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。』
ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。
『声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。』
ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深ったので、イサクには見分けがつかなかった。
それでイサクは彼を祝福しようとしたが、『ほんとうにおまえは、わが子エサウだね』と尋ねた。すると答えた。『私です』
そこでイサクは言った。
『私のところに持って来なさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。』
そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。
またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
父イサクはヤコブに、『わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ』と言ったので、
ヤコブは近づいて、彼に口づけした。
イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。
『ああ、わが子のかおり。
主が祝福された野のかおりのようだ。
神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。
国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。
おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。』
イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。
彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。
そして父に言った。
『お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。』
すると父イサクは彼に尋ねた。
『おまえはだれだ。』彼は答えた。
『私はあなたの子、長男のエサウです。』
イサクは激しく身震いして言った。
『では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。』
エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。
『私を、お父さん、私も祝福してください。』
父は言った。
『おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。』」
イサクが、ヤコブに騙されて、本来は長子であるエサウに与えるはずであった祝福をヤコブに宣言してしまったという事実に気がついた時に、イサクは、「ヤコブを呼んで来なさい。間違えて彼を祝福してしまったから。仕切り直しだ。」とは言いませんでした。
事実が分かった時にイサクはどう反応したでしょうか。
「激しく身震いして言った。『ではあれはいったい誰だったのか!?』」
この事から、イサクもヤコブもエサウも、口から語られた祝福のことば、預言のことばを軽々しく受け止めていたのではなく、むしろ非常に重んじていたのが分かります。畏敬の念を抱いていたのです。
エサウはこのように言うことはありませんでした。
「ああ、大丈夫。祝福といっても単なる言葉だから、そんな子供だましみたいな言葉が無くても私は成功するから。」
父親の口から語られる祝福のことばの中にある好意が、人生で成功するために絶対に不可欠だという強い認識があったからこそ、エサウは祝福を取り逃したことを知った時に激しく泣いたのです。
彼らは、預言のことばを「ああ、預言のことばというのはよく語られるけど、結局のところ自分の頑張りにすべてがかかっているからね」と軽々しく受け止めていませんでした。
私はこの事を初めて聞いた時、車を運転中だったのですが、興奮して飛び上がりそうでした。
なぜなら、イサクもヤコブもエサウも、祝福のことばには天からの力と好意があることを子どものように信じていたからです。
彼らは、祝福のことばが無ければ、どれだけ身を粉にして働いても、成功しないことを知っていたのです。
ヘブル11章20節
「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。」
注目すべきは、イサクから祝福のことばを語られた時に、ヤコブは「自分は宝くじを当てた。祝福された。」という事をはっきりと認識していたことです。
彼は祝福のことばが現実に現れてから、そのことばを信じたのではありません。
彼は、そのことばを受けた瞬間に、「これは取り消すことのできないことばだ」と悟っていたのです。
ダニエルに遣わされた御使いもこのように言いました。
「あなたが祈ったその日に、私はあなたのもとに遣わされた。」と。
みなさん、私はこの事をお伝えしたいのです。
あなたがあなたの人生で語る言葉、あなたが祈る祈り、そしてあなたが他の人に解き放つ祝福のことばには力があります。
なぜなら神のみことばがそう言っているからです。言葉は霊的なものであり、種であり、必ず収穫をもたらします。
Ⅱペテロ1章19節。
「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。
夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。
すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
なぜなら、預言は決して人間の意思によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
みことばは、天のお父様やイエス様、聖霊様、悪霊ども、霊的世界だけについて語っているのではなく、あなたにたいする神のみこころも語っています。
みことばは、天のお父さんが私達一人一人にたいして語った祝福のことば、約束でもあります。
私達は、神のみことばに確信を持つことができるのです。
今の目に見える状況には、神の約束を保証するものが全くなく、あるのは唯一神様があなたの状況にたいしてすでに語られたみことばという証拠、根拠だけなら、あなたは聖書的信仰の中を生きています。
旧約の人達は、父親の祝福のことばは命綱であり、既成事実であり、議論の余地はなく、それが必ず成就することを信じきっていました。
子どもは言われたことを素直に信じます。
そして疑いというのは、成長と共に身に着けてしまうものです。
人からの裏切りなどもあります。
この世の神は悪魔なので、この世のメディアも、あらゆるところに偽りが満ち溢れています。
悪魔は、そのようにして私達の思いを偽りで、悪いもので一杯にし、「神様は、今日あなたを癒します」という良い知らせを聞いても、「そうだったらいいですね」と素直に喜んで信じることができないようにさせてしまっています。
