もし間違えてしまったなら「神様、ごめんなさい。赦してください」と言って、またもう一度歩み始めてください。
聖書は、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」と言っています。
罪を悔い改めたなら、罪悪感を持たないでください。
神様はあなたを今日も変わらず愛しています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない」


⑤心配から解放される
〜何を聞くか、そしてそれにどう反応するかに注意する〜

Tj Malcangi

心配に打ち勝つ秘訣

その3.聞くものと聞き方に注意する

聞くものを、いつでもコントロールすることはできません。
見たくなくても、広告で目に入ってきたり、聞きたくなくても、耳に入ってくることはあります。
しかし、耳に、目に入ってきた情報を聖書的な方法で処理することはできます。


ピリピ4章は、そのためにどのようなフィルターを用いるべきか語っています。
そのフィルターによって、それを自分の心に留まらせてもいいのか、それとも追い出すべきなのか決めていくのです。

情報というのは、まず頭にやって来ます。
しかし、その情報があなたの心にまで下ってくるのを許すのか、それともそれを自分の頭から追い出すのかは、あなたが決めるのです。

ケネス・E・ヘーゲン師はよくこう言っていました。
「鳥があなたの頭の上を飛ぶのを止めることはできない。しかし、鳥があなたの髪の毛に巣を作るのは止めることができる。」


様々な思いがあなたの頭によぎるでしょう。
しかし、その思いがとどまることを許し、そのことをずっと思い巡らして、やがてそれが要塞になることを許すのかどうかはあなたが決めるのです。
思考の要塞というのは、全て、思いという種から築かれていきます。

あとで、皆さんのために私は祈ります。

私達はこの心配という要塞、妄想、全ての要塞を打ち砕き、全ての思いをとりこにして信仰のことばに服従させます。
あなたを落ち込ませている心配という悪霊から、心配の霊から、心配と疑いの考え方から神様があなたを解放してくださることを信じます。


ピリピ4章8節。
聖書は全ての思いをフィルターにかける必要があると語っています。
そしてこれがそのフィルターです。
「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、」

それは真実ですか?
そうではないなら、ぐるぐる考えるのをやめてください。
「すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。」

「そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」


ですから、真実ではないこと、誉れあることではないこと、正しくないこと、清くないこと、愛すべきことではないこと、評判の良くないこと、徳ではないもの、称賛に値しないものを受け入れ、それらに自分の頭を、生活を支配させてしまうなら、平和の神は共にいないと聖書は語っています。


もしあなたが若くして死ぬかもしれないと恐れているとします。
それは真実ですか?
聖書は、「わたしは長いいのちで彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる」と語っています。

ということは、その恐れは真実ではありません。
それならなぜそのことを考えつづける必要があるのでしょうか?


「病気になったら」それは真実ですか?
聖書は、出エジプト15章で「わたしは主、あなたをいやす者である。
わたしはエジプトに、この世に下したような病気を何一つあなたの上に下さない。」と言っていますよ。
ですからその恐れは真実ではありません。


もしあなたが何らかの診断を受けたとします。確かに、その診断は事実かもしれませんが、事実だからと言って真実ではないのです。

聖書は、「あなたのみことばは真理です」と言っています。
神のみことばは真実です。

事実は、あなたの体に腫瘍があるかもしれません。
しかし、真理であるみことばは言っています。「わたしは健康といやしをもたらす。」
「彼の打ち傷によって、あなたはいやされたのです」

ですから、あなたは事実を見ることもできますが、真理を信じて、「主よ、私の体に今触れてください」と言うこともできます。

腫瘍があるという事実はありますが、真理はいつも事実に勝るのです。

あなたは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできます。
真理はいつでも、存在するいかなる事実にも打ち勝つのです。

ですから、信仰は、神のみことばは望んでいる事がらを保証し、まだ見えないものを確信させるものなのです。


真実ではないなら、私は聞きたくありません。

それは誉れあることですか?
正しいことですか?清いですか?
愛すべきことですか?
それは良い評判、良い報告ですか?
それとも悪い知らせですか?


