「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。」詩篇89篇34節


「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。

人の子ではなく、悔いることがない。

神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」

民数記23章19節


「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」申命記31章6節


「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたととともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」申命記31章8節


「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」申命記30章14節


神様は偽ることができないお方



ジョン・チョー(NCTC Dallas 牧師)


ハレルヤ。

神のみことばと、私達の人生にたいする神のご計画を信じることは重要です。

神のみことばと、人類にたいする神のご計画によるなら、私達は神様のご計画にとって重要な存在です。

私達は神様にとってとても重要な者たちです。それゆえに神様は、イエス様を送ってくださったのです。

私達が何者であり、私達がどれほど神様にとって大切であるかを証明するために。


自分が神様にとって大切な存在であることを知ることは、人生にたいする見方、態度を変えます。


隣の方の目を見て、「あなたは神様にとってとても大切な人です。」と言ってあげてください。

アーメン。


「あなたが神様にとってとても大切な者であることを信じてください。」と言ってください。


「あなたのいのちは大切で、あなたは神様にとってとても尊い人です。」


あなたが神様にとってとても重要な存在なので、神様はあなたの人生に計画を立てられました。


神様は私の人生にも計画を持っています。そしてこの計画はとても大きく、とても素晴らしいものです。

この計画はあまりも壮大なので、神様なしには実現不可能です。


神様は、みことばと御霊によって、私達を神様の計画の中に導きたいと思っています。


今日のメッセージの主題は、「神には偽ることができない」です。

メインのみことばは、Ⅰヨハネ1章10節です。

この箇所は何度も読んだことがあるのですが、この節を思い巡らしている時に、今までとは違う新鮮さでこの節から語りかけを受け、このメッセージが与えられました。


ではまずⅠヨハネ1章10節を読みましょう。

「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」


「神様は偽り者だ」と言える方はいらっしゃいますか?

もちろんいませんね。神様は偽り者だと信じていますか?

信じていないですね。


福音を伝える時に、「神様は良いお方だけど、時に嘘をつかれます。よく注意してくださいね。神様のみことばはそのとおりになる時もあれば、効果がない時もあるんです。というのも神様は偽るお方だからです。」と言う人は誰もいません。


でもご存知ですか?

私達は、そのつもりはないけれど、神様を偽り者とする時があることを。

私は、そのことをこの節から語られました。


もう一度、ゆっくりこの節を読んでみましょう。


「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」


これはクリスチャン、ノンクリスチャン関係なく当てはまります。

私達は全員、罪を犯した。

私達の場合は、かつて罪人でした。

イエス・キリストを受け入れないなら罪人ですね。

しかし、人の前で、神様の前で、「私は罪を犯さない」と言うなら、私達は、神様を偽り者としているのです。

なぜなら聖書は、「私達は皆罪を犯し、神からの栄誉は受けることはできず」と言っているからです。



言い換えるなら、ノンクリスチャン、クリスチャン関係なく、神のみことばに反することを言うなら、罪を犯しているのです。



神様が言われた事とは逆のことを言うなら、私達は神様を偽り者としてしまう。

「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」


神様のみことばがうちにないので、私達は神様のみことばに反することを言ってしまう。神様のみことばに反することを言う、それは神様を偽り者とする。


私達に実際にあてはめてみましょう。

何度、私達は神様のみことばに反することを信じ、語ってきたでしょうか?


例えば、聖書は「彼の打ち傷によってあなたがたはいやされたのです。」

と言っています。

それが神のみことばです。

しかし多くの場合、私達の口から出る言葉というのは「ああ、私は病気だ。」です。



神様のみことばは、「あなたは癒された」と言っているのに、私は「私は病気だ」と言っているからです。

神様は「あなたは癒されているよ」と言われているけれど、私は「いいえ、私は病気です。神様、あなたは嘘つきです」と言っている。

もちろん、私達は意図してそうしているわけではありません。

しかし、無知や不信仰によって、私達は神様を偽り者としてしまうのです。



誰も神様を偽り者にはしたくありませんね。私達は、神様が偽り者ではないと信じています。


しかし、私達が、神様のみことばに反することを言う時、私達は偽り者となってしまうのです。


使徒パウロは違った言い方をしています。

ローマ3章3-4節。

「では、いったいどうなのですか。

彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。

絶対にそんなことはありません。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」



私達の不信仰は、神様の真実さを無効にすることはない。

つまり、私達の不信仰は、神様を偽り者にすることはできないのです。


パウロは別のアングルでこのように言っています。

「すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」


しかしヨハネは、私達が神のみことばに反することを語るなら、神を偽り者とするのです、と語っています。


言わんとしていることは同じだけれども、異なるアングルから語っている。


つまりあなたが神様を偽り者とするなら、結局はあなたが偽り者となってしまうのです。


民数記23章19節は、神様のご性質を示しています。


私達が神様のみことばを思う時、神様のご性質、高潔さと神のみことばを結びつけるべきです。


たとえば、私ジョンの言葉。

私の言葉をあなたが信じようと、信じなかろうと、その言葉は私の性格、高潔さ、能力、信用性に基づいています。


私が何かを語る時、私を信頼しているなら、私の言葉を信用しますね。


けれども、言ったことを守らないことが頻繫にあるなら、そのような人の言葉は完全に信用することはできません。

なぜでしょうか?

