2024年に投稿したメッセージを再投稿することにしました😊
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過去に失敗したとしても、「自分は神様に見捨てられた」とは思わないでください。
神様はあなたをあきらめていません。
神様はあなたの全てを回復してくださいます。神様から離れないでください。
神様はあなたに立ち上がる力を与えてくださいます。
今日、もう一度立ち上がってください。
「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記31章8節)
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41章10節)
「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら—
待ち望め、主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め、主を。」(詩篇27篇13―14節)
この2つの声にはご用心!
TJ・マッカンジー
あなたが神様に信仰によって求めているものを、受け取ることができなかった人達を見るのはやめてください。
否定的なレポートに思いを向けないでください。
「ほらあの人達もあなたと同じように信じてたよ。でも結果的にどうなったと思う。」そのような声に耳を貸さないでください。
それはあなたとは関係ありません。それはその人達の話しであって、あなたの話しではありません。
「彼らは私の心にも、思いにも、体の中にもいない。そして私も彼らの中にはいない。」
それなので私は、彼らの思いの中で実際何が起こっているのかは知りません。
私に唯一できることは、自分の信仰、思い、行動にたいして責任を持つことです。
ダビデはこのように言いました。「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」(詩篇119篇111節)
ダビデはこう言っていたのです。「○○兄弟や○○姉妹に起こったことは関係ない。私は、神のすべてのみことばを私の相続財産として受けとる。」
彼らの証、体験は私の相続財産ではない。神のみことばが私の相続財産だ。
彼らに起こった事が、私の人生に起こることを決めるのではない。
3つの事をあなたは決意する必要があります。
1.他の人達の体験が、自分の将来を決定することはない。
2.他者の意見が、神様にたいする自分の見方、信仰を変えることはない。
3.他者の批判によって、やめたり、引き下がったりはしない。
私はあきらめない、と。
知っていますか。悪魔はあなたに何かをやめさせることはできないんです。
悪魔にできるのは、あなたが願っているものを得ることができなかった人達の話しを持ってきて、あなたを失望させ、やめるようにと仕向けることだけです。
しかしやめるのは、あなたの選択です。
レスター・サムロールという方がいましたが、彼にはあきらめる、やめてしまう機会なら沢山ありました。
偉大な神の男性、女性達と、そうではない人達の違いは、一方は神様の好意を存分に受け、もう一方は底辺の取るに足らない者達だったというわけではありません。
両者を分けたのは、一方は決してやめず、もう一方はやめてしまった、諦めることを選び取ってしまったというただそれだけなのです。
人生で神様から与えられた召しを成し遂げた人達と、そうでない人達の違いは、能力や賜物、雄弁さ、あるいは家柄とはまったく関係ありません。
そうではなく、最後まで行くことを決意したかどうかだけです。
「私は絶対に最後まであきらめない。どんな障害物があったとしても耐え忍ぶ。」と。
信仰は、必ずいつも切り抜ける道を見いだします。
信仰の人達は、いつも切り抜ける道を見いだすのです。
そして信仰は、称賛を得るのです。
これが両者を分ける違いなのです。
ですからあなたは決心する必要があります。
「何があってもやめない。」
レスター・サムロールは、ポケットに12ドルしかなかった時に、サンフランシスコのある教会で、まるまる1週間説教の奉仕をしました。
そこの牧師は、毎回献金を集める時に、レスター師の名前を出していたのですが、その週が終わった時に、彼に1銭も支払うことはありませんでした。
