TJ Malcangi
マタイ6章。これはイエス様のことばです。
私が「心配は罪だ」と言うのを聞いて、誇張している、ちょっと厳しすぎると思われる方もいるかもしれませんが、イエス様が何と言われているか見てみましょう。
「自分のいのちのことで心配するのはやめなさい。」
私は、自分の人生について心配しない、と言ってください。
自分のいのちのことで心配するのはやめなさい。
自分の人生について心配するのはやめなさい。
イエス様があなたに語っているんです。
してはいけない。Do not と。
私は、英語専攻ではありませんが、イエス様が「何かをするな(Do not do something)」と言われた時に、私がそれをするなら、私は罪を犯したということです。
私は的から外れてしまいました。
イエス様がしてほしくない事をしてしまった。それは罪です。
イエス様は、マタイ5章で言われました。
「『人を殺してはならない』と言われたのをあなた達は聞いているが、何の理由もなしに兄弟に腹を立てるならさばきを受けなければならない。」と。
言い換えるなら、兄弟にたいして心の中でも怒りを持ち続けているなら、殺人をしているのだ、言われているのです。
また「『姦淫をしてはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いていますが、情欲を抱いて女、あるいは男を見るなら、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と言われました。
「自分の手で悪いことをしてはいけない。
悪い行動をしてはいけない。
でも頭で何を考えようと、思おうと自由だ」というのが律法でした。
でもイエス様は、「いいや。違う違う。もちろん、これらのしきたり、律法に従ってもいい。しかし、結局のところ、罪は心から生じるものなんだ。
悪い考え、姦淫、怒り、偽証、偽りなどは全て心から出て来るのだ。」と言われました。
イエス様が言わんとしていたのはこういう事でした。
「律法は、あなた達がどう頑張っても、どうあがいても、神の聖さに到達することはできない事を、あなた達に教える養育係なんだ。
しかしわたしが来たのは、律法を破棄するためではなく、律法を成就し、人間の心にある問題をも取り扱うためだ」と。
自分の手で悪い事をしないように歯を食いしばって頑張ることはできます。
でも結局のところ、心が変わらないなら、神からの栄誉を受けることはできないのです。
律法は「殺すな。姦淫するな」です。しかし、イエス様は「心の中で情欲を抱いてはいけない」と言われ、全く新しいレベルに引き上げられました。
そしてイエス様は言われたのです。
「だから、わたしはあなたがたに言います。
自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。
いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりもたいせつなものではありませんか。
空の鳥を見なさい。
種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(英語では、身長を伸ばすことができるか)」
あなたは、心配することによって、自分の身長を伸ばすことができますか?自分のいのちを延ばすことができますか?
イエス様は、ルカの方では、「こんな小さな事さえできないのに、なぜ他の事まで心配するのですか」と言われています。
神様が、今朝あなたを目覚めさせてくださったからこそ、起きることができたのに、なぜその日の事についてあれこれと心配するのですか?
神様があなたに力を、健康を与えてくださらなければ、起きることも、歩くこともできないのに、なぜ色々と心配するのですか?
「子ども達は主の賜物」とありますが、神様が授けてくださらなければ、子どもを持つことさえできないのに、なぜ「どうやって育てよう」とあれこれ思い悩むのですか?
箴言は、「子ども達を主の方法によって教育せよ。」と言っています。
そうすれば神様が祝福してくださるので、その子は、年老いても、信仰の道から離れることはありません。
あなたは自分の子どもに命を与えることもできないのに、なぜ「子どもが病気になったら」と思い煩うのですか?
あなたの子どもに命を与えてくださった神様は、あなたの子どもを支え、守り、健康を与え、元気がなかったり、熱がある時には癒し、力を与えることができる神様ではありませんか?
「こんな小さな事さえできないのに、なぜほかのことまで心配するのか」とイエス様が言われています。
神様の好意がなければ、仕事を得ることもできないのに、なぜ昇進について思い悩むのですか?
神様がビジネスのアイデアを与えてくださらなければ、始めることもできなかったのに、それは完全に神様からのアイデアであって、あなたのものではなく、あなたはただそれを実行に移したのですが、神様が始められたことなのに、なぜ上手くやり遂げることができなかったら、と思い煩うのですか?
