②異言−教会の力の源

〜私が毎日異言で祈る理由〜

(写真はYoutubeより)

TJ·マッカンジー

今日は、一つの賜物だけを集中的に見ていきます。

その賜物とは、異言を語る能力です。

使徒2章をお開きください。

私は、聖書から、これらの御霊の賜物が過去のものではなく、今現在もあることをはっきりと示したいのです。


異言など、聖霊の現れ、賜物について反対する方達が「今はそんなものはない。それは過去のものだ。それは危険だ。」と本にまで書いて反対する動機、理由は、神学的なものではありません。

御霊の賜物が誤って使われているのを目にしたために、「こんなのはおかしい。私は、御霊の賜物なんて信じない。」というふうになってしまったのです。


しかし、誰かが誤って用いたからといって、それを適切に用いることができないわけではありません。

腕が良くない修理工場に行ってしまって、オイル交換という簡単な修理をお願いしたはずなのに、なぜか他の部分に問題が起きて車が戻って来る。

しかしだからといって、他の全ての修理工場も悪い、上手ではないということではありません。

良い修理工場を選んで、腕の良い修理士にお願いすればいいだけの話しです。


御霊の賜物もそれと同じです。

お風呂の湯を流すついでに赤ちゃんも流してしまってはいけません。


神のみことばが、私が異言で語ることができる、御霊の賜物と共に働くことができると言っているなら、私は聖書的な方法でそれをし、神様と共に動きます。

神様の約束、神様のみことばには有効期限はないからです。

神様が今でも私のためにそれをしてくださるなら、私はそれなしで生きたくはありません。

ハレルヤ。


それでは読んでいきましょう。

使徒2章1節から。

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

また炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」


私が毎日、異言で祈る理由を7つ書きました。


1つ目。私が毎日、異言を語るのは、異言は新約の信者のみに与えられている賜物だから。


これから少し、異言について語っていきますが、神学的な複雑なものではなく、分かりやすい単純なものですからどうぞ安心してください。

神のみことばによって、あなたは異言で祈ることについて確信を持つだけではなく、異言を語るあなたを変人扱いし、反対してくる人達の攻撃を防御する手段も持つようになります。


というのも、異言を語るだけで「あなたは悪霊に憑かれている」と言ってくるクリスチャン達も残念ながら沢山いるからです。


面白いことに、私がバーやクラブ、様々ないかがわしい場所にいた時は、一度も異言を語ったことはありませんでした。面白いですね。


私は悪魔に20年ほど仕えていましたが、悪魔は私に一度も異言を語る能力を与えてはくれませんでした。

マリファナでハイになっている時や、薬物やお酒で頭がおかしくなっている時に、翌朝目覚めたら、異言を語っていたなんてことはありませんでした。

異言は悪魔的だ、悪魔のものだと言う人達がいますが、面白いことに、私が悪魔に仕えている時は、一度も異言で祈ったことがありませんでした。


私は悪魔の食卓にはつきません。主の食卓について、主の杯から飲みます。


マルコ16章はこう言っています。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。』」


ちょっと脱線しますが、異言で祈る人達をののしり、嘲る人達は、不思議なことに、いざ自分自身や大切な誰かが病気になったり、壁にぶち当たったり、どうしようもできないような状況になると、なぜだか一番最初に電話するのは異言で祈り、悪霊を追い出し、病人を癒すクリスチャン達なのです。