ローマ3章3節
「では、いったいどうなのですか。
彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
絶対にそんなことはありません。
たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」
たとえ過去に、人によって失望落胆させられることがあったとしても、神様はあなたを失望させることはないんです。
Ⅰサムエル16章で、サムエルはダビデに油を注ぎ、その日以来、主の霊がダビデの上に激しく下った、と書いています。
しかし、その日その瞬間に、突然、ダビデが筋肉隆々になって、目に見える大きな変化があったとは書いてありません。
「イサクがヤコブを祝福した。」ということばも、一見重要には思えません。
それがどうしたの?という感じです。
しかしその一見大したことがないように思える出来事が、ヤコブが生きた祝福の人生のきっかけとなったのです。
聖書には、そのように一見なんてことのない出来事が、後々大きな結果をもたらすという箇所が沢山あります。
ダビデが油注がれたという箇所も、「油が注がれてそれで・・・?」と私達は感じます。
私はカリスマ派で起こる現象を100%信じていますし、肯定します。
聖霊様に触れられ、油注ぎを受ける時、ある人達は震えたり、倒れたりします。
しかし、ダビデの場合はそういった現象はなかったようです。
ダビデも、偉大な神の人達であるエリヤもエリシャも、私達と同じような人達だったのです。雲の上の存在のような、超人ではなく、肉との戦いがある人間です。
油注がれて、ダビデが空中遊泳したとはどこにも書いてありません。
では、どのようにしてダビデは自分が油注がれたと分かったのでしょうか?
普通の人だったら熊や獅子に出くわしたら逃げ出すと思いますが、ダビデは熊や獅子に立ち向かいました。
また、彼は詩篇でこのように告白しています。
「あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。」と。
自分が油注がれていることをよくよく確信していないかぎり、こんなことはできるはずがありません。
あの一見、重要とは思えない油注ぎの場面、何も特別なものを感じない出来事を通して、何かが変わったのです。
私が言いたいのはこれです。
聖書に書かれている神の約束のみことばは、虚しい言葉ではありません!
イザヤ55章11節で、神様はこう言っています。
「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに戻っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
イザヤ34章16節にはこうあります。
「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」
他の国はどうか分かりませんが、北米のクリスチャン達は、祝福のことばが語られても、「ああ、ありがとうございます。」と言いながらも、どこか冷めきった態度の方達が多いです。
しかし、他の国から来た人達、あるいは他の国では、祝福のことばが語られると、ひざまずき、素直に信じ、期待するのです。
Ⅱ歴代誌20章20節にはこうあります。
「あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」
要は、単純な信仰です。
ハンナもそのような一人でした。
Ⅰサムエル記1章から。
「エルカナには、ふたりの妻があった。
ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。
ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。
この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。
その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。
しかしハンナには特別の受け分を与えていた。
主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。
彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。
毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。」
ハンナは断食をしていたわけではなくて、落ち込んで食欲が無くなっていたのです。
「それで夫エルカナは彼女に言った。
『ハンナ。なぜ泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。』
シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。
そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。
ハンナの心は痛んでいた。
彼女は主に祈って、激しく泣いた。
そして誓願を立てて言った。
『万軍の主よ。
もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。
そして、その子の頭に、かみそりを当てません。』
ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。
ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。
それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。
エリは彼女に言った。
『いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。』
ハンナは答えて言った。
『いいえ、祭司さま。
私は心に悩みのある女でございます。
ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。
私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
このはしためを、よこしまな女と思わないでください。
私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。』
エリは答えて言った。
『安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。』
彼女は、『はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。』と言った。
それからこの女は帰って食事をした。
彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」
エリが「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」と言った時、ハンナの状況に何か違いがあったでしょうか?