言ったことを守らないことが何度もあったからです。


経済における信用スコアもそうですよね。期日までに支払うことができるかにかかっています。

私達の信用度は、私達が口の言葉を守るかどうかにかかっていますね。


神のことばについて考えてみてください。


神のことばと聞くと、私達は聖書に書かれたみことばと考える傾向があります。

しかし、神のみことばと神様を切り離して考えるべきではありません。


神のみことばと、神様の完全さ、信頼性、力、そして真実さを結びつけて考えるべきです。


民数記23章19節。一緒にお読みしましょう。


「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。

人の子ではなく、悔いることがない。

神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」



聖書は一貫して、神様が偽りを言うお方ではないと強調しています。

神様は偽ることができないお方です。

神様は人間ではなく、偽りを言うことがないのです。


けれど、私達が信仰の原則を理解していなければ、混乱するかもしれませんん。


なぜなら、私達の肉体の感覚では、病気であると感じるからです。

しかし霊的な感覚では、私達は病気ではありません。

目に見える現実では、肉の感覚ではお金がないかもしれません。

しかし霊の感覚では、私達は富んでいます。



肉の感覚では、弱さを感じるかもしれません。しかし霊の感覚では、私達は強いのです。


肉の目で見るなら、被害者に見えるかもしれません。

しかし霊の目では、私達はキリストにあって勝利者です。


だからこそ、「義人は信仰によって生きる」のです。


ローマ1章16節はこう言っています。

「私は福音を恥とは思いません。

福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」


そして17節はこう続きます。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。

『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」



Ⅱコリント5章7節は言っています。

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」


神様の物事のなさり方、神様の言語を知るなら、私達は信じ、私達もその通りに行うことができます。


神様の言語。

ローマ4章17節にはこうあります。

「神は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」


私達の肉の目、肉の感覚では、まだ存在していないものを、あたかも存在するかのようにお呼びになる。

なぜでしょうか。

神様は、私達の感覚レベルで働かれるのではなく、霊的レベルで働かれるからです。



私達がキリストのうちにあるなら、信仰のうちを歩むことによって神様に協力する必要があります。


「私達は見えるものによってではなく、信仰によって歩んでいる。」


つまり私の目、私の感覚は弱さを感じている。


例えばこのように言う。

「ああ、この弱さはどうしようもないや。何度も失敗してしまう。この弱さは克服できないや。」


そのように言った瞬間に、私達は神様を偽り者としてしまっているのです。

神様はこう言っています。「罪があなたを支配することはない。」

言い換えるなら、弱さはあなたを屈服することはないのです。

病もあなたを支配することはできない。



私の体験、私の目の前にある現状は、「私は弱い」「これは上手にできない」

「私は自分の限界を突破することはできない」と言ってくる。



それは自分の感覚や、人から、あるいはこの世が私に語ってくることです。

しかし神様は違ったことを言われます。



私達が神様が語られるのと同じことを言うなら、私達は神様を偽り者とするのではなく、神様と一致しているのです。

これが私達が信仰によって歩んでいる、新しく造られた者達の原則です。


だからこそⅡコリント5章16節はこのように言っています。

「私たちは、人間的な標準で人を知ろうとはしません。」


人間的な標準、肉によって、見たり、知ったり、理解するのではない。

そうではなく、御霊によって、見、理解するのです。


ローマ8章1節。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」



それが私たちの信仰の歩みの基本原則です。

つまり、御霊によって歩むということです。

では御霊によって歩むとはどういう意味でしょうか?



私達の霊の現実についての情報は、神のみことばにのみ啓示されています。

私達が神のみことばを見ると、私達の霊的現実が示されている。

私達が神のみことばと、私達の現状を見る時に、そこにはずれがあります。


そうすると私達は、自分が感じること、見ること、嗅ぐこと、体験すること、この世が語ってくることによって、語ろうとする。



しかし私達が新しく生まれ変わるやいなや、みことばに立つ者となります。


自分が体験していることとは合致しないけれど、いのちを語る。


弱さを感じるけれど、「私はキリストにあって強い者です」と語る。


「自分はこれに打ち勝つことなどとうていできない」と感じるけれど、「罪は、弱さは私を支配することはない」と語る。


神様が私達に語られる事と同じ事を語る時、私達は「神様には偽りがない」と言っているのです。


続く