聖さと律法主義


マイケル・ブラウン

聖さは美しく、律法主義は人を縛ります。
聖さは命をもたらしますが、律法主義は死をもたらします。
これらは完全に異なりますが、一見したところ似ているのです。
というのも、どちらも罪深い言動に反対していて、聖い生き方をするようにと呼びかけているからです。
ではどのようにして、私達はこの2つを見分けることができるのでしょうか?


律法主義とは、関係を欠いた規則であり、救い主より基準を、愛より律法を強調します。
それは、恐れに基づいた制度であり、喜びのない批判的な態度という特徴があり、自由のかわりに虚しさを生み出すのです。


救われていない人に、「あなたは悪い罪人だ。もし主に受け入れていただきたいなら、全ての汚れた習慣を捨て去る必要がある。」と言って、律法主義者は行いによって義とされる事を宣べ伝えます。


そこには、恵みがありません。
イエス様の血潮の人生を変え、罪を清める力が高められていません。
また、神様の憐れみがはっきりと宣べ伝えられていません。


十字架を通して現わされた神様の愛の宣言がハッキリとは聞こえない、ひどいと全く聞こえてきません。
それ故に、新生の証拠はもっぱら、「その人がもはやしなくなった事」の中にあると考えられています。
そしてこれが、教会内の信者達にたいする指針となり続けています。
彼らはもっぱら、幾つかのうわべの「規準(それらは多くの場合、聖書の中では明記されていません。)」によって裁かれています。
そして彼らは、所属しているグループの行動規範に服従しているか監視されているのです。


その結果は、内側の変革ではなく、外面的な服従です。つまり、独善か自己非難(あるいは両方!)です。


もちろん、神様は非常に高い基準をお持ちです。それは100%真実です。
聖書を本気で読めば、神様が私達に、考え、言葉、行い、態度、性、家族、人間関係、その他数多くのことの中で高い基準によって生きるように呼んでおられるのが疑いもなくはっきりと分かります。(エペソ5:1-6参照)


悲惨な事に、律法主義者達-彼らの意図は良いものですが-物事をとんでもなく間違えてしまっているのです。


まず、彼らは人々を外側から内側へと変えようとします。
しかし、神様は私達の内側から外側へと扱われます。


次に、彼らは私達の主のバランスのとれた全体像を示すことができていません。
主の憐れみを語ることがあまりにも少なく、逆に御怒りをあまりにも強調し過ぎているのです。


三番目に、彼らはもがき苦しんでいる罪人(あるいは信者)に罪に打ち勝つために主が与えてくださる超自然的な力を示さず、聖さを人間の努力によってのみ成し遂げるものとしてしまっています。


最後に、彼らは聖書の中にない律法、基準、命令、慣習、しきたりを付け加え、それらのものを聖書の命令よりはるかに重要なものとしてしまっているのです。


対照的に、聖書が語っている真の聖さは心から始まり、神様と神様のことばとの出会いから流れていきます。


それは、救いという主の寛大な申し出への応答として、悔い改めを呼び掛けています。
そしてそれは、聖なる者となるための方法-イエス様の血潮と神の御霊-を与えて下さっています。
聖書が語っている聖さは、鍛錬と忍耐が必要とされますが、ただです。


律法主義者には、ただというものが全くありません。
全て、自分の努力によって獲得する必要があるのです!
ですから、律法主義は束縛に至り、聖さは自由へと至るのです。

ラルフ・カッドワースが何年も前に説明している通りです。

「私は聖さを、単なる宗教の表面的な義務を任務として淡々と実行することだとは言っていない。
また私達の習慣的な祈り、神の声を聞くこと、断食、そしてそれらの掛け合わせでもない(確かにこれらは、より崇高な目的に従属するものとしてであるなら全て良いものであるが)。
私が言っている聖さとは、内側の魂のことであり、これら全てに生気を与える神の命(ローマ8:1-5)の原理の事だ。」


深めていく必要があるのは、内側の霊的原理です。
イエス様との親密さの原理。
神様のみことばと御霊によって私達の思いが新たにされるという原理。
神様の似姿とご性質に合わせられていき、神様が憎まれるものを憎み、神様が愛するものを愛する原理です。


ケント・ヒューズ博士が著書「Discipline of a Godly Man」で説明している通りです。

「律法主義と鍛錬。この両者の背後にある動機には天と地ほどの差がある。
律法主義は言う『神から報酬を得るために、私はこれをする』。
一方で鍛錬はこう言う。『神様を愛していて、神様を喜ばせたいから、私はこれをする』。
律法主義は人間中心であり、鍛錬は神様中心である。」


残念なことに、あなたが聖書的聖さを語る瞬間、多くのクリスチャンは耳を塞いで「それは律法主義だ!
それは人を罪に定めるものだ!
それは人が作り上げた宗教だ!
それはすでに無効となった律法だ!
あなたは私を束縛することはできない!
私はそんなものに耳を貸すつもりはない!」と言います。


ロバート・ブリンズミードが述べた通りです。
「聖書が語っている事にきちんと従って生きるという考え方が律法主義の烙印を押されてしまっている。」


ですから、これらのクリスチャン達は律法主義の危険な手中から逃げて、自分の肉欲を十字架に釘付けにするかわりに、肉欲を満たす、自分を欺く肉的自由の状態という放縦の致命的な支配に陥ってしまうのです。
なんという恐ろしい間違いでしょうか!


これらの「自由にされた」信者達のところに必然的に来るものは何であれ普通のものとして受け入れられています(そしてもちろん主から「理解」されているのです)。
しかしその間に、聖書の命令が彼ら自身の経験レベルまで引き落とされてしまっていて、彼らにいかなる霊的プレッシャーを与えるものは何であれ、それはイエス様の負いやすい軛、軽い荷ではないからという理由で拒絶されてしまっているのです。
そして聖霊様がこのような人々に罪を指摘する時、彼らは「これは自分を罪に定めようとしているものだ」と言って悪魔を叱りつけるのです。


オズワルド・チェンバーズの言葉を引用します。
「自由とは律法を犯さない能力を意味する。
放縦とは自分がやりたいことをする事への個人的なこだわりを意味する。
・・・律法から自由になるとは、私が生きた神の律法であるということだ。
そこには私が考え出す神というものは存在しない。
放縦は全ての律法に対する反逆だ。
もし私の心が神の愛の中心となっていないなら、もしかすると極悪非道な放縦の中心となっているのかもしれまい。」


それではどうすれば良いのでしょうか?
律法主義から逃げ、放縦から遠ざかり、聖さに向かって走るのです。

人間が生み出した見せかけの宗教を拒絶してください。

肉欲を正当化する偽りの教えが入り込む隙を与えてはなりません。

むしろ、新しい契約と心の変革を抱き、御霊の力と神の恵みによって超自然的に力づけられて、あなたの人生にある罪を情け容赦なく取り扱ってください。
それこそが自由に至る道なのです。

(「GO and Sin No More: A Call to Holiness(行きなさい。もう罪を犯してはなりません:聖さへの招き)」より抜粋

マイケル・ブラウン
メシアニックジュー。ラジオ司会者。30冊以上の著書を持つ。
1976年に同じくメシアニックジューである、ナンシー夫人と結婚。2人の娘と4人の孫がいる。

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