神様の力の中を歩んでいる人達に助けを求めることも良い事ですが、私たち一人ひとりが神様の力の中を生きることができるんですよ。


私は毎日、神様の御霊にあって歩みたいです。

そのためにこそ私は毎日、異言を語るのです。


パウロは「私は誰よりも異言を語っている」と言いました。


パウロに与えられていた力を見る時に、「もしかするとこの異言に、何か秘訣があるのかもしれない」と思うのです。

なぜなら、パウロは、全教会を合わせたよりも多く、異言で語っていたからです。


「この異言と呼ばれるものには何かがあるのかもしれない。」

「これは単なる現象でも、奇妙なものでもないのかもしれない。

人が毎日、時間を取って異言で祈る時、本物の力がその人の上に臨み、その人のうちにその力が働くにちがいない」と気がつくのです。


聖書はこう言っています。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、」

新しいことばを語り。


イエス様ご自身が言われたのです。

「新約の信者達は、新しいことばで語るようになるよ。」と。


こういう人達がいます。「御霊の9つの賜物を全て働かすことができたのはイエス様だけだ。」

そう言う人達は、自分たちが何を言っているのか理解していません。


というのも、イエス様は御霊の9つの賜物を働かせてはいなかったからです。

9つの賜物のうち7つの賜物を働かせていました。


イエス様は、異言で語ることも、異言の解き明かしをされることもありませんでした。

少なくとも、そのような記述は、4福音書にはありません。


異言は、新約の信者達、教会、新しく造られた者達に与えられているものです。ハレルヤ。


ヨハネ20章を見てみましょう。19節から。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』

こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』

そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。」


これが重要です。「『聖霊を受けなさい。』」


この時に、弟子たちは新生したのです。

それはヨハネ3章がニコデモに言われたことです。

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」


イエス様は「救われるためには、生まれ変わらなければならない」と言われたのです。


生まれ変わるとはどういう意味でしょうか。

救いは、聖霊様の働きによるものです。

イエス様は贖いの働きを成し遂げられ、父なる神様はイエス様を遣わされたお方ですが、あなたがイエス様を信じる時に、聖霊様があなたの人生の内でそのイエス様の贖いの働きに証印を押されるのです。


聖霊様なしで救われることはできません。

テトスではこう言われています。

私達は全ての不法から贖い出され、良いわざに熱心な神の民として、神様のためにきよめられたのだ、と。

そして神様は、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださった、と。


ですから、私たちは聖霊様が働いてくださったことによって救われ、新生されたのであり、それはきよめの働きです。


あなたに神のいのちを吹き込むのは聖霊様の働きであり、あなたのうちから石の心を取り除き、あなたを新しくし、あなたのうちに新しい心、新しい性質、神様の命令に聞き従おうとする原動力を与えてくださるのも聖霊様の働きなのです。


聖霊様がその人を引き寄せ、証印を押してくださることによって、父なる神様に近づくことができるのです。


その後につづいて起こる別のこと、つまり聖霊のバプテスマがありますが、私は、「異言を語らないなら、あなたは救われていない。」とか「あなたはイエス様を信じているけれど、異言で祈らないから、私はあなたが本当に救われているとは思いません。」とは言っていません。


「異言で祈らないから、あなたは救われていない」というのは真実ではありません。


一言も異言を語らなくても、救われていて、良いクリスチャンで、天国に行くことができます。


そのような人達は沢山います。


しかし、ここから本題に入っていきますが、救いとは別に、その後に起こる体験があるのです。

それは、イエス様を信じる者達の人生にある聖なる任務を成し遂げることができるようにデザインされた、より偉大なレベルの力を神様が信じる者達に与えてくださる体験です。

ハレルヤ。


イエス様が弟子たちに、「聖霊を受けなさい。」と言われた時、彼らは救われていて、復活されたキリストを実際に見、このことばを受けました。


彼らは、その時、聖霊の内住を受けたのです。

しかし、次にルカ24章を見てみましょう。

48節からです。

「あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

じゃあ、イエス様は一体なんの力のことを言っているの!?


今度は、使徒1章を見てましょう。


少し長くなりますが、この異言というものは、なにか1900年代初頭にペンテコステ派や聖霊派が造り出した新しい教義ではなく、2000年つづく教義であり、ただたんに教会が受け入れたものではなく、教会がずっと実践してきたものであることを示したいと思います。


そして、これは、教会の力の源なのです。


私達クリスチャン達がこの地上で効果的に働くことができないように、神様の力を制限するために、悪魔の教義が人々を異言の賜物から引き離しているのだと私は強く信じています。


異言で祈らないなら、聖霊の満たし、聖霊と火のバプテスマを受けていないなら、あなたは効果的に働くことができないように、制限されてしまっているのです。限界があるのです。

これは私の言葉ではなく、イエス様が言われたことです!


