あなたは、わたしに何をしてほしいのか?

(写真はYoutubeより)

TJ ・マッカンジー


ヘブル13章。

「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。
彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」

ハレルヤ。


聖書は「結果を見なさい」と言っています。

盲人バルテマイの結果はどうでしたか?

彼は目が見えるようになりました。

結果を見る!

長血の女は結果的にどうなりましたか?出血が止まりました。
結果を見てください。


聖書はローマ4章で「アブラハムは、およそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」と語っています。

彼は、自分の肉体の弱さや、一度も子どもを産んだことがない、89歳の妻の体の弱さに目を留めてはいませんでした。
彼は、妻の胎が死んでいることに目を留めていたのではありませんでした。

彼は、自分の置かれた不可能な状況、複雑な状況に目を留めてはいませんでした。

90歳で子どもを産んだ女性など、今まで一度も目にしたことがないということにも目を留めてはいませんでした。


アブラハムは神様を喜ばせた。
なぜなら、彼は神を信じたから。ハレルヤ!

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

しかし、あなたに信仰があるなら、あなたは神様を喜ばせているのです。


そして、神様は、熱心に神様を求める者たちに報いてくださるお方なのです。

聖書は語っています。
「アブラハムは、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じた。」

それが秘訣です。

状況がますます悪くなっていくように見える時に、どのようにして、信仰にあって強くなっていくのでしょうか?

イエス様がヤイロに語られたことをする必要があります。


ヤイロがイエス様に、来て自分の娘を癒してくださいと懇願した時、まだ娘は生きていました。

しかし向かおうとしていた時に、娘は死んでしまった。

ヤイロの家から人がやって来て、「イエス様を煩わせないでください。お子さんは死んでしまったんですから。」と言いました。

「もっと状況は悪くなったんだ。全ての希望は消え失せた。ヤイロ、あきらめろ」と。

イエス様はどうされたでしょうか?

イエス様はそれを聞いて、このようには言われませんでした。

「ヤイロ、わたしがいやすつもりはあったことは分かってるでしょ。もうあとは、神様の御手にゆだねなければならないんだ。」

いいえ!イエス様は言われました。

「恐れるな」

ハレルヤ!

「ヤイロ、恐れないで、ただ信じなさい!」

なぜなら、すべてが! ある種のものはとか、大半のものはではなく、信じる者にはすべてが可能だからです!

あなたには高血圧がありますか?
ヤイロの娘は死んでいたんですよ!
彼女には、もはや血圧なんてものはなかった。

皆さん、「すべて」と叫んでください。

あなたには、脳の問題がありますか?
彼女の脳はそもそも動いてもいませんでしたよ。彼女は死んでいたんです。

あなたは疲れ果て、弱くなっていますか?
彼女は死んでいたんです。いのちがなかった。

しかし、すべてのことが可能なのです!

神様は、覆すことができないものをひっくり返されます!

変えることができない状況を、神様は変えられるのです!

神様は不可能なことができるお方なのです!

神様は「わたしの伸ばした力強い手は何でもできる!」と言われるお方です。

私の神にとって、難しすぎることは、何も!何も!一つもない!

「不可能なことは一つもない!」と叫んでください。

ルカ1章37節。「神にとって不可能なことは一つもない!」

2つの解釈があります。

まず一つ目は、神に不可能なことは何一つない、です。

ハレルヤ。深いですね。 

つまり、あなたが苦しんでいる状況で、神様が取り去ることができないものは一つもないんです。神様は何でもできます。

しかし二番目の解釈はこれです。

神様は現れておきながら、何もしないでいることはできない。

ただ私達をハグして、キスして、「さあ、また問題の中でもがき苦しみなさい。」と言うために、神様はご臨在をもたらされるのではありませんよ。

違いますって!

皆さん、空港で、要人やセレブを見たことはありますか?

彼らは、単独で行動してはいません。5,6人の付き人がいます。

一人は財布を持ち、もう一人はブリーフケースを持ち、別の人は予定を管理している。

その人の周りには沢山の付き人がいます。
なぜなら、彼はVIPだからです。

皆さん、イエス様は、V、V、V、V、V、V、V、VIP、超超超超超超超超重要人物です。


イエス様が現れる時、誰が一緒にいると思いますか?

聖霊様にある喜びです。ハレルヤ!

神の臨在についてくるものは何か知ってますか?

主は、あなたとあなたの家族のために癒しの力を持ってこられます。

主の臨在に伴って来るものは何か知ってますか?

主は、あなたの結婚生活を回復する力を持ってきてくださるのです!

主の臨在に伴うものはなんでしょうか?

エリコの城壁を全て打ち壊し、あなたが約束の地、カナンの地に入れるようにする力です!

神様がご自身を現す時、奇跡はポップコーンのように次から次へと起こるのです!

ハレルヤ!と叫んでください。

「彼らの信仰の結末を思い起こしなさい」

アブラハムはどうなりましたか?約束をただ握って、死にましたか?