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、それを完成させてくださいます。」と聖書は言っています。
「主は、最後まであなたがたを堅く保ってくださる」
また聖書は「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、栄光の御前に立たせることのできる方に」と言っています。
「平和の神が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださり、主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守ってくださる」とも言っています。
イエス様は「何を食べようか、何を飲もうか心配するな」と言われました。
今日、あなたの冷蔵庫に食べ物と飲み物があるなら、それは主が供給してくださったからです。
28節は着る物について言っています。
「野のゆりを見なさい」と。
今日、あなたが服を着ているなら、それは主があなたに着せてくださったからです。
イエス様はここで、食べ物や着る物、お金について語っています。
「お金の話しは汚れているから語りません」という牧師達がいますが、それはキリストの体に害をもたらしています。
なぜなら離婚の1番の原因は、経済的ストレスだからです。
鬱や自殺の主な理由も、経済的圧迫なんです。
お金のことについて語れない牧師達が沢山いるがゆえに、キリストの体は混乱してしまっています。
私は、神のみことばが語っている事を宣言することを恐れません。
ここでイエス様は「着るものや食べ物もすべてわたしが世話しているのに、何を心配する必要があるのか。わたしの娘よ、息子よ。わたしがあなたを助けるから、大丈夫だよ」と言われているのです。
「わたしがすべてを供給するんだから!」と。
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」
もちろんだからといって、働かなくていい、一日中ベッドで寝ていていいんだよと言っているわけではありません。
一生懸命働くことは悪いことではありません。
でもここでイエス様が言われているのは、
「あなたの努力や頑張りがあなたを人生の成功者にするわけではない」ということです。
「自分の力で成功したんだ」と人は言います。
いいえ、違います!
「人は天から与えられるのでなければ、何もいただくことはできません。」と聖書は言っています。
努力だけではありません。
「主が家を建てるのでなければ、働き人の働きは虚しい。」と言っています。
多くの方達が一生懸命働いています。
中には、4つ、5つの仕事を掛け持ちされている方もいます。
聖書は、「彼らは、あなたが彼らにお与えになったものを、集めます」と言っています。
イエス様は続けて言われました。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」
ソロモンの事をちょっと想像してみてください。
イエス様は、何の理由もなく、ソロモンと言ったのではありません。
ユダヤ人は、ソロモンが疑いもなく、全世界で一番富んでいた王である事、最も賢い王で、彼の王国は非常に偉大で、訪問した東の女王があまりにの素晴らしさに気絶しそうになったことを知っていました。
イエス様は言われています。
「あれほど着飾っていたソロモンでさえ、野のゆりほど着飾っていなかった。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。
信仰の薄い人たち。」
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」
「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものです。」
ニュー・リビングバイブルは「こういうものが、神を信じない者達の思いを支配しているのです。」と言っています。
この放送が終わる時には、あなたは心配性の人ではなくなって、「神様が私の源だ」と認め、信じる人へと変えられていますように。
イエス様は続けて言われました。
「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて」
食べ物、住まい、健康、命、力。
人々はそれらを手に入れようとしてへとへとになるまで働き、心配して、必死に努力して、でも将来が確かではないので精神的にも束縛されてしまっていますが、
イエス様は「そういったもの全てを、わたしはあなたに与えるよ。もし、あなたが神の国とその義とをまず第一に求めるなら。」と言われているのです。
「神を信じない者達がどうやって得ようかと思い煩っているそれら全てのものを、加えて与える。」
「だから、明日のための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
今は天に帰られた偉大な伝道者、RW・シャンバーは、自身の集会でよくこのように言っていました。
とても大切な事ですので、よく注意して聞いてください。
「心配は、あなたが抱えてもいない問題(借金)の利子を払っていることなのです。」
自分が買ってもいない家具の利子が毎月毎月、請求されるのを想像してみてください。
20%の利子が終わることなく、毎月毎月請求される。そして今や、銀行から「あなたの家を取り上げます」と書類が送られてきて、まず車が取り上げ、ついに家に人がやって来て、「あなたの家を取り上げます」と言われる。
それもこれも利子の支払いができなくなったから。
でも、そもそも自分は店で、家具やテレビなどを一点も購入していないのに、毎月自分が使ってもいない30万円の20%の利子が請求されてくるわけです。
それが心配というものなんです。
自分の家にないものの利子を払わされる。
人々は、年がら年中、病気になったらと心配して、ストレスを感じています。
病気になってさえいないのに!人生を無駄にしてしまっていますよ!