「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、エルサレムにとどまっていなさい。わたしの福音を語ろうともするな。効果的になろうとするな。奇跡、しるし、不思議のみわざをしようとするな。わたしのために国々や地域を揺り動かそうともするな。この力が与えられるのを待ちなさい。」


使徒1章4節から。


「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。

『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』

そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。

『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』

イエスは言われた。

『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。』」



「ちょっと待って。イエス様あなたは、私達に『聖霊を受けなさい。』ってすでに言われましたよね。

あなたは私達に聖霊を与えてくださったのではないんですか!?

私達は、聖霊というお方のすべてをもう頂いているんじゃなかったの?

聖霊の満たしを私達は受けているんじゃなかったんですか?

なぜ、さらに受けるために待てと言われるんですか?」


なぜなら、さらに受けるべきものがあるからですよ。


イエス様は言われました。「そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」


ここから先ほど読んだ、使徒2章に飛びます。


「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

また炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」


「でも、彼らはすでに聖霊を受けていたんだと思っていたんだけど。一体なにを言っているの?」


明らかに、別の体験なのです。


「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」


もし聖霊の満たしを受けた後に、異言を語ったという事が、使徒行伝のこの箇所のみでしか語られておらず、聖霊の満たしを受けたことを語っているその他の箇所では、異言について触れられていないなら、私は「神様のみこころは、あなたが異言を語ることです」と大胆に宣言することはできなかったでしょう。


しかし事実、使徒行伝では、人々が聖霊の満たしを受けたことが語られている5箇所のうち4箇所で、人々が聖霊の満たしを受けた後に異言を語ったことが記録されています。


使徒2章をつづけて読み進めていくと、様々な国から来た敬虔な人達が「一体これはどうしたことか」と驚き惑い、ある者達は「彼らは酒に酔っているのだ」とあざけりました。


なぜなら、彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子達が語るのを聞いたからです。


アラブやメソポタミヤなど、様々な国の人達がいました。

そしてその人達は、弟子達が自分の国の言葉で話すのを聞いたのです。


ある人達はこのように言います。

「使徒2章の異言にははっきりとした目的があったんです。

異言といっても訳の分からない支離滅裂な言葉ではなかったんですよ。

伝道のためだったのです。

弟子達が自分でも分からない別の国の言葉で語ることによって、人々に神様が本当に教会の中で御業をなしておられることを示すしるしだったのです。」



しかしⅠコリント14章を読むなら、パウロはこのように語っています。

「異言(一部の英語の聖書では、未知の言葉)を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。」


異言の賜物には伝道の目的もあるのでしょうか?もちろんです。


最近、素晴らしい証を聞きました。


モザンビークで働いている女性の宣教師が、メッセージを語っている最中に異言を語りだして、同じ言葉を何度も何度も語ったそうです。

集会が終わった後に、彼女のもとに子ども達がやって来て言いました。


その宣教師の名前はハイディー・ベイカーというのですが、子ども達が言いました。

「ハイディー、あなたが僕達の言葉をしゃべれるとは思わなかったです。」


「私はあなた達の言葉は話せないわよ。」と彼女が答えると、子ども達は言いました。


「でも、あの時、あなたは僕達の言葉で何度も何度も言ってましたよ。『食卓に来なさい。もう全部整っているから。さあ来て、食べなさい。』って。」


ハレルヤ!

「食卓に来なさい。もう全て整っているから。さあ来て、食べなさい。」


彼女は自分でも何を言っているのか分からなかったけれど、実は彼らの言葉で、救いや癒し、様々な天の祝福がもう準備できている祝福の福音の食卓に来て、楽しみなさいと人々を招いていたのです。


ですから、異言は不信者のためのしるしとして用いられるのか?


もちろんです!


