子どものような信仰①

(写真はYouTubeより)

TJ·マッカンジー


今日は、子どものような信仰の特徴について語りたいと思います。

子どものような信仰、そしてそのような信仰を持つとき、何が起こるのかを。


まずマタイ18章を読んで、始めていきましょう。

この放送をしながらすでに、油注ぎを感じています。


今日は、神の子達にとっては良い日であり、悪魔にとっては悪い日です。


マタイ18章1節から。

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。』」


なんとまあまあ、肉っぽい質問でしょうか(笑)


弟子達は全員、成長中でした。

でも聖書を見ると、弟子達が完璧な者達ではなかったことがはっきりと分かります。


聖書は、おそらく数多くある宗教書物の中で、唯一、完璧ではない人達を取り上げている書物だと思います。

コーランを読むなら、そこに出て来るモハメッドやその他の指導者達は全員、間違いを一切したことがない完全な人物として描かれています。


しかし、聖書では、唯一罪がなく、完全なお方として語られているのはイエス様だけです。

聖書は、創世記から黙示録まで、人間の弱さ、弱点を浮き彫りにしています。

たとえばダビデの罪です。


人がダビデの人生を書物にしたなら、間違いなく、バテシェバとの姦淫、それを隠蔽するためにウリヤを殺害した事件やその他の罪など醜い部分は省くでしょう。

なぜなら、博物館で展示されているような、なにか手の届かない異次元の存在、聖い聖人として描きたいからです。


しかし聖書は、ダビデの弱さを赤裸々に語っています。

また、「唯一残ったのは自分だけだ」と思い込んで、洞窟にひきこもってしまったエリヤの弱さも出て来ます。


神様からの召しから逃げて、反対の方向に向かっていたヨナの弱さも出て来ます。

神様がニネベを憐れんでくださった後、ヨナは腹を立てて、自分を殺してくれと神様に願いました。


聖書は、ペテロの弱さもはっきりと書いています。


そしてここでも、「誰が一番偉いのですか?」と尋ねた、誰なのかは分かりませんが弟子達の弱さが描かれています。


イエス様の答えに注目してください。

イエス様は、このようには答えられませんでした。「それは、あなたがたが知ることではないよ。天の御国で一番偉くなれる方法はないから。神様以外に、偉い方はいないんだ。」


むしろ、イエス様は、天の御国で、神様の目にとって偉大な者となる道を示してくださっています。

もちろん、それは私達の義の行いによるものではありません。


私達の救いは、イエス・キリストの血潮のみです。神様の御前で私達が聖い者とされているのは、イエス様の血潮のゆえのみです。


聖書ははっきりと、「イエス・キリストの十字架の血潮によって、私達は神との平和を持っています。」と語っています。

ですから、救いというのは、私達がなにか頑張って獲得することができるものではありません。


しかし、救われた後、ある方達は、クリスチャンは皆、完全に平等だと言います。

ある程度は、私もそうだと思いますが、その言葉に完全には同意しません。

その理由を説明します。


十字架のもとでは、すべての人はみな等しく平等です。

私達は全員、神の栄光に遠く及ばず、神様の基準に達することはできませんでした。

そして私達は全員、へりくだって、神様の御座の前に行き、キリストにのみある救いを受け取る必要があります。


イエス様が言われました。

「わたしこそが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」


ですから、罪人として生まれた私達人間は、神様無しでは罪深い堕落した者であることをへりくだって認め、「神様、私にはあなたの恵みと憐れみが必要です。私を不義から清め、あなたの義と聖さを私に与えてください。」と言う必要があります。


その意味では、私達は全員、平等です。


しかし救われた後は、話が違ってきます。


救われた後に、全員が全員、同じレベルの信仰を持っていないことは、難しく考えなくても分かります。


ある人達は、大きな信仰を持って、偉大な結果を見る人達もいれば、あまり信仰がなく、結果的に、人生でほぼ打ち破りを体験することがない人達もいます。


(ここで勘違いしないでください。すぐに結果が出ない=信仰が小さい、というわけではありません。偉大な信仰の人と言われたアブラハムも、約束を手にするまで何十年も待ちました。)


それは、神様がえこひいきをしているわけではなく、その人達は、イエス様がこれから語ろうとしている何かを使ったからなのです。



その一方、他の人達は、もしかしたら知らないがゆえに、あるいは説得されてがないゆえに、または不信仰のゆえに、クリスチャンの人生のこの側面に踏み入っていくことをなおざりにしてしまっているのです。

そして結果的に、クリスチャンに与えられている満ち満ちた豊かさと勝利の人生を失ってしまっているのです。



それは、神様がある人達を、他の人達より愛しているからではありません。

聖書ははっきりと、「神にはえこひいきはないからです。」と宣言しています。

神様は、すべての人を同じように愛しています。

ご自分の子ども達を、大切に抱いておられるのです。

たしかに打ち破りのレベルや、増加のレベルは人それぞれ違いますが、あなたがキリストのからだの中のどのような者であるか関係なく、神様はすべての人を豊かに祝福したいと願っておられるのです。