突然、お腹が大きくなることもなかったし、ましてや夫ともまだ寝てもいませんでした。
しかし、ハンナは子どものように単純にそのことばを信じたので、元気になって、涙を拭いて立ち上がり、食欲も戻って来たのです。
私達の多くは、「主よ、あなたが言われたことを信じます」と言う前に、目に見える確証を探してしまいます。
ヘブル11章1節にはこうあります。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるのです。」
皆さん、まだ目に見えていないからといって、それが存在していないわけではないんです。
Ⅰヨハネには「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」とあります。
しかし、創世記1章では、「地は茫漠として何もなく、やみがあった。」とあります。
そして3節で、神様は「光があれ」と言われ、すると光があった、とあります。
しかし神様は光なので、確かに地にはまだ光はありませんでしたが、光はすでにあったのです。
光は現実に存在するものでしたが、目に見えない領域にあり、神様が「光があれ」と仰せられるまでは、それが実際に目に見える形では現れていなかったのです。
聖書で語られている祝福のみことばを軽く見ないでください。
外側の状況が変化するのを待たないでください。語りつづけるのです!
なぜならあなたが今日口から出す言葉には、あなたの将来を変える力があるからです。
神様が、言葉について、祈りについて、あなたについて言われたことを信じるのです!
マルコ11章24節。
「だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。」
祈り求めたことが与えられたと信じるのはいつだと言っていますか?
祈りの答えを目にした時ですか?
夫が戻ってきた時ですか?
子どもが帰ってきた時ですか?
薬物中毒から解放された時ですか?
罪の習慣から解放された時ですか?
癒しが現れた時ですか?
違いますって~~~!
祈り求めた時に!です。
その時に、すでに受けたと信じる。
そうすれば、そのとおりになります。
何かを見たり、感じたりする前に、すでに受けたと信じる。
皆さんが、Amazonに何かを注文し、クレジットカードで支払いをし、画面にはその商品が発送中と出て来る。
それなのにすぐ後に、Amazonのカスタマーセンターに「昨日注文した商品がまだ届かないんです」と連絡することはありませんよね。
なぜなら、必ず届くと分かっているからです。
予定通りに自分が注文した商品を確実に届けてくれると、当たり前のようにジェフ・ペゾズの能力を確信し、信頼している。
では、ご自分の約束を果たされる神様の能力にたいしてはどうでしょうか?
主は言われています。
「わたしは、わたしのことばを実現しようと、見張っている」
それなのに、イエス・キリストよりも、ジェフ・ペゾズのAmazonの方に信頼されるのですか?
神様は真実なお方で、ご自分のすべての御名の上に、みことばを高く上げられました。
もしあなたが、神様がみことばで約束されたことが全て現わされるのを見たいなら、何かを感じたり、見たり、聞いたりする前に、もうすでに受けた、持っていると信じる必要があります。
すでに受けたと信じる!
私がAmazonで注文確定ボタンを押した時点でそれは私のものです。
その商品が倉庫にまだある時も、配送者で運ばれている時も私のものです。
そして、それが玄関前に置き配されていて、私がまだそれを手にしていなかったとしても、それは私のものなのです。
それを誰も私のものではないと言う事はできません。
まだその手に赤ちゃんを抱いていないからと言って、神様がイサクを与えることを拒んでいたわけではありません。
ある方達は、赤ちゃんを、胎の実を求めておられるかもしれません。
ヘブル11章1節を、詳訳聖書で見てみましょう。
「さて、信仰は望んでいる事がらの保証(確証、権利証書、所有権証書)であり、目に見えないものの証拠、それらが実在することを確信させるものです。(信仰は、感覚に現れないものを現実の事実として認識する)」
家や車を購入すると、それがあなたのものであるという権利証書が渡されます。
まだその車に乗っていたり、家の中に入ってなかったとしても、それはあなたものです。
これ(神のみことば、聖書)は、神の子ども達である私達に、神様が与えてくださった権利証書であり、すでに何があなたのものとなっているかが書かれています!
私達の所有物として与えられていますが、それを現実にこの地上で受け取るために、神のみことばをその通り受け取る、信じるのです。
エサウは、父親の口から発せられる祝福のことばの力を信じていたので、そのことばを受け損なった時に、激しく泣き悲しみました。
神の子達である私達の人生にたいして、天のお父さんが宣言してくださった祝福を読む時に、私達は大喜びすべきです。
「これは私の権利証書だ!」と確信するのです。
状況や人の語る言葉ではなく、みことばから神のみこころを知り、確信を持つ。
「『私の神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって私の必要を全て満たして下さる。』私は乏しくなることはない。神様は真実なお方で、偽りを言われない」
信仰が鍵となりますが、ではその信仰はどうやって持つことができるのでしょうか?