彼は毎晩の集会で語っただけではなく、毎午後、聖書学校の生徒達を引き連れて町に行き、どのように魂を勝ち取るかを教えました。
そのように1週間、全身全霊で働いたのに、彼は1銭も受けることはありませんでした。
その後にオーストラリアに行くために港に向かったのですが、先ほどの牧師先生が親切にも彼を港まで車で連れて行ってくれることになりました。
1週間集会をする度に、彼のためにという形で献金を集めたにも関わらず、彼に1銭も献金を渡さなかった牧師先生は、「車で港まで送りますよ。」と言ってくれたのです。なんとお優しい先生でしょうか。
港に向かう車の中で、その牧師はレスター師に尋ねてきました。「あなたの宣教の働きを支援してくれる人達はいるんですか?」
「いいえ、いません。神様だけです。」
すると彼はこう言いました。「君たち若い人達は、いつもイエス様、イエス様ばかり言うね。」
牧師の発言です。「イエス様がこれを、あれをしてくださると。でもいいかい、君には組織が必要だよ。君を支援してくれる団体が必要だよ。そうしないと君は失敗するよ。外国で餓死してしまうよ。」
レスターは落胆して、やめることならいつでもできました。
しかし彼はもうすでに心が定まっていたのです。ですから彼はこのように答えました。
「もし私が中国や、どこか外国で死ぬことがあったなら、その時は私が葬られたその場所に『レスター・サムロールは神を信じて死に、ここに埋葬される。』と書かれた墓碑を送ってください。」
牧師は言いました。「私は送らないよ。」
レスター・サムロールは言いました。
「あなたはそれを送る必要はありません。なぜなら、神様は、やめない人達を必ず高く上げてくださるからです。」
神様は、最後まで耐え忍ぶ者達を必ず称賛してくださり、屈服せず、引き下がらない者達を高く上げてくださいます。
あなたが諦めないでいるなら、神様はあなたを引き上げ、新たな地へ連れて行ってくださいます。
私が最初にミニストリーを始めた時、開かれた扉などありませんでした。
私は牧師家庭出身者ではありません。またオーラル・ロバーツ師やTL・オズボーン師、レスター・サムロール師のような偉大な説教者達が家族にいるわけでもありません。
「彼は誰それ先生のお孫さんだから、ぜひ招いて説教してもらおう」と言われるような者ではありませんし、そうなりたいとも思いませんでした。
私は神様が私の供給者であってほしかったのです。
もし私が高められたり、人生で何かを成し遂げたなら、誰もそれは誰それのゆえだとは言えない、全て神様がなされたと認めざるをえない、そのようであってほしかった。
とにかく私には開いた扉はなく、収入もなく、おまけに結婚したばかりでした。
行く当てがなかったので、私の実家の地下に妻と住ませてもらっていました。
説教するために招かれる集会はなく、神様が扉を開いてくださると信じてただ断食と祈りをしていました。
「何をしているの。君は一日中何もしないで、ただ断食して祈っているだけじゃないか。仕事を探しに行きなよ。」と言ってくる人達もいました。
仕事をすることは悪いことではありません。
神様が扉を開いてくださるのを待っている間に、神様が仕事を探しなさいと言われるなら、そうしてください。
けれども私は神様から具体的に言われていました。
「一般の仕事はせずに、その間断食し、祈りなさい。わたしが扉を開くから。
なぜならあなたは世の中で仕事をするなら、道から外れ、わたしがあなたを連れて行きたいと思っている方向とは別の方向に行ってしまうからだ。」
人々は私に言いました。「もう仕事をしなよ。ただ怠けているようにしか見えないよ。」
そのようなありとあらゆる批判を私は受けなければなりませんでした。
もうやめたいと思う時もありました。
妻に「もしかしたら仕事を見つけたほうがいいかもしれない。両親の家の地下で生涯暮らしたいとは思わないし。」と言った時もありました。
感謝なことに、私には聖霊充満の奥さんがいて、決して諦めないようにと励ましてくれました。当時の私達の生活は余裕があるようなものではありませんでしたが、彼女は気にすることなく、全く動じませんでした。
私達は、ただ前進しつづけました。
私はやめることを断固拒否し、あきらめませんでした。
あれから6年経ち、私達は今年、家を購入します。
