信じる人々には次のようなしるしが伴います。

すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。

マルコ16章17-18節


私が毎日異言で祈る理由

(写真はYoutubeより)


TJ·マッカンジー


最近、インスタグラムでバズッた動画がありました。

その動画には#ペンテコステ派を叱る、というハッシュタグがついていました。


その動画の中で語っていた牧師は、私が知っている人物で、良い人なんです。


彼は、「聖霊に、火に満たされた瞬間に、自動的に異言で語りだすと信じるのは間違っている。」


「聖霊の満たしのしるしは、グロッサリア(異言)とは関係ない。

そうではなく、御霊の実なんだ。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、それこそが聖霊の満たしのしるしなんだ。」と人々に語っていました。



それなので、今晩は、なぜ神様は私達が異言で語れるようにしてくださったのか、なぜパウロは「私は、あなたがたの誰よりも異言で語る」と言ったのか、なぜイエス様は、マルコの最後の章である16章で、「わたしを信じる者は、新しいことばで語るようになる」と言われたのか、なぜパウロはコリント人への手紙の中で、異言という素晴らしい賜物が私達の徳を高めると語っているのか、それらのことについて見ていきます。



あるものを持つことによって得られる恩恵をよく理解していないなら、それを神様の御手から受け取る、あるいはそれで満たされたいと願うことはないと思います。


そのものの恩恵があんまりよく分かっていないなら、「それが欲しい!」という切なる飢え渇きを抱くことはないはずです。

その飢え渇きこそ、それらを受ける、あるいはそれらで満たされるために必要なものなのです。


神様が私達に与えてくださるすべてのもの。

それらは私達のへりくだり、そして飢え渇きに応答して神様が与えてくださるのです。


聖書はこのように言っています。

「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをおさずけになる。」


また「飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を追い返される。」とも言っています。

神様は、へりくだる者、飢え渇く者達を良いもので満ち足らせて下さるお方です。


神様が私達に与えてくださる力。その力には、必ず目的があります。

神様は、人々が威張り散らすために、力を与えるのではありません。


神様は、私達自身の人生の向上や、野心のために、伝道のための力や語る力を与えられるのではありません。


神様が、ある人に、福音を語る力を与え、そしてその説教を、人々を癒し、解放する聖霊様の真の力で支えられるのには目的があります。


それは人々を助け、人々を救い、人々が聖霊のバプテスマを受け、人々が癒され、人々に奇跡をもたらし、人々を助けるためです。


神様は、何の理由もなく力を与えるのではありません。

神様が、誰かに力を与える時には、必ず目的があるのです。


それは、異言を語る力にもあてはまることです。

これから詳しく語っていきますが、その前に、聖書のあるみことばを読みたいと思います。


Ⅰコリント1章は、神様が今もなお人々を聖霊様で満たし、人々に聖霊の賜物を授け、人々に異言を語る力を、病人に手を置き、悪霊を追い出し、初代教会が行っていたすべてのことを行う力を神様が今もなお私達に与えてくださっていると、私達が堅く信じ続ける理由なのです。


初代教会が神様から与えられていた力、賜物、恵みの中で、今日、2024年の教会が受けることができないものは一つもないんです。一つもです!


神様は、西暦1世紀にされた全てのことを、今日もなさりたいと願っているのです。

そのことを裏付けるみことばは、ヘブル13章8節です。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」


別の箇所ではこうあります。

「主であるわたしは変わることがない。」(マラキ3章6節)


また聖書は、イエス様が世界の基が据えられる前にほふられた小羊だと言っており、御使い達はイエス様に「昔いまし、今いまし、後に来られる方に」と歌っています。


イエス様は永遠なるお方、永遠に存在されるお方なのです。

神学用語で言うなら、不変です。


イエス様は変わることがないのです。

イエス様には、変革や改革といったものはありません。

昔おられた神様は、今もおられ、そしてこれから後も変わることなく存在されるのです。


神様はモーセに「わたしの名前は、あるである」と言われました。


ハレルヤ!変わることがないのです。


浮き沈みが激しい、絶えずコロコロを変わる神様に仕えているのではないんです。


そのことばを信頼していいのか分からない、本当に頼り切っていいのか分からない、神様は信頼できるお方なのだろうか?

誠実なお方なのだろうか?


そのように心配しなくていい!