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
私は目に見えるものによって歩まない。
信仰によって歩みます。
神のみことばがあるならば、私の明日は保証されている、大丈夫である、私の癒しは必ず現れる、私は繁栄する、主は私の人生の面倒を見てくださる、そして私の子ども達は主に従い、私の結婚は祝福され、私のミニストリーは拡大していく、私は永遠に神様と共に天国で生きる、と確証を持つことができます。
質問したいことがあります。
なぜ多くの人達は、呪いの言葉はいともたやすく信じてしまうのに、神のみことばの力と私達の人生に宣言された祝福のことばを信じることができないのでしょうか?
誰かに「あなたは呪われている」と言われると、不安になって眠れなくなってしまうのに、「あなたは祝福されている」と言われると、「ああそうですか」と受け流してしまう。
魔女からの一言には、パニックになってしまうのに、神からの一つのことばは「本当にそうなるのか」と疑う。
私には理解できません。
神様の祝福する力よりも、悪魔の破壊する力、呪いのほうにより大きな信仰を持ってしまうのでしょうか?
神の祝福は希望的観測ではなく、神の宣告です。
信仰によって語られる時、聖書は、あなたが願っていることをもたらす創造的な契約の力があります。
だから私は常々言っています。
あなたの状況や問題について語らないでください、と。
なぜならそれを語った所で、何の油注ぎもないからです。
まだ何も目にしてない時に、結果を語るには信仰が必要です。
現状ではなく、願っている結果を語ってください。
ヨハネ4章46節。
「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。
そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。
さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。
息子が死にかかっていたからである。
そこで、イエスは彼に言われた。
『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。』
その王室の役人はイエスに言った。
『主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。』
イエスは彼に言われた。『帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。』
その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。
そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、『きのう、第七時に熱がひきました』と言った。
それで父親は、イエスが『あなたの息子は直っている』と言われた時刻と同じであることを知った。
そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。」
ハレルヤ!
約束の預言、神からのみことばを聞いた時に、「ああそうなればいいですね」と受け流してしまうのではなく、彼はそのことばを聞いた時に信じ、結果息子が癒されました。
彼は、ただ神のみことばをその通り単純に信じたのです。
イエス様がことばを語られ、彼がそのことばを信じた時に、状況は変わったのです。
イエス様の口から発せられたたった一言を彼は信じたのです。
私達は単純なことを、あまりにも複雑にしてしまっています。
あの百人隊長は言いました。
「あなたを私の屋根の下にお迎えする資格は私にはありません。ただおことばをください。そうすれば私のしもべは直ります。」と。
宣言された祝福のことば、約束の預言、天の神様の口から発せられたことばには力があります。
聖書は言っています。
「主が地に命令を送られる。そのことばはすみやかに走る。」
神の御口からことばが発せられると、すべてがそのことばに従います。
曲がった体は真っ直ぐになり、膵臓は正常に機能し始めます。
私がエドモントンで集会を持っていた時に、腎不全と診断された若い女の子が参加しました。
水曜日の夜に、私は彼女に按手して「あなたは死ぬことなく、生きる。あなたの体に神の健康を宣言する」と言いました。
彼女は、腎不全のために、一カ月ほど両足に非常に激しい痛みがあったのですが、それから2,3日後に、痛みが消え去り、ランニングをしたそうです。
「まるで自分が真新しくなったかのように爽快です。」と言っていました。
そして先週、彼女からメールがありました。
「病院に行って、血液検査をしたところ、医師達から『あなたの血液は正常値に戻っています。』と言われました。」
実は、緊急処置、おそらく腎臓移植などのなんらかの手術をする予定だったのですが、「中止しましょう。おそらく完治したのだと思います。」と医師達が言ったそうです。
私は、あの水曜日の祈り会で、彼女の体に神の癒しを健康を宣言した時に、彼女の腎臓やその他の機能が、語られたことばに従って、動き出したのだと信じます。
あなたに語られたことばに、確信を持つ必要があります。
あなたは祝福されています。
エペソ1章3節は、「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と言っています。
宣言された祝福のことば、そしてそのことばをその通り受け取る、信じることには大きな力があるのです。
みなさん、あなたは、自分の人生と自分の家族や子ども達にこれらの祝福を宣言することができます。
あなたの人生をこの世に決めさせないでください。
みことばをあなたの心に蓄えて、それを口に出して宣言するのです!