違います。彼は、イサクをその手で抱きました。

エリシャのもとに来て、「私はツァラアトなんです」と言ったナアマンに、エリシャは「ヨルダン川へ行って、洗いなさい」と言いました。

ナアマンは、あやうくその場で奇跡を失いかけました。神様の指示に腹を立てたからです。


ある時、私が説教を始める前に、ある男性が来られて、「私のために祈ってくれますか。祈りが必要なんです。私は解放される必要があります」と言ってきました。

「もちろんですよ。集会に参加して、みことばを聞いてください。そのあとにお祈りしますね。」と私は言いました。

すると彼は言ったんです。「ええ!⁇参加しないといけないんですか?」


ある人達は、イエス様は、何か魔法の言葉を唱えたらすぐに欲しいものをくれるような方であってほしいと思っているんです。

聖書は、マタイ4章23-25節でこのように語っています。

「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」

ナアマンはそれが嫌だった。現代も、多くの人達はそれを嫌がります。

「説教の時間はいらないから、はやく祈りの時間に移ってくれるといいのに。」

でもですね、ある人達は、そもそも祈りの時間が必要じゃない人達もいるんです。

みことばを聞いている時間に、神様の力をつかむこともできるんです。

みことばには力があり、みことばは、天国から、あなたの状況のただ中に神の力を運ぶ乗り物です。

聖書は語っています。「ペテロがみことばを語っている時に、聞いている人達に聖霊がおくだりになった」と。


私はイエス様の御名によって祈ります。
私がわめきちらしながら、みことばを語っている最中に、神様の力が電気のように皆さんの体に流れ、皆さんは力を、喜びを、いのちを取り戻します!!

神の御霊によって。

エリシャが「ヨルダン川で7たび、身を洗いなさい」と言った時、ナアマンは怒り、あやうく奇跡を失いかけました。

「ダマスコの川のほうがもっときれいじゃないか?昨日、ヨルダン川を通りかかったけど、すごく汚かった。私は行かないよ。私の敵があの川で泳げばいい。
あんな川に入ったら、変な菌に感染するかもしれない。」

しかし、彼のしもべが、「もしあの方が、もっと難しいことを言われたら、あなたはそれをなさるのではないですか。」と言いました。

人々は、歯を食いしばり、一生懸命頑張り、もがき苦しむことが信仰だと思い込んでしまっています。

それは違いますよ!
信仰は安息なんです。
そこには安息があるんです。アーメンですか?


ナアマンのしもべは、「もっと難しいことを注文されたら、あなたはされるのではありませんか?ただ行って、身を洗って来なさいと言われたのではありませんか。」と言いました。

ただ行って、洗いなさいですよ。

信仰というのは、本当に単純なことを命じます。

ナアマンがその指示に従った時に、何が起こりましたか?

彼は7回、身を浸し、7回目に、彼の皮膚は赤子のように回復したのです。ハレルヤ。

彼のからだは、幼子のようにきれいになった。

そこにはとても大きな学びがあります。

歯を食いしばってではなく、贈物なんです。

神様は、あなたが受け取りたいと思っている以上に、あなたに力を与えたいと熱く願っておられるんです。

そのことが分かると、ただ両手をあげて、なんの疑いももたずに、「お父さん。私は受け取ります」と本当に簡単に言えるようになるのです。


「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私達がこの地上で必要とするすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。」


聖書は言っています。
「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」


聖書はまたこうも言っています。
「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」


「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」


それは経済的なことだけを言っているのではありません。「私は、この人生で欠けるもの、乏しくなるものは何一つない!」ということです。

私は、経済的にも、肉体的にも、感情的にも、私の家族の内にも、私の子ども達にも、いかなるものにも欠けることはない。

なぜなら、主が私を導いてくださる方だから!

聖書は言っています。「私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」

「まことに、」

もしかしたら良いことが起きる、とか、時々、悪いことが起こるかもしれない。
それは神様次第だ、ではないんです。

私達が従順に歩むなら、聖書は言っています。「もしあなたがわたしの声に聞き従うなら、最良の小麦と岩の上にできる蜜で、わたしはあなたを満ち足らせよう。」と。


神様は、ご自分に従順な子ども達のために、良いものを用意してくださっているのです。

私は、みなさんにはっきり言います。

あなたが神様とそのみことばに従順でありつづけるなら、神様はあなたのために天の報いを用意しておられます。

そして今年、神様は公に、あなたに報いてくださいます。イエス・キリストの御名によって!

まことに!です。もしかしたら、でも、時々でもなく、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来ます。」

いのちの日の限りです!