しかし、ある人達は、イエス様がこれから語る秘訣を会得し、それを実際的に用いているのです。


神様が、40人の異なる人達に御霊を注いで、この聖書と呼ばれる書物を書かせたのは、私達がただ神学的な知識を持つためではありません。

神様は、私達の神学に興味があるのではありません。もちろん、クリスチャン生活において、神学は基礎となるものですが。



私達の肉体の健康についての神様のみこころを理解するとき、いやしがもたらされてきます。

私達の財政管理に関する神様の原則を知って満足するのではなく、それを実践するなら、財政の領域に打ち破りがもたらされていきます。



聖書をとことん研究して、もしかすると一部のクリスチャン達よりも、救いの神学を正確に説明できる無神論者達がいます。


しかし、新生をもたらす信仰と混ざり合っていないので、その救いの神学は、その人達に救いをもたらさないのです。


ですから、ただ神学を持っていることは良いことですが、その神学が、あなたの人生に目に見える結果をもたらすためには、何かと混ざり合う必要があるのです。


それが何であるかを、イエス様は語っています。


「だれが一番偉いのですか?」と聞かれたイエス様。


ある人達は、このような答えを予想していたでしょう。

「律法をすべて暗記している人です。」

「旧約の預言者達全員の名前を挙げて、その書物についてきちんと説明することができる人達です。」



またある人達は、イエス様が高尚な答えをされると思ったことでしょう。

「一字一句、正確に、モーセから現代までのユダヤ人の歴史を語ることができる者です。」


イエス様の答えはそうではありませんでした。


「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。」


これは、今日、あなたにとって大きな励ましとなるはずです。


なぜなら、あなたがクリスチャンになって39年経っていようと、39分前にクリスチャンになったばかりであったとしても、関係ないからです。

重要なのは、イエス様がこれから語られることを適応することだからです。



それを適応し、この真理の中を歩んでいくなら、あなたの人生で神様の御国が解き放たれていき、それを阻止できるものは何もありません。


クリスチャン歴は関係ありません。


イエス様は、この真理の中を歩むとき、このような素晴らしい現実を体験することができると言われています。

「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、

決して天の御国には、入れません。』」


悔い改めるとは、生まれ変わるということです。

水と御霊によって生まれ変わる必要があります。

神のみことばの水によって思いを洗われ、神の御霊によってあなたの霊が生きたものとなる。キリストのうちにあって、あなたが生きるようになると、天の御国に入ることができるようになるのです。


「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」


イエス様はここで私達に何かを示しておられます。


もちろん、聖書はさまざまな箇所で、「子ども達が主を正しく恐れるように育てなさい」と、親達に命じています。

しかし、イエス様は、私達が子どもたちから学ぶべきこともあると、はっきり語っています。



イエス様は、ここで、それを「子どものような信仰」と呼ばれています。


子どものような信仰を持つとは一体どういう意味なのか、私達は学ぶことができます。


ここではっきりと区別しとくべきことがあります。


イエス様は、「子どものようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」と言われましたが、「子どもっぽい信仰でない限り、天の御国には入れません。」とは言っていません。

「子どもっぽい信仰」と「子どものような信仰」は全く別物です。



「子どもっぽい信仰」とは、無責任で、非聖書的な愚かしさがあります。

信仰を装っているけれども、非聖書的で、みことばに逆行し、益になるどころか、害を及ぼします。

子どもっぽい信仰というのは、「私は出て行って、自分のしたいことは何でもする。神様はそれをすべて祝福してくださる!」とか

「私は、神様がこれを与えてくださると信じる!」でも、その欲しいものというのは、完全に神のみことばに反するものなのです。


「聖書は、『信じる者には、すべてが可能なのです。』と言っている。だからこのビルから飛び降りて、ムササビのように飛んでみるぞ!神様は私をささえなきゃいけない!」


そのようにイエス様を誘惑したのは誰でしたか?悪魔です。


神殿の頂に連れて行き、「ここから飛び降りなさい。御使い達があなたを支えるとみことばで約束されているんだから、さあさあ早く飛び降りなさい!」と悪魔はイエス様を誘惑しました。


イエス様に自殺させようとしたのです。


子どもっぽい信仰というのは、そのように無謀で、破滅的なのです。


子どもっぽい信仰は、子どものような信仰ではありません。


子どもっぽい信仰というのは、「もっと油注ぎが、力がほしい!」

でもその動機は、人々に認められ尊敬されたいからなのです。

それが子どもっぽい信仰です。


「子どものような信仰」も、「もっと油注ぎを、もっと力を!」と求めますが、それはイエス様の手足として神様に用いられたいがゆえです。


子どもっぽい信仰は、認められ、尊敬されるために、力や油注ぎや影響力を求めるのです。

それは未熟な信仰です。


パウロはこのように言っています。

「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」


それ以外にも、聖書は、成熟に向かって前進しなさいと語っています。


私達は、子どものような信仰について語っていますが、それは何も知らない無知で未熟であることではありません。

「子どものような信仰っていうのは、ただ愛することなんだ。互いに愛し合えばいいんだよ。子どもは世の中で起こっていることの全ては理解してない、だから神様について聖書から知る必要はないんだよ。」


