イエス様がすべての人に与えたい平安





カレン・シャッツライン



あなたは平安を心の底から欲しいと思ったことはありますか?喜びを探し求めたことはあるでしょうか?


私は、休暇で、家族と海辺に来ている時に、バルコニーに座るのが大好きです。



波が岸部に打ちつけられる光景に、いつも心奪われます。

何度も言っていますが、そこは私が幸せを感じるお気に入りの場所なんです。


この圧倒的な海の美しく、そして規則正しい動きを見ながらも、この海がいつも穏やかではないことはちゃんと頭に入っています。

嵐が来て、目の前の穏やかな光景を壊すのです。



イエス様と弟子達が岸の反対側に渡るために舟に乗り込んでからの出来事が書いてあるマルコ4:35-5:20の箇所が頭によぎりました。


舟に乗り込み、漕ぎ出してすぐイエス様は疲れを取るために横になり、嵐が起こり、舟を激しく揺らし始めている最中もぐっすりと寝ていました。


弟子達は恐れ始め、自分達の命を心配し始めました。
正直に言ってこの箇所を読むと、嵐の真っ最中にくよくよと心配するのは自分だけじゃないと知って慰められるんです。


しかし、今回、このみ言葉を読み返している時に、イエス様の応答が、あかたもピカッと閃いたかのように全く新しい意味を持ったのです。



私達はクリスチャンとして、毎日イエス様と共に歩んでいることが思い浮かびました。
私達はイエス様と会話し、主の力と愛と恵みと自由を体験しています。
しかし、嵐が来たり、舟が少し揺れ始めると、私達は真っ先に、心配し、思い悩み、疑い始めるのです。

イエス様は舟に乗っていました。

弟子達のように、人生の中で、私達も、助けてもらうためにイエス様を起こさなければいけないとばかりに、すぐにパニックモードになります。


そしてこう言うのです。「私達が溺れて死にそうでも、何ともないんですか?」


その間ずっと、イエス様は変わることなく私達と共にいて下さっているというのに。



弟子達の質問にたいしてイエス様がされたことが私は大好きです。
イエス様は起き上がって、嵐の方を向かれると、嵐を叱りつけて言われました。

「黙れ、沈まれ!」

すると嵐は従い、やみました。


イエス様は弟子達の方を振り返って、尋ねられました。「なぜ、怖がっているのか?いまだに、信仰がないのか?」



これは非常に奇妙に思えます。というのも、嵐の中で恐れるのは私達の自然の反応だからです。

しかし、イエス様は嵐にたいして権威を持っています。


あの瞬間、イエス様は私達に非常に力強いことを示してくださったと私は信じています。
イエス様は弟子達に、彼らが人生の嵐にたいして権威が与えられていることを示されたのだと思います。


混乱、恐れ、災害の真っ最中であっても、イエス様が自分の舟に乗っていてくださっていることを私達が理解するなら住むことが出来る、平安と呼ばれる場所があるのです。



イエス様が風と波を叱りつけられた時、弟子達に見てほしいと思われた、より大局的な事がありました。ローマ14:17は私達に次のように語りかけています。


「神の国は、義と平和と聖霊による喜びだからです。」



イエス様がされたのはこれです。


イエス様は、波と風だけではなく、悪霊に憑かれて墓場に住み着いていた男性がいる反対側の岸部に至るまで「平安!」「静まれ」と宣言されていたのです。


その男性は、義も平安も喜びもありませんでした。彼は、日夜、内面の混乱の中で生きていたのです。



イエス様は、私達の人生にあるご自身の臨在が、私達に秩序と調和をもたらすことができることを実証したいと思っておられました。



イエス様が宣言された平安は、連鎖反応を起こし、応答を要求したのです。

自然の力が、その造り主の声に従っただけではなく、嵐の向こう側で解放が起こり始めていました。



嵐にたいする私達の反応が、嵐の向こう側で起こることを決めるのです。


イエス様は風と波を叱られただけではなく、嵐の結果にも命じられました。
あまりにも多くの時、私達は目の前の嵐にとらわれ過ぎてしまって、その後に来るものを見ないのです。


マタイ6:33は言っています。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」



この平安の宣言こそが、悪霊に憑りつかれた男性の人生に嵐を引き起こし、イエス様が嵐の向こう側からやって来て、岸部に着いた時に、イエス様の足元にひれ伏すようにさせたのです。


分かりますか?

