「万物の終わりが近づきました。
ですから、祈りのために、
心を整え身を慎みなさい。」
Ⅰペテロ4章7節

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
そのためには絶えず目をさましていて、
すべての聖徒のために、
忍耐の限りを尽くし、
また祈りなさい。」
エペソ6章18節


しぶとく祈りつづける
〜とりなしは、電子レンジ式祈りではない〜

マギー・フルーラン

私達は、「電子レンジカルチャー」に生きています。
即座にとはいかないまでも、何でもすぐに欲しいのです。

しかし、とりなしとなるとそういうわけにはいきません。

とりなしとは、他の人のため、あるいは状況のために神様の御心を握り、御心が成されるまで、手放すことを(諦めることを)拒むことです。
弱々しい要求ではなく、粘り強く、そして執拗に懇願することが求められる粘り強い祈りなのです。
イエス様によるなら、粘り強さは、祈りに不可欠な要素です(ルカ18章1-8節参照)。


これと同じ事をイザヤ62章6-7節で見ることができます。

「エルサレムよ。
わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。
昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。
主に覚えられている者たちよ。
黙りこんではならない。
主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。」


すなわち、打ち破り(ブレイクスルー)を得たと確信するまで、祈り続けるということです。
御霊にあって、私達の祈りの使命が達成されたという語りかけを聞いて解き放たれるまで、あるいは祈りの答えが目に見える形で現れるまで、私達は祈り続ける必要があります。


しばしば、とりなしは時間がかかります。
ある時は数日であったり、あるいは数ヵ月、数年、さらには何十年もかかります。
とりなしは、弱気の人のものではありません。勇気ある人、粘り強い人、勇敢な人のものです。
しかし私達が根気強くとりなし続けるなら、私達の祈りは多くを成し遂げることを私達は知ることができます。
「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5章16節)


私達は、自分達の祈りが何をしているのかいつもいつも見ることはないでしょう。
しかし祈りは働いているのです。
だからこそ、忍耐、粘り強さ、根気強さが大切なのです。

イエス様が、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」(ルカ18章1節)と言われたのも、そのためです。

私達は、目に見える領域ではあまり多くのことを見ないかもしれませんが、霊の領域では、暗闇の業を取り除き、神の御心がなされるために道を整えているのです。


「私達の祈りは本物の変化をもたらす」と信じるなら、私達は打ち破りが来るまで忍耐強く祈り続けることができます。


私がボーンアゲインするまで、1年間、人々が祈りつづけてくれました。
彼らは異言で祈ったり、私にみ言葉を用いて祈ってくれました。

そして彼らが祈った時、突然、聖霊様が私に自分自身の生活習慣の過ちを認めさせ、神様の心へと引き寄せました。
もちろん、その時は、彼らが私のために祈ってくれていることを知りませんでしたし、何が起こっているのか理解できませんでした。
しかし突如として、この世の物はそれほど満足できるものではなくなり、私はそれ以上の何かを渇望するようになりました。


私の心の中で主権争いが始まりました。
暗闇と神の御国との間の戦いが。

彼ら、とりなし手達が、1年間ずっと私のために祈りつづけてくれたので、神の御国が勝利しました。
最終的に、私の霊の渇望が私をキリストへと導きました。
イエス様の光が私の中で明るく輝き始め、自分は生まれ変わらなければならないと悟ったのです。


とりなし手として、私達は、人々の人生で神の御心が生み出されるように手助けする素晴らしい機会が与えられています。

私達の国でリバイバルの風が吹いていますが、同時に神様は私達に沢山の仕事を用意しておられます。

私達が粘り強く祈りつづけさえするなら、やがて成し遂げられることに私達は目を見張るほど驚かされるはずです。


しかし、神に感謝すべきです。
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから。
Ⅰコリント15:57-58


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