私達は前進し、多くの扉が開かれました。街々でクルセードをしたり、礼拝でメッセージの奉仕をするために呼ばれたり、1週間のリバイバル集会の奉仕に呼ばれたりしています。そして大きなテレビ番組からも今年呼ばれています。
もし諦めていたら、私は何も目にすることはありませんでした。
キャリアを積んだりすることは悪いことではありません。
しかし、それは神様が私に願っている道ではありませんでした。
聖書はこのように言っています。
「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」
私はその道にとどまりつづけ、どう猛な雄牛のように、ランニングバックのようにあらゆる批判を、色んな人達の意見を、走り抜けてきました。
色々な人達があらゆる意見をあなたにたいして持ちます。
しかし他の人達の思いは、あなたの幸せや喜びをゆだねるべきでは場所ではありません。
あなたがしていることについて、皆が別々の意見を言ってくるでしょう。
しかし人の意見はあくまでも人の意見です。そしてその中のあるものはお粗末です。
ですから失敗してしまった人達を見ないでください。
他の人達が上手くできなかった事を、あなたがしようとするなら、神様があなたに与えようとしているものを受け取るために前進していこうとするなら、必ず誰かがあなたを落胆させようとしてくるものです。
聖書はこのように言っています。
「信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人達にならうものとなりなさい。」(ヘブル6章12節)
ある人達は、人間的な理屈を言って、神様の約束を退けてしまうのです。
「キリストの打ち傷によって、あなたがたは癒されたと聖書は約束しているけれどね、そのみことばの文脈をよく見ないと」とあれこれと理屈を並べ立てて、神様の約束を遠ざけてしまう。
嘆かわしいことに、理屈を巧みに語る説教者達がいます。
そのような方達の説教をずっと聞いているなら、もはや神様が誰かを癒したり、奇跡を行ったりするなどとは信じられなくなってしまうのです。
説教を聞き終わる頃には、自分が救われているのどうかさえ分からなくなってしまう。
聖書は「説明が上手な人達を模範としなさい」とは言っていません。
「信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人達にならうものとなりなさい。」神の永遠のいのちをつかみ、信仰が約束する良い評価を得た人たちにならいなさい。と言っているのです。
ヘブル11章を読んでみてください。
そこに出て来る信仰の男性達、女性達を見てください。
このようには言っていませんよ。
「信仰によって、アブラハムは主に従ったが、約束の子イサクを見ることなく死んだ」
違います。彼には、与えられると信じた奇跡の子、息子イサクが与えられました。
信仰によって、サラには子を宿す力が与えられました。
信仰によって、私達は受け取るのです。
信仰は、あなたが何かを上手に説明することではありません。
信仰とは、神様の御手からあなたが何かを受け取ることができるようにさせる力です。
あなたがしようとしていることを成し遂げることができなかった人達の例を見るのはやめることです。
自分が見るべきものを見つづけるように訓練してください。
自分の周りで起こっていることをコントロールすることはできないかもしれません。
けれども、自分が何に目を留めるのかはコントロールすることはできます。
自分に起こった事をコントロールすることはできなかったかもしれませんが、今からは自分が何に目を留めるかをコントロールすることができます。
そしてそれは、あなたのこれからの人生に影響を与えるのです。
自分に起こった事をコントロールすることはできなかったかもしれません。
しかし、今日から自分が見るものを管理していくなら、今日この日から起こっていくことをあなたは変えていくことができるのです。
聖書はこう言っています。
Ⅱコリント4章16節。「ですから、私たちは勇気を失いません。」
これはパウロが言っている言葉です。
「私は勇気を失わない。失望しない。」と言ってください。
これは力強い宣言です。
なぜ聖書は365回「恐れるな」「たじろぐな」「おののくな」と言っているのだと思いますか?