ある人達は病気を恐れるがあまり、ベッドから出ることさえしません。
あなたは神の作品であって、神様があらかじめ備えてくださった良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた者なんです。
神様があなたにしてほしいと願われている良い事が沢山あるんです。
でも病を恐れて、ベッドから出ることもできない人達がいます。
中には、「自分は40歳、50歳まで生きることはない。だからチャレンジしたって無駄だ」と、神様のために何かをしようとはしない人達もいます。
95歳まで生きるかもしれないのに!
心配や恐れによって、神様があなたのために用意してくださったことをしないで、後悔する人生にはならないでください。
「不可能だ」というメンタリティーではなく、「可能だ」というメンタリティーを私は持っています。
なぜなら、私は私を強くしてくださるキリスト・イエスによって何でもできる事を知っているからです。
そして私の内で良い働きを始められた方は。必ずそれを完成させてくださるからです。
ある人達は、収入が増えると、心配しだします。
「これは長く続くはずがない。
収入が良い状態が続いてほしいけど、そんな上手くいくはずがないから、貯金しないと。
捧げるより、もしもの場合に備えて貯金しないと」と言って、捧げることをやめ、収入の什一を献金しなくなるのです。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、神が備えてくださったものはみなそうである。」
「わたしは、あなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ」と言われているみことばを信じるかわりに、「失敗する。」「上手くいかなくなる」と思い込んでしまっているのです。
聖書のメッセージは、「あなたの始めは小さくても、わたしがあなたを引き上げる」です。
神様は「わたしがあなたを引き上げるなら、あなたは転落していくかもしれないと心配する必要はない」と言われています。
神様があなたのレベルを変えられる時、それは良い方に変えられます。
私は、昨年、この事を今まで以上に学びました。
神様があなたのレベルを変えられるなら、良い方に変えてくださるんです。
神様があなたの祝福される時、パニックにならないでください。
「どれくらい続くかな」とネガティブにならないでください。
ある方達は、悲観的な家庭で育ったからなのかどうかは分かりませんが、状況が自分にとって良い方向に変わりだすと、ようやくトンネルに光が差し込んだかのようになると、とたんに恐怖にかられてしまい、思いつく限りの恐ろしい可能性で頭が一杯になってしまうのです。
私達はそのように生きるように造られてはいません。
心配は罪です。そうです。心配は罪なんです。
マタイ15章。「悪い考え…偽証…は心から出て来るからです。」
心配は悪い考えです。
なぜなら心配は、神様の良さとあなたにたいする神様の愛への不信感を現わしているからです。
心配は偽証です。
心配は、神様のご性質と御業についての偽証です。
心配は、「神様のご性質は、聖書で現わされたとおりではない。サディストだ。」と信じていることであり、神様に対して偽証していることなのです。
心配は醜いものです。
なぜなら心配を徹底的に分析するなら、神様のご性質と神様が真実である事を疑っていることが見えてくるからです。
心配の根っこは不信仰と疑いで、「神様は、ご自身が語られたとおりのお方ではない。ご自身ができると言われた事をすることができない。」と言っているのであり、
神様の誠実さ、高潔さに挑んでいるのです。
ピリピ4章6節で、パウロはピリピの教会の人達に語っています。
「何も思い煩うな」
また命令です。
私達は、「このみことばには上手く従えるけど、これはちょっと無理。心配するな、なんて無理。従えない」と選り好みすることはできません。
命令なんです。「何も思い煩うな」
何も思い煩うな。
何もです。例外はありません。
「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」
つづく