なんと慰められる事実でしょうか!


あまりにもアップダウンが激しく、移り気なので、その人の言葉を信頼することができないというのは、本当に苦痛です。

神様は人間ではなく、偽りを言うことがありません!

神様は、変わってしまうような人の子ではありません!

神様は言われたことを、必ず成し遂げられるお方であり、宣言されたことを必ず責任を持って果たされるお方です。


このⅠコリント1章で、パウロは私が今語ったこと、つまり神様の不変性について証明しています。


神様の助言、戦略、青写真が変わらない、不変であることを裏付けています。


つまり神様が教会を誕生させ、教会を支えられたその方法を、神様はつづけて、この教会時代の終わりにある今も用いたいのです。

覚えていますか。イエス様はこのように言われました。

「わたしはわたしの教会を建てます。ハデスの(地獄)の門も、わたしのからだの前進を阻止することはできない。必ず失敗する。」


なぜ失敗するのでしょうか?


詩篇127篇。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」


人間的な努力、方法で、神様の働きをすることは、役に立たない、無益なのです。


しかし神様が何かを建てられ、そして私達は自分達で何か別のものを築きあげるのではなく、手に鍬を持って、神様が建てられたものの上で働きをしていくなら、私達は自分達の霊の内で堅く確信を持つ事ができるのです。


「神様の方法でしている私達の働きは、必ず終わりの時まで、神様のレベルの実をみのらせる!」と。

ハレルヤ!



好もうと好まなかろうと、悪魔はそれにたいして何もすることは出来ません。

神様が何かを建てられるなら、その前進を阻もうとするものは、道を開ける必要があります。


私が異言について、イエスを信じる者達の人生にある聖霊様の臨在について語るのには理由があります。

それは、聖霊様のご臨在と力がなければ、私達は自分達なりの方法で、やることになるからです。


あのモーセもこう言いました。


「主よ、あなたが私達と共に行ってくださらないなら、あなたのご臨在が私達のうちにあって、私達を携えて行ってくださらないなら、私達は一歩たりとも動きたくないです。


私は、肉の力で何かを築き上げたいとは思いません!

あなたのご臨在が、私の人生の力の源ではないなら、私を1センチたりとも動かさないでください!私は揺れ動く者だからです。

しかし、あなたのご臨在が私達と共に行ってくださるなら、私達はこの地上の全ての民と区別されることになります。」

ハレルヤ!


新約の信者である私達を他の人達と区別するもの、もっと言うなら、私達を旧約の聖徒達と区別する1つの要素は、この異言と呼ばれる賜物です。


これから、私が毎日異言で祈る理由と、みなさんも異言で毎日祈るべき理由について詳しく語っていきます。

しかしまず、1コリント1章を読んでいきましょう。


4節。


「私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。

というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。

それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからです。

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、」


この部分「あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく」にぜひ線を引いてください。


ここで語られている賜物(カリス)とはなんのことでしょうか?


1コリント12章を見ると、9つの賜物がずらっと書かれてあり、それぞれ3つに区分されます。


1つは力の賜物で、これらは信仰の賜物と、癒しの賜物、奇跡を行う力です。


次に啓示の賜物です。

すなわち、知識のことば、知恵のことば、そして霊の見分けです。


それから発声の賜物である、異言と異言の解き明かし、そして預言の賜物です。


これら9つの賜物について、パウロはⅠコリント1章で、「あなたがたにはどんな賜物にも欠けるところがない」と強調しているのです。つまり、全ての賜物を働かせているということです。


もちろん後の章をみると、コリントの人達が全ての賜物を働かせてはいたけれども、常に正しい方法で働かせてはいなかったことが分かります。


それなので、パウロは「これ以上、賜物を働かせるな」とは言いませんでしたが、

「秩序をもって行いなさい」と指示を出しました。


なぜなら、神様は秩序の神様で、混乱の神様ではないからです。


しかしⅠコリント1章で、パウロが語っていることに注目してください。

「どんな賜物にも欠けるところがない」


癒しの集会が沢山持たれ、皆が異言で祈り、素晴らしい数々の恵みが聖霊様の力によって与えられ、満ちあふれている。


「また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。」

イエス様が戻って来られるのを待っている。


8節。

「主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。(英語では、confirmなので、承認してくださいますの意味もある。)神は真実であり、」