1年は365日あるからです。
毎日1つの「恐れるな」というみことばを摂取すべきですよ。「私は恐れない」
多くの人達がビタミン剤を毎日摂取していますが、神のみことばのビタミンを取ってはどうでしょうか。
「私は恐れない。」「私は失望しない。」「私は弱りはてない。」
このように自分自身に、また自分の人生に宣言することは力強いことなのです。
火曜日の放送で話しましたが、何かを語ると、脳はたった今口から発せられた言葉に基づいて、どのように感じるべきかニューロンによって体に指令を出すのです。
「私は恐れない」と言うなら、体は恐れを払いのけます。
「私は失望しない」と言うなら、体は失望をかわそうとします。
「私は弱り果てない。」と言うなら、体は疲れ、疲労感と戦います。
パウロは言いました。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
「今の時の軽い患難は、」
悪魔は、あなたが通っている試練が一生涯続くものだと信じさせたいのです。
しかし聖書は「今の時の軽い患難は」と言っています。
悪魔は、あなたが今体験していること、人生の暗い時について、あなたに2つのことを信じ込ませたいのです。
1つは、悪魔はあなたが今体験していることが、重い患難、不可能な問題、誰も経験したことがないような特別複雑な状況で、神様でさえ自分をこの問題から救い出すのは難しいと信じ込ませたいのです。
2つ目に、悪魔は、あなたの患難、苦しみは生涯続くものだと信じ込ませたいのです。
この2つは偽りです。
聖書は「軽い患難だ」と言っています。そして聖書は「今の時の軽い患難」と言っています。
Ⅰペテロ5章はこのように言っています。「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで」
しばらくです。聖書も言っているのです。ずっと苦しむ必要はない、と。
「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」
あなたは今の状況のままで死ぬことはありません。
あなたが諦めず、やめないでいるなら、栄光ある未来があなたの前にあるのが見えますよ!イエスの御名によって。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて」
また出て来ましたよ。
悪魔があなたに信じ込ませたい3つ目の嘘はこれです。「神様は自分のために働いてなどくださらない」
神様はあなたのためにたった今働ていくださっていますよ。あなたにそれが見えようとも見えなかろうとも関係なく。
神様は全てがあいはたらいて益となるようにしてくださっているのです。
あなたが信仰によって立ち続けるなら、神様はあなたの状況を益とするために働きつづけてくださるのです。
そして主は「測り知れない、重い永遠の栄光をもたらしてくださるのです。」
主を賛美します!
あなたの明日は大丈夫です。
18節。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
あなたが今目にしているものは一時的なものなんです。離婚に危機に瀕している結婚生活、それは一時的なものです。
あなたが信仰に立って、エペソ5章で語られている「夫達よ。妻を愛しなさい。妻達よ。夫に従いなさい。」そのことを行っているなら、神様は言っています。
「目に見える状況を見るのではなく、背後で働いている神に目を留めなさい。あなたの結婚生活は回復する。」
X線の結果は芳しくなく、医者からは長く生きられないと言われたかもしれません。
しかし私達が見るのはX線の結果ではありません。
見えるものには目を留めません。それらは一時的なものだからです。
「私は死ぬことなく、かえって生き、そして主の御業を語り告げる。
神様は、私のために今働いてくださっていて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらしてくださる。
そしてそれはこの時代の人々に、私の神様は、神々の中の神ではなく、生ける真の神であり、今も生きておられることを現すことになる。」
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
集中する。良い知らせに集中するのです。
あなたの信仰を励ます証に心を向けてください。
2番目。不敬虔なアドバイスを聞くのをやめる
詩篇1篇は言っています。
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず(欽締訳では、不敬虔な者の助言に歩まず)」
不敬虔な助言は、いつも不敬虔な人達から来るのではありません。
不敬虔な助言は、クリスチャン達からもやって来るのです。
レスター・サムロール師は、牧師からあのような助言を受けました。
悪霊に憑かれて、通りを裸で走り回っている人が「そんことしてたらお前は死んじゃうぞ~」と言うなら、容易にかわすことができたでしょう。
しかし、尊敬された人、本来みことばに立つべき牧師から言われたのです。
聖書は、「悪魔さえ光のみ使いのふりをする」と語っています。
悪魔は、いかにも悪魔的な姿ではやって来ません。服が破けて、悪霊的な声を出して、といった風には。
そのような姿であるなら、私達はすぐに「ああ、この人は悪霊に憑かれているね。助けが必要だ。解放が必要だ。」とその悪しき助言を退けることができるからです。
ではどのようにしてやって来るのでしょうか。
微妙に、分かりにくくしてです。例えば、あなたが尊敬している人から来る場合もあります。
誤解しないでください。私は、全く助言を受けないようにとは言っていません。
聖書は、多くの助言者によって成功する、と言っています。
けれども、誰からの助言であっても、それら全ては、みことばのフィルターに通す必要があります。
全てです。
私がOCD強迫神経症を患っていた時に、私よりもクリスチャン歴が長く、とても尊敬していた方から「TJのOCDはパウロの肉体にあったとげみたいなものだよ。」と言われました。
君は神様からずっと離れていたから、今、神様はこのOCDを通して、君の肉、罪を取り去り、君をより良い者としてくださっているんだと。
しばらくの間は、「もしかしたらそうなのかもしれないな。」と思ったりもしていましたが、
私の牧師先生、スティーブ先生からみことばに基づいた助言を受けました。
先生は、私を座らせ、なぜOCDはパウロのとげではなく、癒すことがいつでもイエス様のみこころであるのかを、みことばから説明してくれました。
それを聞いた後に、私は癒されました。
私に、OCDはパウロの肉体のとげだよと言ってきた方は、私よりもクリスチャン歴が長く、尊敬していた方でした。
けれどもその方の助言は、私にとってどうもしっくりきませんでした。
あなたの霊にしっくりこないものがあった時には、注意してください。
ピリピ4章8節。
「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に価することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」
これがフィルターです。どのような思いも、アドバイスも、誰からの意見であっても、今読んだこのフィルターにかける必要があります。
それは真実ですか?誉れあることですか?正しいですか?清いですか?愛すべきことですか?評判の良いことですか?徳を高めるものですか?称賛に価することですか?