何かの知らせを聞くとき、そのことについてどう感じるかによく注意してください。
何かの知らせを聞いて、意気消沈し、気を紛らすためにお酒を飲みたくなるようであるなら、それは主から来たものではありませんよ。

あなたの喜びを奪おうとする悪魔です。
なぜなら、悪魔は喜びと平安があなたの力であることを知っているからです。

主の喜びはあなたがたの力です。

悪魔は、あなたから喜びを奪うなら力がなくなることを知っているのです。
あなたに力がなければ、悪魔はあなたが主に力強く用いられることがないように完全に不利な立場にあなたを置くのです。

だからこそ箴言4章は「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」と言っているのです。


あなたの心を見張ってください!
ヤイロは死にかけていた自分の娘を癒しに家に来てください、とイエス様に求めました。

イエス様は彼の家に向かおうとしましたが、彼の家からある人が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。ですからイエス様をこれ以上煩わせないでください。」と言いました。

それを聞いた時、ヤイロは落胆したはずです。しかしイエス様は何と言われたでしょうか?
「ヤイロ。恐れないで、ただ信じなさい。」

信じる者には、すべてが可能なのです。

ヤイロは悪い知らせを聞いた時、こう言うこともできたはずです。
「イエス様。私はあなたが娘を癒してくださるという信仰を持っていました。
でも娘は死んでしまった。だからもう結構です。お忙しいことでしょうから、どうぞもう行ってください。」


しかしイエス様は、「娘は亡くなりました」という不信仰な知らせに反撃されました。
確かに、その知らせは事実でした。
でも言いましたね。
真理と事実が違う場合があると。

事実は、ヤイロの娘が亡くなったことですが、真理はイエス様は復活であり、いのちであり、死者をよみがえらせるために来られたという事です。

ヤイロは、どちらの声に自分の人生を支配させるのか選ぶことができました。


Ⅱ列王記7章で、エリシャは、「明日の今頃、経済が回復し始める。不況が終わって、正常になる」と言いました。

しかし、王の侍従は「たとい、主が天に窓を作られても、そんなことが起きるだろうか」と言いました。
エリシャは「あなたは確かに自分の目でそれを見るが、食べることはない。」と答えました。

その時、その場にいた王は、「エリシャ、お前は気が狂っている」と言うこともできましたが、黙っていました。


もしあなたの心に心配や思い煩いがあって、口を開いて自分の身に破滅をもたらすような言葉を言いたくなる時は、黙っている方がいいのです。

飢えた大勢の人達に食べ物を配ることほど大変な仕事はありません。
あの侍従は、翌日、食料の分配の管理をする責任者として門にいた時に、人々に踏みつけられ亡くなってしまいました。

ですから何を聞くか、そしてそれにどう反応するかに注意してください。


世の情報、ニュースは聞きたくなくても聞かないといけない時がありますが、恐怖を引き起こすような映画はそもそも見るのをやめてください。


そしてもう一つ、あなたの信仰に悪影響を与えるようなメッセージを聞くのはやめてください。


もしあなたが貧しくて、お金のことで心配しているなら、「貧しいことは清く敬虔なことです」という説教を聞かないでください。

それよりも、「貧しいままでいる必要はない」と聖書からお金の管理について教えている説教を聞いてください。


病気について心配しているなら、「病は人生の一部だ」と語る牧師のメッセージを聞くのはやめてください。
そんな教えは聖書のどこにもありません。

確かに、堕落したこの世の者であるならその通りですが、神様は私達をそこから救ってくださり、私達は世の腐敗から逃れた者達です。

自分の家庭が崩壊し、家族関係が修復しなかったら、結婚生活が崩壊したらと心配しているなら、離婚や家庭崩壊を当たり前のように扱った映画やテレビ番組を見ないでください。

悪魔は、この世の中では当たり前の事を見せることによって、「これは普通の事なんだな」とあなたの思いを鈍感にさせたいのです。

この世の中では当たり前の事は、私達にとって異質なものとなるべきです。

この世の中で普通の事は、イエス様を信じる者達にとって異質なものとなるべきです。

私達はこの世の中にいますが、この世のものではありません。

神から生まれた者、上から生まれた者達には、神の種がその内にあり、悪い者は手を触れることができないと、聖書は言っています。

聖書はまた、「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」と言っています。


ここで言われている「世」とはコスモスで、この世のシステムのことです。
この世のありかた、この世で普通と思われていることに同化したいと思っているなら、自分を神の敵としているのです。


どんちゃん騒ぎをしたり、ヘロインをやったり、罵ったり、結婚離婚を繰り返したりすることだけを言っているのではありません。

もちろんそれらも含まれていますが、ヤコブは「もしあなたがこの世のシステムの友であるなら、主を知らない人達と同じやり方で人生を生きているなら、自分を神の敵としています」と
言っているのです。


神様があなたのために用意している昇進、将来、使命の敵となってしまうのです。

神様があなたの現実となってほしいと思っているものとは全く関係ない、他の誰かの現実を自分の思いに受け入れないでください。
良い証、良い報告に触れるようにしてください。

つづく