メッセージ動画はどうしても長くなってしまうので、part1とpart2に分けて投稿します😄


異言で祈ることによって泉から水を汲み出そう

~異言で長く祈るべき理由   異言で祈ることがまだ楽しいと思えないなら必見~

(写真はYoutubeより)

ジョン・K・チョー (NCTCダラス牧師)


ハレルヤ。主を賛美します。神様の臨在がここに強くあります。神様は私達の人生に何かをされたいからです。アーメン。


神様の働きにもっと期待していきましょう。


皆さん、目を閉じて私と一緒にこの祈りを声に出して言いましょう。


共に宣言しましょう。

「愛する神様。あなたの恵みと憐れみに感謝します。それは私の良い行いにもとづくものではなく、あなたの良さゆえです。

あなたが慈しみ深く、憐れみ深いお方だからです。あなたは私を憐れんくださっています。

ですから私は大胆に恵みの御座に行きます。今、私は憐れみを受け、恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けます。私が必要とする時に、助ける恵みがあります。

私は、キリストにあって自分が何者であるかを知っています。私は神から生まれたものであり、暗闇の力から解放されました。

私は、愛する御子の御国の中に移されました。私は神から生まれた者であり、御霊によって生まれた者です。私は、神のみことばによって生まれた者です。

それゆえ、私はこの世の者ではありません。

この世で生きていますが、この世の者ではありません。

私は上から出た者です。アーメン。」



ハレルヤ。

私達は毎日、このことを意識すべきです。

この世で生きているけれど、この世の者ではないと。


皆さんに考えさせるようなことをお分かちします。


私達には神様が必要ですね。

しかしそれと同じくらい神様も私達を必要としてくださっているのです。

なぜでしょうか。


父なる神様は、創世記でご自分が創造された世界を見ましたよね。

そして神様は、御子イエス・キリストをこの世界に遣わし、イエス・キリストは御業を完成されました。(永遠の救いのみわざ、罪の贖い)

そしてイエス様は天に戻られ、今御座に座しています。(天国で私たちのために働いてくださっている。)

では今は誰がこの地上で働かれているのでしょうか。聖霊様です。

聖霊様は、ペンテコステの日にこの地に送られ、今働かれています。



しかし聖霊様は私達教会を通して働かれます。ですから私達なしでは、御霊なる神様の働きは制限されてしまうのです。

だからこそ私達も神様が必要なのですが、神様も私達を必要としてくださっているのです。ハレルヤ。



だからこそ私達は異言で祈る必要があるのです。異言で祈ることによって、私達が聖霊様に自分自身を明け渡すと、聖霊様は私達を通して実際的に働くことができるようになるのです。ハレルヤ。



