「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
しかも、はっきりとこの事がらを話された。
するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。
『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』
それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。
『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。』」
イエス様は、今読んだこの箇所で、自分のこの地上での時がもうすぐ終わりを迎えようとしていること、エルサレムで死なれる事を語られました。
裏切られ、律法学者達などに渡され、嘲られ、鞭打たれ、殺され、3日目によみがえると言われました。
イエス様はこの目的のために来られたと言われました。
死ぬことが目的だった。
イエス様は、死ぬために生まれた唯一の方でした。
ご自分のいのちを義の種としてこの地に蒔き、多くの人の罪を背負い、ご自分が復活される時、私達が永遠のいのちを得ることができるように。
ところがペテロは、「この人は一体何を言っているんだ」モードでした。
「3年間一緒に生活をし、ここまで前進し、注目も集め始めるようになり、奇跡を目にし、人々が、異邦人までもあなたの口から語られる神のことばを聞きに集まるようになって来たのに、
何を言っているんですか?裏切られる?それなら私達が従った意味は一体何だったのですか?」とパニック状態にペテロはなっていました。
「そんなことがあなたに起こるはずがない!!」
イエス様が「引き下がれ、サタン」と言ったのは、ペテロが悪霊にとりつかれていたからだと思っている人達が多くいますが、
ペテロは悪霊にとりつかれてなどいませんでした。
ペテロは悪魔と同じ思いを持って語ったのです。
それはイエス様が十字架に行くことを妨げることでした。
あの時、ペテロは悪魔の意見に自分の口を貸したような状態だったのです。
だからこそイエス様は振り返って、「引き下がれ、サタン!」と言ったのです。
「ペテロ、お前は悪霊に満ちている」と言われたのではなく、「あなたが今、口にした思いは悪霊に満ちている」と言ったのです。
イエス様が弟子達を見て、それからペテロに「引き下がれ、サタン!」と言われたのが私は好きです。
悪魔はイエス様が十字架に行くことを邪魔しようとしましたが、イエス様は弟子達を見て、憐れみに満たされ、言われました。「引き下がれ、サタン!わたしは、このことのために生まれてきたのだ!
多くの人の身代金となるために!」
興味深いことに、その次に、イエス様は「わたしについて来たい者は、わたしと同じ思いを持たなければならない」と語られたのです。
イエス様が語られた事から、4つのポイントを見ていきます。
まず何よりも、イエス様について来たい、という願いを持つ必要があります。
なぜなら願いがなければ、固い決意を持つことはないからです。
願いが消えると、やる気、原動力が失われていき、中途半端になってしまいます。
願い、というのはとても大切です。
だからこそ私達説教者達は、人々の心にイエス様に従いたいという願いを掻き立てるために語るのです。
多くの人が私に「あなたって、人を説得するように語るよね」と言ってきます。
その通りですよ。
それが説教の肝心要じゃないですか。
パウロは使徒26章で、アグリッパ王に語り、アグリッパはパウロに「あなたはもう少しで私をクリスチャンにするところだった」と言いました。
それにたいしてパウロは、「あなただけではなく、ここにいる全ての人が、この鎖は別として私のようになってほしい」と答えました。
アグリッパは、パウロが語るのを聞いて、イエス様を信じたいという願いが沸いてきたのです。
説教は、そのように人を説得させる要素があるべきです。
人々の心に義にたいする飢え渇きを起こさせるようなものであるべきです。
何よりも神の国を求める願いを。
良い油注がれたメッセージは、この世の欲を捨て、永遠のいのちのために生きようと、あなたを駆り立てます。
まず願いがあるべきです。
その一方で、願いはあったけれど、その願いが消えてしまった人が沢山います。
最初は良く、イエス様に従いたいという願いがありました。
しかし心の土壌を管理していなかったので、神のみことばを絶えず植え付け、神のみことばの水を撒かなかったので、心の土壌を耕さず、
天に思いを向けさせ続ける、良い油注がれた説教に触れてこなかったがゆえに、やがて願いが消え去ってしまうのです。
(もちろん、神様はもう一度、あなたの心にイエス様に従いたいという熱い願いを与えてくださいます。)
パウロはこのように言いました。
「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。」
けれども続けてこのように言いました。
「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」
パウロはクリスチャンの歩みを、軍に徴募された者としてなぞらえたのです。
神様が司令官です。
ですから、この世の事に深く関わってしまうことがないように、願いを維持しつづける必要があるのです。
神様に従いたいとこれっぽちも思っていない人達と深く付き合っているなら、やがてイエス様に従いたいという願いが薄れていってしまうのです。
あなたの身近な人達が、あなたに大きな影響を及ぼし、あなたの人生の願いにも影響を与えることを理解されていますか?