みことばをしっかり読んで、神様を知る必要があります。


ヘブル6章はこのように語っています。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。

死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。

神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」


人生のある地点で、子どもっぽくあることをやめて、成熟に向かって前進し、神様がみことばで語っておられる通りのお方であることを理解して、神様との関わり方が変えられていく必要があるのです。

そのことによって、それまでとは異なるレベルで神様に用いられるようになります。



イエス様が言われた、「天の御国に入ることはできない」とはどういう意味なのかを調べました。

すごく重大な宣告だからです。


ギリシャ語で、「天の御国に入る」とはどういう意味なのかを調べてみると、文字通り「贖われた生活の状態に入る」という意味でした。


つまり、地上に天国が臨むような状態です。


将来、天国に行くこともそうですが、イエス様ご自身も「天の御国はそこにある、ここにあるというものではなく、あなたがたのただ中にある」と言われました。

パウロも、「あなたがたは生ける神の御霊の宮です」と言っています。


つまり、天があなたのうちにある。


イエス様は、「子どものようにならないかぎり、天の御国の現実の中を生きることはできないよ。」と言われているのです。


子どものような信仰がないなら、天の御国の祝福が個々人の人生に現れないということです。

これはめちゃくちゃ大きいですよ。


聖書を、特に使徒行伝を見ると、天国の雰囲気が満ち溢れています。


ペテロやヤコブ、ヨハネが行く所はどこでも、天国も一緒について来ました。


イエス様が、パリサイ人に言われた「天の御国は、あなたがたのただ中にあるのです」という意味は、イエス様の血潮が私達を洗い清めた時に、天の御国は私達の中に住まうことができ、私達は天の御国を携え運ぶ器となることができるということです。


ハレルヤ!



子どもとなって初めて、贖われた生き方という状態があなたの現実となるのです。

そして目に見える変化が現れてきます。


神様とそのみことばに接する時に子どものような信仰を持たなければ、贖われた生き方をすることはできません。


つまり、イエス様はこのように言われたのです。

自分から切り離してしまうので、天の御国があなたの人生に訪れない、現れないんだよ。と。


ですから、子どものような信仰がどのようなものであるかを理解することは、とても重要です。


もしかしたら忘れてしまっているかもしれないので、思い出させたいのです。

すごく単純なのですが、この事を毎日自分自身に思い出させることはとても大切です。


あなたは、神の子どもです。


「私は、神の子どもです。」と言ってください。

私は神様の子ども。


もうちょっと具体的にしましょうか。

あなたが男性なら、「私は神様の息子です。」と言い、女性なら「私は神様の娘です」と言ってください。



時々、私達はそのことを忘れてしまうんだと思います。


それゆえに、子どものような信仰で神様に近づくことができなくなってしまうのです。

頭の知識、神学によって「私は神様の子どもです。」と口では言うことができるかもしれません。

しかし、自分の地上の親に近づくみたいに、天のお父さんに近づかない。



もしかしたら、みなさんの中には、ほんとうにひどい親の元で育った方もいるかもしれません。


ですから、「神様が自分の父親である」とか、「神様があなたを受け入れている」とか、「天のお父さんの愛」という事を聞いても、ピンとこないかもしれません。

育った家庭環境やご自身の経験によって、父親と息子、あるいは父親と娘の関係にたいしての理解が歪んでしまっているかもしれません。



しかし、私は神様を信じます。

聖書ははっきりと「神のみことばは、間違った考え、イメージ、この世の知恵、また人生にたいする歪んだ見方を洗い去ることができる水」であると語っています。

みことばの水の洗いは、文字通り、あなたの思いを清めることができるのです。

神様やみことばにたいして、あなたに歪んだ理解をさせてしまっているものを消去するのです。


あなたがどのような子ども時代を経験されていたとしても、私は、私が語っている最中に、神のみことばの水がそれらすべてを洗い去ると信じています。

神様は、ご自身の御霊によって、あなたにはっきりと悟らせてくださいます。

神の御霊と、神のみことばによって、神様はあなたの目と心を開いてくださいます。

あなたの心は、神のみことばの光によってあふれ、あなたは自分自身を本当に、神様の息子、娘として見ることができるようになります。



神様に見捨てられた哀れな者、神様がなんとか我慢している者ではなく、神様が交わりの中に大歓迎している者、神様から親しく交わりたいと思われている者、神様が愛されている者です。

あなたは、天使たちと同等レベルの者ではありません。

天使たちは、仕える霊です。

また、あなたは動物達と、同等の者ではありません。



神様は、神様ご自身に似せた者として、あなたを造られたんです。

聖書は、ローマ8章ではっきりと語っています。

「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」

またⅠヨハネ3章1節ではこう言っています。

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」


ハレルヤ!


私はゴミくずではありません!

私は、神様にとって、どうでもいい存在ではない!

神様はいつも私のことを一番に考えてくださっている!

私はいつも神様の心と思いの中にいる。


聖書はこう言っています。

「女が自分の乳飲み子を忘れたとしても、このわたし、主はあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらに、あなたの名前を刻んだ。」(イザヤ49章15節)


ハレルヤ!


つづく