私達はこの世に属しているわけではありませんが、この世界で生きています。

ですからこの世のシステムと、背後で働いているものを知っておく必要があります。


この世界は悪霊に属しています。


確かにイエス様は権威を取り戻し、私達にそれを与えてくださいました。

しかし私達が生きているこの世界は、罪と死の原理によって動いています。


だからこそ、ニュースや、大切な人達の人生や、また自分達自身の人生を見ると、罪と死の原理が働いているのを目にするのです。

神様はこのことをご存知です。

しかし、私達は罪と死の原理の下にはいません。

私達はキリストのうちにある者で、いのちの御霊の原理の下にいます。



隣の方に言ってください。「あなたはいのちの御霊の原理によって動いています」

ハレルヤ。



私達がキリストの内にあったとしても、いのちの御霊の原理によって本来は動くべきだったとしても、そのことに無知であるなら、罪と死の原理の影響を受けてしまうのです。


私達の大切な人達も、罪と死の原理の影響を受けてしまうのです。

しかし良い知らせは、私達は聖霊様からの力を持っていることです。

そして私達がその力を用いるなら、私達は勝利の人生を生きることができ、私達の周りの大切な人達を、子ども達や、家族を、愛する者達をも守ることができるのです。



今日は、あなたの人生に実際に適用することができる力強いメッセージを語ります。

今日のメインとなるみことばは、ヨハネ4章14節です。そしてメッセージの主題は、「井戸から水を汲みだす」です。


ヨハネ4章14節です。

この箇所の文脈を簡単に説明しますね。



イエス様はサマリヤに行かれ、そこのある井戸で一人の女性と出会いました。

一人でいたイエス様は、そのサマリヤ人の女性に井戸から水を汲み上げて渡してくれるようにと頼みました。


すると女性は「あなたはユダヤ人の男性なのに、サマリヤ人の女性である私に水を求めるのですか?」と答えました。


というのも当時、ユダヤ人とサマリヤ人は仲良くなかったからです。

ですから非常に珍しいことでした。


イエス様は女性に、「わたしがあなたに与えることができるものが何であるかを知ったなら、あなたの方からそれを求めることでしょう。もう二度と渇くことがないからです。」と言われました。

すると女性は「何をおっしゃっているのですか。あなたは水を汲むおけも持っていないじゃないですか。その水を私にください。」と言いました。



これが大まかな内容です。

それでは14節を一緒に読みましょう。

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

ハレルヤ。



イエス様は言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」決して渇くことがない。


イエス様が言っている水は、私達が実際に飲む水ではありませんよ。

実際には私達の喉は、水を飲んでもまた渇きます。イエス様が言われたのは、霊的な水です。

つづけてイエス様は言われました。

「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」



ちょっとイメージしてみてください。

イエス様が私達に水を与えてくださる。

そして私達がその水を受け取って飲むと、それは私達の内で泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る。

ハレルヤ。



イエス様が語っている水とは聖霊様のことです。

この部分をよく見てください。


「わたしが与える水は、泉となる。泉となる。」

天国や、どこか他の場所ではなく、「その人のうちで」です。

「私のうちで」と言ってください。

あなたは、イエス・キリストから水を受けましたか?


ということは、私達は自分の中に泉を持っているのです。水の源泉と言ってもいいかもしれませんね。



イエス様は、その泉は決して枯渇することなく、無限に水が湧き出て来ると言われました。

私達がイエス様が与えてくださる水を飲むと、それは私達の内で、私の内で泉となります。

しかしこの泉の特徴は、湧き出るということです。湧き出る。


イエローストーンのガイザー(間欠泉)に行かれたことはありますか?実は私は6年前に行きました。

すごくきれいなので、いつか行かれることをおすすめします。


イエローストーンガイザーとネットで調べると出て来ます。泉が力強く湧き出てくるのです。


永遠のいのち、永遠の喜び、神の永遠のいのちへの水が湧き出る。

それがイエス様が言われた水です。


私達がイエス様から水を受け取ると、その水は私達の内で泉となる。

しかし、永遠のいのちへの水を享受するために、それを内からくみ出すのは私達の役目です。


ではどのようにしてその水を内からくみ出すことができるのでしょうか?


イエス様がこのことを語られたのは井戸のところでした。


あの女性は、深い井戸から水を汲みだす必要がありました。それから飲むことができた。


今、私達の内に泉があります。私達は永遠のいのちへの水が湧き出て、私達の人生の全領域に影響を与えるようになるまで、その水を汲みだす必要があります。


他の箇所も見ていきましょう。イザヤ12章3節です。イザヤ12章は短い章ですが、3節は救われたあとの私達のことを語っています。

とにかく見ていきましょう。

「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」

ハレルヤ。


この文脈を読むなら、著者イザヤは、私達の主ヤーウェが救いであると語っています。

私達の神が私達の救いです。私の神が、私の救いです。

ダビデもこのように言いました。「主は私の光。私の救い。誰を私は恐れよう。」


ダビデは、ヤーウェが、主、全能なる神様、天地を造られたお方、イスラエルの子らをエジプトから解放し、力強い働きをされたお方が、自分の主であり、救いであり、光であることをはっきりと自覚していたのです。