聖くない願い、霊的な事に関して何の関心もない人達と深い付き合いをしているなら、徐々に生ぬるくなっていきます。
あなたが付き合っている人達は、あなたの人生の基準に影響を及ぼします。
ある牧師達と話した時に驚いた事がありました。
30分も話していると、「この方達にはイエス様に従いたいという熱い願いがないんだ」と分かるからです。
もちろん、そのような願いを持っていた時はあったはずです。神様の働きをするようになったわけですから。
でも今はその願いが消え去ってしまった。
神様の事がらに関して何の関心も願いもなくなってしまっているのです。
なぜその事が分かるのか。
それは話してから40分以上経過しても、神様が自分の人生でしてくださっている事を話すことは一切なく、
話すことといえば、スポーツの事だけだからです。
イエス様は「心に満ちている事を口が話すのです」と言われましたが、彼らは天の事柄に関して関心がないので、彼らが口にする事がそれを証明しているのです。
彼らは非常にこの世的志向になってしまっています。
ピリピ3章でパウロは、「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの思いは地上のことだけです。」
欲望が神であるという意味は、何であれ自分を良い気分にしてくれるものなら、それをするということです。
自制心がありません。
そして彼らの思いは地上のことだけです。
イエス様について話しつづけることができない。
信仰の使徒である、スミス・ウィグルスワースは力強い人で、死人をよみがえらせたりもしました。
彼はある日、病院に入院している人のために祈りに行くために、タクシーで向かっていました。
牧師にも一緒に来てくれるように頼み、タクシーに一緒に乗っていたのですが、かれこれ30分間ほど、イングランドの政治情勢について話していました。
2人とも後部座席に乗っていたのですが、突然、ウィグルスワースは「止まってください!」と怒鳴りました。
運転手は急ブレーキをかけ、「大丈夫ですか?」と言いました。
ウィグルスワースはただ、「こうべを垂れて下さい。」と言い、全員こうべを垂れました。
そして彼は祈りました。
「天のお父様。この30分間、あなたを私達の会話の中にお入れしなかった事を赦してください。それは正しくありませんでした。二度といたしません。
どうぞ私達をお赦しください。」
そしてその後、目的地に着くまで、彼らは神様について語り合いました。
でもここから秘訣を学ぶことができます。
あの男性は、ウィグルスワースが持っていたような神様との親密な関係を持っていませんでした。
彼はこの世の事に思いが行っていて、この地上での人生を築き上げることに思いが囚われていました。
ウィグルスワースが神様に力強く用いられたのは、彼の願いが、ダビデのように、神様を追い求める事だったからです。
皆さんに言いたい事があります。
あなたがもし、「自分は神様に用いられる資格があるのか分からない。神様が自分を用いることができるのか分からない。
自分は頭が良いわけでもないし、勇敢でもない。賢いわけでもなかったし、特に何かに優れているわけでもない。
問題解決能力が高かったこともない。」と感じているなら、言わせてください。
神様は、うわべを見る方ではありません。
人はうわべを見ます。
しかし、神様は心を見られるのです!
神様はあなたの心を見ておられるのです。
多くの人達が、「自分は不適格だ。自分はダメだ。」と自分の語る言葉によって、自分自身を不適格にしてしまっています。
しかし神様は、あなたがこの時代に何かをするために、明確にあなたに御手を置いているのです。
ですから、「神様は自分を用いるか分からない」などと偽りの謙遜さは捨てて、このように語ってください。
「神様は私を、私の人生を用いてくださる。私はこの地上で神様の働きをしていく。私の人生を福音のために使っていく。」
つづく