嵐の中でのイエス様の臨在こそが、この男性の心に義を得たいという願いを引き起こし、結果として、彼は解放され、平安と喜びの場所に入れられたのです。



なぜそのことが分かるかといいますと、聖書が、「人々が何事が起こったのかと見にやって来、悪霊につかれた人が、着物を着て、正気(平安)になっているのを見た。イエス様は彼に、『自分の家に帰って、家族が回復(喜び)するために家族に自分の身に起こったことを伝えなさい』と言われた」と語っているからです。



私が知ったのはこれです。

嵐は避けられないものであり、状況が自分の手に負えない時でも、イエス様の中にある本当の義と信仰を理解しているなら、いつも平安と喜びの中を歩める、と。


辞書は信仰をこのように説明しています。「人、あるいはものにたいする完全な信頼、もしくは確信」


私達は、「自分は、全ての事の中で、神様に信頼しきっているだろうか?」と自分自身に尋ねてみる必要があります。


私は、自分は人生が順調な時は主を信頼していることを知っています。それとも、実のところ自分に信頼しているのかも?


神様に完全に信頼するということは、絶好調の時も、そうでない時も神様に従って歩むことです。


神の国とその義をまず第一に求めてください。そうすれば、平安と喜びがあなたの忠実な友となります。



弟子達と舟に乗っていた時イエス様は、あの男性の霊に、平安を宣言されていたのです。


ヨハネ14:27で次のように語れた時、イエス様は再び、この事を明確にされました。

「わたしは、あなたがたに平安を残します

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」



恐れにたいする私達の反応は変わる必要があります。そしてその変化が自由をもたらすのです。


私達は、私達を取り巻く環境や状況に関係なく、日々、平安の中を歩むようにと召された者達です。


平安とは感情ではなく、私達の霊が憩うことができるイエス様の中にある場所なのです。



今日、もしあなたが嵐の中を通っているなら、立ち上がって、あなたと共に嵐の中を歩んでくださっているイエス様を見てください。神様の真理とみ言葉を語り、宣言してください。「平安あれ!静まれ!」



キリストがあなたに与えてくださった権威が、あなたの人生にある敵の計画を打ち負かすようにし、反対側へと渡っていき、自由の中に入ってください。


反対側に行くために、死ぬのではないかと思うような嵐の中で、そのただ中で礼拝することを学んでください。


イザヤ26:3は語っています。「その思いをあなたに置き続けている者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」



嵐は問題ではありません。嵐は、私達の信仰を掻き立て、応答させ、今だかつてない程の平安と喜びを私達が体験するために、全能の神様にたいする私達の信仰と信頼を活性化するものなのです。


あなたが「墓石」と呼ぶものを、神様は「マイルマーカー(アメリカのハイウェイで場所を示す数字。1マイルごとに置かれ、その都度に数字が大きくなっていく)」と呼ばれています。


人生は、神様との大冒険です。その旅を受け入れましょう!



確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

(使徒17章27-28節)


カレン・シャッツライン
世界中を駆け巡る伝道者であり作家。
夫パットと共に1997年、Remnant Ministries Internationalを創設。
熱い情熱と炎を持ってミニストリーをしている。彼女のメッセージはいつも希望と解放を解き放ち、御父との親密さの中に入るようにと人々に呼びかける。


Reprinted with permission from Charisma

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あなたは、イエス様を信じ救われていますか?
イエス様を信じることは難しいことではありません!
今日、イエス様を信じてください。


イエス様は私達を決して見捨てることはありません。
私達が心から祈り求める時、答えてくださるお方であり、すべての必要を満たしてくださいます。

またイエス様を信じたいけど、なかなか信じられない方は、『イエス様、あなたが神様であるなら私に示してください。』と心から祈ってみてください。



「この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1章12節)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)




「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
聖書はこう言っています。『彼(イエス・キリスト)に信頼する者は、失望させられることがない。』」(ローマ10章9-11節)


「わたし(イエス・キリスト)が道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14章16節)


「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4章12節)


「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2章8−9節)


「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
(Ⅱコリント6章2節)


「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43章4節)