オーラル・ロバーツ師は、まだ健在で、クルセードを行っていた時に、会衆にこのように言わせていました。

「皆さん、言ってください。『私は期待します。今日、私に良いことが起こると』」

人々はそのように、「今日、私に良いことが起きると期待します。私に奇跡が起こることを期待します」と言っていました。

ベニー・ヒン師も、クルセードで、「私は奇跡を信じます」とよく賛美されていました。

私は今日、奇跡が起きることを信じます!と。ハレルヤ。

私は、アメリカやカナダ、日本の人達は一体どうなってしまったんだと思います。

宗教の悪霊が、人々の耳にささやいて、神様から何かを受けたいという渇望を無くさせてしまっている。

まるで、神様に奇跡を求めることが悪いこと、間違っているかのように思い込まされてしまっているのです。

イエス様がベテスダの池のところにいた男性のもとに来た時、イエス様は彼になんと言いましたか。

「あなたは、わたしに何をしてほしいのか?」でした。

イエス様は彼にたずねました。
「あなたは良くなりたいか?」


イエス様は、彼の願望が、神様の願いと一つとなり、神様の力が介入できるようにされたのです。

それが信仰です。

あなたの願望、願いを、神様の願いと一致させる。

そうする時に、状況を変える神様の力が流れてくるのです。

だからこそイエス様は尋ねたんです。
「あなたは良くなりたいか?」

「良くなりたいですけど、私には助けてくれる人がいないんです。」

宗教にやられてしまっていて、言い訳しか出て来ない。

「良くなりたかったけど、うまくいかなかったんです。医者は、これは特別なケースだと言ったんです。」

「良くはなりたいですよ。でも、これがどんなにつらいことか、周りの人は理解してくれないんです。」

「良くなりたいけれど、これが治ったという例は、歴史上一度もないんです。」

素晴らしいです。あなたが最初の人になるんです。

ハレルヤ。ハレルヤ。

彼は言いました。「私のことを助けてくれる人はだれもいないんです。」

イエス様は言われました。「あなたには人間は必要じゃないよ。わたしは神なんだから。」ハレルヤです。

イエス様は彼に言われました。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

そして彼は、床を取り上げて、歩き出しました。

また聖書はこう言っています。

イエス様は、道の途中で、2人の目の見えない人達と出会い、彼らに尋ねられた。
「あなたはわたしに何をしてほしいのか。」

目の見えない人にたいして、ずいぶんひねくれた聞き方ですね。

「何をしてほしいかだって?見れば分かるでしょ。」

彼らはサングラスをつけていたわけではなく、目が見えないというのはすぐに分かることでした。

イエス様は、彼らが目が見えないことを知っていました。知らなかったわけではありません。

それなのになぜあえて、「あなたはわたしに何をしてほしいのか」と聞かれたのでしょう?


イエス様は、彼ら自身の口で、神のみことばにそった良い願い、願望を言わせたかったからです。

「あなたがたは、わたしに何をしてほしいのか?」


彼らは、宗教でごりごりにこり固まった事は言いませんでした。

「そうですね。仕事を与えてください。もう物ごいするのはうんざりしましたから。視力が無くてもできる仕事だとなおいいです。」

彼らはそのような願いをしませんでした。

「あなたがたは、わたしに何をしてほしいのか?」

神様には全てのことができるのに、なぜちっぽけな願いをするのですか?

最大限に大きく求めようではないですか。

「主よ!この目をあけていただきたいのでいただきたいのです!」

イエス様はそんな彼らに「あなたたちは、なんてあつかましいんだ。この地上にどれだけ沢山の目の見えない人達がいるのか分かってるのか?
なんて自己中心な人達なんだ。わたしはそんな願いは聞き入れないよ。」とは言われませんでした。


あなたが目が見えないなら、他の目の見えない人達をいやすために、まずあなたの目が見えるようになったほうがいいじゃないですか。

その後で、あなたのような、奇跡を必要としている人達に奇跡の力を解き放っていく器として神様に用いていただくのです。

「わたしに何をしてほしいのか?」

彼らは言いました。
「目が見えるようになることです。」

イエス様は言われました。
「あなたがたの信仰のとおりになれ!」

この意味は、神様が、私達の状況の結果を決められるわけではないということです。

さきほど見たように、「彼らの信仰の結末を見なさい」です。

彼らの信仰の結末です。

あなたの信じたとおりになるように!

私が今晩、ここに来たのは、みなさんに、神のみことばを沢山語って、刺激して、皆さんが神様に求めるようになるためなんです。

私の妻が言ったように、ヤコブのように、
「神様。あなたが私を祝福してくださるまで、私はあなたを放しません!」と粘り強くとことこん求めるためです。

Ⅱ列王記4章で4人のツァラアトの人達が出て来ます。聖書はこう語っています。

彼らは、サマリヤの包囲が終わるのをただ何もしないで座って待っていた。と。

しかしそのうちの一人が言います。
「どうして、何もしないで座って死ぬのを待っているんだ。死ぬまで座っている気か?さあ、立ち上がって、実際に行動しようじゃないか。」

私は祈ります。

神様のみことばがあなたを突っつき、刺激し、奮い立たせ、彼らと同じようにあなたがこのように言うようになるようにと。

「どうして、私は、ただ座ったまま、やられっぱなしで、悪魔に私の子ども達を奪わせつづけ、私の人生を惨めなものにさせつづけているのか。

これ以上そうはさせない!
私は奮い立って、神様を信じる!
主よ、あなたが私を祝福してくださるまで、私はあなたにしがみつづけ、求めつづけます!
神様の良さを見るまで、私は、絶対に、主よ、あなたを放しません!!!」


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