聖書は言っています。
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
私達は自分にこう言うことができます。
「あなたは祝福されている」
「あなたは呪われない」
「あなたは癒されている」
「ピリピ4章19節によるなら、あなたの必要は全て満たされる」
「あなたは頭となって、尾とはならない」
「あなたはあらゆる面で増加し、あなたの偉大さは大きくなる」
「あなたはキリスト・イエスにあって天の御座に着座している。」
「あなたは召されている」
「あなたは解放されている」
「あなたは救われている」
「あなたは主から非常に好意をもたれている」
「あなたは圧倒的な勝利者だ」
「あなたはキリスト・イエスによってすべてのことで勝利している」
これらはすべて聖書に書かれていることです。
神のみことばを宣言するなら、間違いはありません。
ダビデは油注ぎを受けた時に、特別な感じがなかったかもしれませんが、彼はその油注ぎには力があることを知っていました。
欧米では、賛美コンサートには沢山の人が集まって、満員御礼になります。
なぜなら音楽は、すぐに感じることができ、高揚感があるからです。
そのことを否定したり、批判するつもりはありません。
けれども祈り会が満員になることはほとんどありません。
それは、祈り会は、賛美コンサートと比べると、あまり高揚感がなく、すぐに何かを感じるわけではないからです。
しかしイエス様は、何かを見たり、感じる前に、すでに受け取ったと信じなさいと言われました。
祈りは働きます。
祈りは、物事を成し遂げるための実際の仕事です。
大事なのは、何かを感じることではなく、神のみことばにたいする信仰です。
みことばによって導かれ、みことばがあなたの将来を決めるようにしてください。
確かな預言のみことばに従って、宣言してください。
「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」
夜明けとなるとはどういう意味か分かりますか?
今は、状況は暗いかもしれない。
けれども、あなたがあなたの口からみことばを発し、辞めることを拒否し、妥協せず、約束から引き下がらないでいるなら、やがて夜が明けるのです。
新しい夜明けがやって来た、と言ってください。
神のみことばの光が、どんな深い闇にも差し込むのです。
あなたは医者のことばで、心が絶望の闇で覆われてしまっているかもしれません。
新しい夜明けがやって来ました。
光はどんな暗闇も貫き通します。
その光は、どんな暗闇も消し去るほどの明るさです。
神のみことばは勝利し、増加し、拡大します。
神が言われたことは必ず成就します。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」
新しい夜明けがやって来ました。
「天のお父様。
イエスの御名によって祈り求めます。
どうぞこのメッセージを聞いた兄弟姉妹が皆を、あなたが励ましてください。
彼らの心に、生生しい聖書信仰が生み出されますように。
神のみことばを自分達の権利証書として見、すでに与えられているものとして見ることができ、その中を歩むことができますように。
天のお父様、感謝します。
信仰は聞くことから始まり、聞くことは神のみことばによることを。
彼らの心に聖書信仰が生きていることを感謝します。
あなたのみことばに、私達の告白を合わせることができるように、あなたの恵みが今、私達一人一人の上に注がれていることを感謝します。
私達の言葉を、あなたのことばと一致させてください。
私達が、聖書のことばだけを宣言することができますように。
エゼキエルが、谷間の干からびた骨に預言すると、その骨々が生き返り、非常に大きな軍勢となりました。
お一人びとりの人生が、今どれほど絶望的な状況だったとしても、彼らが目にしていることではなく、あなたのみことばに一致したことを語ることができるように恵みを注いでください。
イエス・キリストの御名によって、神様、私は祈ります。
あの王室の役人の息子の状況が、ことばを語られた瞬間に変化し始めたように、私は全ての人達に癒しを宣言します。
そして今この時、状況が変化します。
崩壊しかけている結婚生活に、逆転が起きることを宣言します。
今、この時から状況が一変しますように。
ダニエルが口を開いて祈りだした時から、あなたがその祈りに答えるために御使いを遣わされたように、今、この時から、お一人おひとりの人生に超自然的な変化がもたらされますように。
神の御霊の力によって、光が夜明けのように差し込み、あなたがお一人おひとりに約束されたことが速やかに成就していきますように。
主よ、あなたは言われました。「主のみことばは、すみやかに走る」と。