そうではないなら、思い巡らせないでください。拒んでください。
パウロが伝道しに行ったベレヤの人達について聖書はこのように語っています。
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」
口をただポカンと開けて、何でもかんでも受け入れてしまうクリスチャンにはならないでください。
しっかりと選び、みことばのフィルターにかけるのです。
なぜなら、あなたが困難を通っている時には、色んな人達があなたを助けてあげようとして意見を言ってくるからです。
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14章12節)
その人達は、決して悪い人達ではないのです。自分達のアドバイスが、あなたの助けとなるかもしれないと思っているだけです。
しかし実際は助けとならない事が多いのです。
ですから、みことばの光を、それらの意見に照らす必要があるのです。
フィルターを通らなかったなら、その助言についてもう考えないことです。
不敬虔なアドバイスを聞くのはやめるのです。
ガラテヤ1章6節。
「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」
他の福音、他の意見、他の観点。
「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」
時に、みことばを用いてアドバイスされる時があります。
しかし、あなたに一時的な慰めを与えるために、そのみことばを曲解し、そのみことばが語ってはいないことを、語っているのです。
覚えてください。
聖書はあなたに一時的な慰めを与えるためにあるのはありません。
あなたに打ち破りを与えるためにあるのです。
時に、不敬虔なアドバイスにはみことばが間違った解釈をされて用いられていたりもします。
私は、ある女性の牧師が、コロナ禍の時に、人々がもっとワクチンを接種するために、ワクチンを福音になぞらえて、家族や友人達にワクチンの有効性を語りなさい、あなたたちにはそうする義務があるのよと、教会員に語っているのを耳にしました。
その方は、みことばさえも用いていました。
しかしそのためにみことばをひどくねじ曲げていました。
エデンの園で、悪魔が「本当に神はそう言われですか?」と聞き、その後で神様が言われたことをねじ曲げて用いた時と似ていました。
イエス様が荒野で悪魔に試みられた時も、悪魔は「詩篇91篇には、あなたが落ちることがないように、御使い達を遣わすと書いてあるじゃないですか」と言って、みことばをねじ曲げていました。
パウロは、福音を、神のみことばを曲げて、用いる人達がいると語っています。
しかし先ほども言ったように、そうする人達全員が全員、悪い人達ではないのです。ただ欺かれてしまっていって、そのように言ったりするのです。
ガラテヤ3章1節で、パウロはこう言っています。
「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」
ですから不敬虔な意見を聞いて、迷わされないでください。
なぜなら聖書はこう言っているからです。「正しい者達が考えることは正しい。」(箴言12章5節 KJV)
敬虔な意見を聞いてください。
あなたに健全な助言、意見を与えてくれる人達を、神様はあなたの人生で置いてくださいます。
そういう人達の意見は、聖書から始まり、聖書にとどまり、聖書で終わって、聖書からぶれることがありません。
そのような人達と出会ったなら、その人達の助言をしっかりつかんで離さないでください。
なぜなら「正しい者達は、正しいことを考える。悪者の指導には欺きがある。」(箴言12章5節)からです。