パウロは、「神は、最後まで、あなたがたの集会でこれらの賜物を承認してくださいます。堅く保ってくださいます。」と言っているのです。


パウロは、「これらの御霊の賜物は、聖書が聖典と認めらえると同時に消え去るんですよ。

神様は、私達に別のプログラムを与えてくださるんです。

私達は、御霊の賜物を必要しなくなるんです。癒しも奇跡もいらなくなるんです。」とは言いませんでした。


パウロは、コリントの教会の人達に、

「あなたがたはこれらの賜物に欠けるところがありません。

神様は、最後まで、主イエス・キリストの現れの時まで、これらの賜物を承認してくださる、堅く保ってくださいます。」と語っています。


「今でも異言で祈ることができる信じるべきではない。

使徒時代が終わった今は、神様は異言が証拠としてともなう聖霊のバプテスマを人々に授けることなんてしない。」と言う方達がよく引用する聖書箇所があります。



それはⅠコリント13章です。

8節から。

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。」



最後の使徒の死後と共に、御霊の賜物は終わったと信じている終焉説の方達は、1コリント13章10節でパウロが語っている「完全なものが現れたら」というのは、新約を含む66巻が一つにまとめられた聖書のことだと思っています。


パウロの書簡やペテロの書簡、ヨハネの書簡も含め全てが一つにまとめられて聖書が完成したなら、預言も異言も知識ももう必要としないと言っています。


しかしそれは愚かな考えです。その理由を説明します。


パウロはつづく節でこのように言っています。


「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。

今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」


ここでパウロは、使徒時代が終わったとか、御霊の賜物を働かせる時代が終わったと示唆しているのではありません。


ここでパウロが語っているのはこういうことです。


「キリストが来られ、堕落したこの世界とその秩序をご自分に服従させ、全てを火で焼き尽くした後、新しい天と新しい地を始める。

その御座の基は、完全、義、正義、公平である。

悪魔が縛られて、永遠に火の池に投げ込まれ、新しいエルサレム、新天新地が来る時に、エデンの園のような完全さとなる。

その時には、預言は必要としなくなるんだ。」


考えてみてください。

全てが終わり、全てが完全になり、新しいエルサレムにいるのに、なぜ預言する必要があるでしょうか?


「その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

1ヨハネ3章で、ヨハネはこう言っています。


「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。

なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」


その時になると、私達は自分の内に神様の完全な知識を持つようになります。

なぜなら、私達はキリストの中で全く完全な者となるからです。


その時には、私達は将来のことを預言する必要がありません。

また神様に語るために異言を語る必要もありません。


1コリント14章2節には「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」とあります。


しかし新しいエルサレムに入ったなら、神様と顔と顔を合わせて、友達を話すように直接話すことができるのですから、異言で話す必要はありません。


彼はつまり、御霊の賜物は私達に天国を垣間見せてくれるのだと語っているのです。


御霊の賜物は、私達に天国の前味を与えてくれるのです。

天国の雰囲気を味わうことができるけれども、まだ天国に完全にいるわけではない。


それなのでパウロは、「私達を待ち構えている天国の栄光に比べたら、これらの賜物は子どものようなのだ。その時には、御霊の賜物を出したり、しまったりする必要はなくなる。

なぜなら、私達は永遠に、手で触れられる神様の臨在の中にいることになるから!」と言っているのです。


なんという素晴らしい日となることでしょうか!?

神様が私達の全ての涙をぬぐい去ってくださる日です。


しかし覚えてといてください。

これら全ての賜物には、贖いの価値があるのです。


癒しの賜物は、マジックショーをするためにあるのではありません。

それは病気の人達を癒して、その人達の体に贖いの力をもたらすためです。


奇跡の働きにも、贖いの価値があります。

それ以外の全ての御霊の賜物には、贖いの価値があるのです。


しかし、ひとたび私達が天国の完全な贖いの中に入るなら、その時には、これらの賜物はもはや必要とはしません。


なぜなら、その時には私達は完全に贖われているからです!ハレルーヤ!


神様が、すべての涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。


そして神様ご自身がこう言われます。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」

「もはや傷も、痛みも、病も、対処しなければいけない悪魔、悪霊達もない。なぜなら、すべてが新しくなったからだ。」ハレルヤ。

その時には、賜物は必要ありません。

賜物は、今日現在のためなのです。


つづく