しかしⅠコリント14章でパウロは、異言にはそれとは別の働き、作用があることを語っています。

それはあなたの個人的な益のためなのです。


集会や教会にたいする文脈の中で語られているのではありません。


パウロはこう言っています。


「異言を話すものは、人に話すのではなく、神に話すのです。だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」


そしてその後に「異言を話す者は自分の徳を高める(あるいは自分を築き上げる)」と語っています。

聖霊の満たしを受けた後に、異言を語っている別の例を見てみましょう。


使徒8章です。

「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」

人々は神のみことばを受け入れ、バプテスマを受けました。


聖書は、彼らが悔い改め、その町に大きな喜びがあり、バプテスマを受け、ピリポを通してすばらしい奇跡が行われるを見て驚いていたと語っています。


14節。

「エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。」


覚えていますか。

聖書はⅠペテロ1章で、「私達が新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種である、神のことばによるのだ。」と語っています。


ですから、あなたが神のことばを受け入れるなら、あなたは新しく生まれた者なのです。

神のみことばを受け入れ、信じ、悔い改めたなら、あなたは贖われた者、新しく生まれた者なのです。


「ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

使徒たちが手を置くと御霊が与えられるの見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい』と言った。」


お金を払ってでもその力、手を置いたらだれでも聖霊を受けれるその力を欲しいとシモンが思ったのは、人々が喜んでいたからだ、と言う人達もいます。


しかしそれは真実ではありません。

なぜなら8章8節を見るなら、その町にはすでに大きな喜びがありました。


人々がさらに喜んでいるのを見たから、シモンはそれがほしいと思ったのではありません。人々が聖霊を受けた時、「ここに本物の力がある」とシモンに示したしるしとは一体なんだったのでしょうか?


聖書は言っています。「ふたりが彼らの上に手を置いて祈ると、彼らは聖霊を受けた。」


その時シモンは、なにかはっきりとしたものを

見たのです。


何が起こっているのかもっと調べるべきだと思わせる、何か価値ある素晴らしいものを。


シモンがそれを欲しいと思ったのは、聖霊を受けた人達が、上手な福音の説教者になったからではないはずです。

なぜなら、即座に何かが起こったからです。

それを目撃したシモンは、「自分にもこの力が必要だ」と思ったのです。


ある人達は、「聖霊のバプテスマを受けた最初の証拠は、御霊の実だ」と主張します。

それは真実ではありません。


あなたが救われて、霊が生まれ変わると、御霊の実を結ぶようになります。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」


しかし御霊の実は、聖霊のバプテスマを受けたことを示す最初の証拠ではありません。


なぜなら聖書は、シモンが、救いが起こった後にもサマリヤの人達になかった何かを見た、と語っているからです。


それは、明らかになにか彼が目で見、耳で聞くことができるものだったのです。私は、それが異言であったと信じています。


しかしこの箇所だけではなく、他の箇所も見てみましょう。


使徒10章44節から。

この時、ペテロは、主イエスを信じた異邦人男性のコルネリオとその家族に語っていました。いわゆる小さな伝道集会だったのです。

「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。

割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。」


なぜ彼らは、聖霊の賜物が異邦人にも注がれたのが分かったのでしょうか?

46節です。

「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」



使徒2章で初代教会に聖霊が下った時と同じように、異邦人達にも聖霊が下ったことがどうして分かったのでしょうか?