あなたのみことばが、すみやかに、希望どおりの結果をもたらしますように。
イエスの力強い御名によって。まだ見る前に私達はあなたに感謝します。アーメン。」
種蒔き
ミニストリーを始めた時、私と妻は経済的に行き詰っていました。
借金はありませんでしたが、収入もありませんでした。
その時に、妻と私は、犠牲を払って献金をしました。
完全に信仰によって捧げたのですが、それは他の人達から見たら愚かしいことだったと思います。
「今のあなた達の経済状態なら、捧げるんじゃなくて、貯金しないと。」
けれど聖書は、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。」と言っています。
この世のシステムは、「まさかの時のために蓄えなさい。」と言いますが、神様の信仰のシステムは、「蒔きなさい。与えなさい。そうすれば増し加わるから」と言います。
ですから、私達はミニストリーの初期の頃、自然界では全く意味のなさない種を蒔いてきました。それは思慮に欠ける行動に見えたかもしれません。
しかし私達は聖書信仰によって行動していました。
私達が、神のみことばを信じ、期待して地に種を蒔くと、必ず収穫がもたらされます。
聖書は言っています。
「みことばを敬う者は報いを受ける。」
それなので私達は、「神様は約束を守る神様で、誠実なお方で、信頼することができる。頼ることができる。」と期待して、地に種を蒔きました。
そして一度たりとも、人間の目には愚かしく見える種蒔きをした結果、経済的に窮地に追い込まれるということはありませんでした。一度たりともです。
神様の御手に何かを捧げると、神様は真実に、速やかに応答して、あなたの手に収穫をもたらしてくださいます。
私達はこの原則を、ミニストリーの初期の頃に学びました。
銀行に3万円ほどしかない時に、3万円捧げることの方が実は簡単なのです。
「大金が入ったら、捧げる」と言う人達がいますが、たとえそれがわずかであっても、まず今いるところから始めることなのです。
もし初期の頃に信仰によって捧げていなかったら、このミニストリーも私自身も、今のように捧げることはできなかったと思います。
なぜならこの捧げることは、筋肉を鍛えることと似ているからです。
私達は、神様の奇跡的な備えを次から次に体験していき、神様が経済の領域で、ご自身の契約を忠実に守ってくださるのを何年間も見てきました。
以前、私は捧げることによって主を試してきましたが、今は試すのではなく、捧げることが習慣、ライフスタイルとなっています。
「私は経済的に祝福されています」と宣言することも重要なのですが、私達は種蒔きもする必要があります。
もし私達が経済において、人生において、ビジネスにおいて増加を期待しているなら、まず主に捧げましょう。
以前、私は、モントリオールでクルセードを開催するために信仰によって種蒔きをした時がありました。
その時、クルセードを開催するためのお金はなかったのですが、種蒔きをするためのお金はありました。
捧げた後に、私は自分の牧師先生のところに行って、「クルセードを開催するのですが、教会の方達数人に手伝ってもらってもいいですか?」と聞きました。
すると牧師先生は、「もちろんだよ。でもそれだけじゃない。教会がこのクルセードの費用を全額負担するから、君は一銭も払わなくていいよ。」と言ってくださったのです。
クルセードの費用は250万円以上だったのですが、全額支払うことができました。
当時、私にはそれだけのお金はありませんでした。
その前年の一年間の収入は、210万円ほどでした。
このような言葉があります。
「もしそれが必要を満たすのに十分ではないなら、種蒔きをするためのものに違いない。」
それなので私は種蒔き献金をして、そしてクルセードの費用が全額超自然的に備えられるのを見ました。
私は牧師先生に、経済的援助を求めに行ったのではなく、教会員の人達に手伝ってもらえないかと聞くために行きました。
先生は、私がすでにクルセードの費用を全額用意できていると思っていました。
ですから、私の経済状態については全く知らなかったのですが、霊の内に費用を全額負担するようにと感じたのです。
神様は、あなたに好意を与えるために、また仕事で昇進できるように、あるいは本来は資格がないけれどもその働きをすることができるように、人々をあなたのもとに引き寄せてくださいます。
それは、あなたの上に神様の好意があるからです。
いつも私達の働きに種を蒔いてくださり、リバイバルのために、福音を世界に携えていくために私達に協力してくださって感謝します。
皆さんを愛しています。
良い一週間をお過ごしください。またお会いしましょう。
神様の祝福がありますように。