主は私達の救いです。

そしてその主とは、私達の主イエス・キリストです。

キリストが私達の救いなのです。

そしてイザヤはこう言っている。

「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」



それは一つの井戸のことではありません。救いの泉Wells(複数形)です。


そうです。私達は内には、救いの泉(複数形)を持っているのです。


みなさん、ご自分のお腹に手を当てて、「救いの泉」と言ってください。


私達は、いくつもの救いの泉を持っているのです。

その救いの泉、井戸(複数形)から水を汲みだすのは私達なのです。


私達は、喜びの水を、愛の水を、力の水を、知恵の水を、守りの水を、経済の水を、供給の水を、平安の水を、いかなる状況にあっても汲みだすことができるのです。


神様は、私達の内に、私達が汲みだし、解き放ち、楽しむことができる泉を与えてくださっています。

イエス様が私達にもたらしてくださった、救いの恩恵を。


イエス様は言われましたね。

「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」



ヨハネ7章を見るなら、37-39節で、イエス様は同じ内容を異なる状況で語っています。

しかし、イエス様が水について語られた時に、イエス様が何を言わんとしていたのかはっきりと見てとれます。


37-39節。共に声に出して読みましょう。


「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。

『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』


これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

ハレルヤ。



知ってますか。イエス様は叫ばれたんですよ。


決して気弱でも、静かでもなかったんです。

時にイエス様は非常に大胆でした。

机をひっくり返すために、鞭を使ったり。

タフな方なんです。ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませんね。


でもキリスト教は弱々しい宗教ではないんです。私達はタフで、強く、敵を破滅させるようなライオンのようなのです。

そして人々をキリストに導く、魂を勝ち取る。それがこの地上における私達の役割です。


イエス様はタフで、大声で言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

わたしのもとに来て飲みなさい。

わたしのもとに来て飲みなさい。


「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」


「心の奥底」となっていますが、原文のギリシャ語では「腹から」となっています。

「その人の腹から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

流れない、淀んでいる水ではなく、流れる水です。生ける水の川です。


それもRiver一つの川ではなく、川々です。


そして使徒ヨハネはこう言っています。

「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」


イエス様が栄光を受けられるとはどういう意味でしょうか?

イエス様が十字架で死なれ、復活され、そして天に昇られ、栄光を受けられたということです。


そうなって初めて、教会に、信じる者達に、御霊が注がれることが可能となるのです。


そして使徒2章で、イエス様の「父から約束の御霊を受けるまで待ちなさい。」ということばに従って、聖霊様を待っていた人達に、聖霊様がくだられ、彼らは全員聖霊で満たされました。

そして御霊が語らせるとおりに、彼らは全員異言で語り出しました。

ハレルヤ。


使徒パウロは、Ⅰコリント12章13節でこのように語っています。

「私たちはみな、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」


私達がイエス様を受け入れ、ボーンアゲインした後に、聖霊様を受けるなら、御霊を飲む者となったという意味です。


私達が聖霊様を飲むとどうなるのでしょうか?私たちは水を飲んだので、今や私たちの内に、私たちの霊の中に泉を持つようになりました。


そしてその水は、永遠のいのちへとわき上がるはずなのです。

永遠のいのちです。

だからこそ、使徒パウロが聖霊様について表現するときは、いのちを与える御霊と語ったのです。


いのちの御霊。私は、いのちの御霊の原理と言いました。

なぜなら私たちは、ゾーエといういのちを、神のいのちを受けたからです。


イエス様は言われましたね。「わたしが来たのは、あなたがたがいのちを得、それを豊かに持つようになるためです。」と。


このいのちとは、イエス様が持たれている神のいのちです。

そして私たちもそのいのちを持っています。

しかしそのいのちを働かせるのは、いのちの御霊の原理です。


私達の内におられる聖霊様が、内側から外側へといのちをもたしてくださるのです。

だからこそ、聖霊様の働き、聖霊様の力なしでは、私達の人生を通して流れるいのちの力の恩恵を体験することはできません。

なぜならこのいのちは、暗闇を打ち破る力を持っているからです。

このいのちは、死を打ち破り、病を打ち破り、悪の仕業を打ち破る力があるのです。ハレルヤ。


そして聖霊様こそが、いのちを与えるお方なのです。

イエス様は言われました。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」


ここでイエス様が言われたことばは、ロゴスではなく、レーマです。


聖霊様によって油注がれた、語られたことばです。

イエス様が語られたことば、それは霊であり、いのちを与えるのです。


つづく