異邦人達が、自分達と全く同じ体験をしたからです。

異言を語り、神を賛美した。


「そこでペテロはこう言った。『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょう。』」


まだ納得できないという方もいるかもしれませんので、もう一つ別の箇所も見ましょう。


私は、みことばから示していきます。

説教者の中には、「聖霊のバプテスマを受けると、異言を語るようになります。」と人々に言うことに気がひける人達、気まずく感じる人達もいるからです。


なぜなら、それを言うことは、人々にたいする挑戦だからです。


「私は異言を語りません。私は聖霊のバプテスマを受けていないってことですか?」

このことを言わせてください。


私が思うに、聖霊様に満たされていて、異言を語る能力がすでに与えられていながら、まだ信仰によって自分の口を開いて、異言を語ってない人達がいます。


その人達は、自分には異言を語る能力が与えられていないと思っていますが、実のところすでに与えられているのです。

ただそれを解き放つために信仰を働かせていないだけです。


私はそうであると強く確信しています。


なぜなら聖書は、使徒2章で、「彼らは他の言葉で語る能力が与えられた。」と語っているからです。


しかし聖霊様は紳士なので、あなたに力づくで何かをさせたりはしないのです。

あなた自身が、口を開いて流す必要があるのです。


御霊の他の全ての賜物も信仰によって働かせるように、異言も信仰によって語るのです。


私も異言で祈りたくないと思う時もあります。しかし、御霊によって絶えず祈るために、私は私の最も聖い信仰によって奮起する必要があるのです。


もしかしたらあなたもその一人かもしれませ

ん。


異言で語る能力がすでに与えられ、御霊で満たされている。

しかしそれを解き放つために、まだ口を開いていないのです。

ですから、「私にはその能力が与えられていない」とは言わないでください。与えられています。満たされているんです。ただ口を開いて、解き放つ必要があるのです。



使徒19章を見ましょう。

「パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした』と答えた。」


異言で語ることについて聞いたことがないと、(それまで異言について聞いたことがなくても、聖霊様に満たされて、口から異言が出て来る人もいますが)、異言で語ることはありません。

救われるためには、福音を聞く必要があります。

御霊の賜物を働かせるためには、それについてまず聞く必要があります。


聖書は言っています。

「私の民は知識がないので、滅ぼされる。」(ホセア4章)

「わが民は無知のために捕らえ移される。」(イザヤ5章)


エペソ書でパウロは、「無知のゆえに、神のいのちから遠く離れている、異邦人と同じように歩んではならない。」と語っています。


無知は、あなたが神様の最善の中で生きることができないようにします。


とにかくエペソに来た時、パウロは、「聖霊を受けましたか?」と人々に尋ねました。


すると彼らの反応は「聖霊って何ですか?聖霊なんて聞いたことがありません」だったのです。


それゆえに、彼らは神のいのちの川の流れの中でのびのびと生きることができていなかった。


パウロは「聖霊について聞いたことがないだって?なんてだめな人達なんだ。一体何をしていたんだ。誰も異言で祈らないし、聖書もろくに読んでいない!」と蔑みに満ちた口調で叱ることはしませんでした。


彼は、彼らを励まし、助け、彼らを命の川に導きました。


「『では、どんなバプテスマを受けたのですか』と言うと、『ヨハネのバプテスマです』と答えた。

そこで、パウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです』と言った。

これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。

パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」


ですからあなたは選ぶことができるのです。

神様が「異言を聖霊のバプテスマの証拠とされた」という考えを嫌がる人達の言う事を信じるのか。


それとも、毎回、人が聖霊に満たされると、聖霊が能力を与えてくださるので異言で語り出したという聖書の模範を信じるのか。


私は自分が徹底的であることは分かっています。

しかし、それには理由があります。


聖書的に健全な世代が立ち上がる必要があるからです。


私達にはこれ以上、本物の神学、聖書の真理をよく理解せずに、自分達なりの神様観について語る説教者達は必要ではありません。


兄弟姉妹のみなさん。みなさんに思い出させたいことがあります。


神様の道、方法は、私達の道、方法よりも高いのです。

そして神様の思いは、私達の思いよりも高いのです。


人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言)


しかしあなたが神様の道を行くなら、いのちと祝福へと導かれるのです。


使徒行伝の方法で行うなら、あなたは使徒行伝のような結果、実を見るのです!ハレルヤ!


ですから、私が異言を語る1番目の理由は、新約聖書が、「聖霊で満たされると、新しいことばで語るようになる」と言っているからです。

もう聞くのをやめたと言って、この放送を消さないでください。


なぜなら、最後にあなたが聖霊と火のバプテスマを受け、聖霊に満たされるように祈るからです。あなたが信仰によって口を開くと、いのちの川があなたから流れ、あなたはこの麗しい天の言葉、異言で語るようになります。


そしてあなたの祈りの生活、そしてあなたの信仰の頑健性は全く違うレベルになり、あなたは、これから語る異言の数々の有益さを体験するようになります。


つづく