お酒を飲むことは罪ではないかもしれないが・・・しかし
(Getty Images/ISTOCK - Lightfield Studios)

ロン・プラット

少しでも教会にいるならば、クリスチャン達が自分達の飲酒を正当化するためにイエス様を出しているのを見たことがあるはずです。

私は多くの人が「イエス様は水をワインに変えた」
「もしイエス様が今日、この地上を歩かれていたら、バーに出入りし、そこにいる人達のためにミニストリーされるはずだ」と言うのを耳にしてきました。
これらはよく耳にする言葉ですが、私はまだ一度も、私達のメシアが地元の居酒屋にいたことがあると明確に語っている聖書の参考文献を目にしたことがありません。
それどころか、イエス様は私達に聖い人生の模範を示してくださいました。

人々はいつも、自分が手放したくないものを正当化するために、イエス様に責任を負わせようとします。
デイビッド・ウィルカーソンが著書「Sipping Saints(飲酒する聖徒達)」で語っている通りです。
「私達の罪なき大祭司は収税吏や罪人達と食事を共にし、純水なぶどうジュースを飲まれた。しかし、あざける者達とは一度も席に着かれなかったし、『赤くかみつくもの』が入った杯には触れなかった。」

父なる神様は、ご自分に似せて造られた者達に思考を備えるという素晴らしい仕事をされました。
私達は、何であれ自分がどうしてもやりたい事、持ちたいもの、経験したいことを正当化する能力を生まれつき持っています。
あまりにも頻繁に、私達は自分がやりたいように生きているのです。
「クリスチャン」という称号が、自分自身を喜ばすためにする選択に影響を及ぼすことはほぼありません。
私達の多くが、人々が見ていることにほとんど気がつきていないのです。
あまりにも安易に、「人々のために私が変わる必要はない。私の生き方を好まないなら、それは彼らの問題でしょ」と言ってしまっています。

あなたの頭に血が上る前に、この事をはっきりとさせておきます。
お酒を飲むことは罪ではありません。
また地獄への片道切符を保証するものでもありません。
しかし私達はへブル12:1を覚えておくべきです。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」


ここで語られている重荷は、私達の足を引っ張り、私達が競争に勝てないようにとするのです。
私達は、容易に私達を身動きできなくさせるものをしっかりと見きわめることができる最適な裁判官ではありません。

しばしば、罠にかかっている時というのは、その罠の現実の姿を見ることができないのです。
これが偽りのわなの仕組みです。
それを認識するためには助けが必要です。
だからこそ、しばしば聖霊様は私達の人生にある暗い領域に光を照らすために人々を送られるのです。
その人達は、私達の目が徐々に暗闇に慣れてしまって暗闇ではないと思っている場所が実は暗闇であることを私達に気づかせてくれます。

長年にわたって、多くの人が自分の飲酒は「大した事ではない」と思っていると私に言ってきました。
しかしいつの間にか、彼らは深入りしてしまい、中毒に飲み込まれてしまったのです。
妥協は私達に、かつては危険を遠ざけていた防護柵を片っ端から取り除くようにとさせてきます。
大抵、それは私達が気付かないうちに起こるのです。


律法主義ではなく愛

今日、「恵み」はクリスチャンの間でも最も誤解されています。
キリストの体のあまりにも多くが、滅びていく魂に十分な恵みを示していません。
しかし、「恵み」は、個人のライフスタイルや嗜好を正当化する言い訳の手段としてクリスチャン達に用いられています。
恵みはしばしば、神様の完全なみ言葉に自分自身を合わせるかわりに、自分の個人的な信条を実行するための新たに手にした「自由」への扉を開く鍵と見なされているのです。

「律法主義」は、都合の良いキャッチフレーズになってしまいました。
クリスチャンだと言っている多くの人達が、自分が自由にし、見、楽しみたい何かを守るために、「律法主義」という言葉を使うのです。
悲しいことに、正しい事をしない言い訳として、しばしばこの札が使われてしまっています。
子供たちの弟子訓練が欠如している事、キリストの体全体でアカウンタビリティーが欠如していること-そうです、とりわけ大人の中でです-からそれは明らかです。

ほとんどの宗教は制約の多いガイドラインに基づいています。
そしてそのガイドラインによって、信者を束縛し続け、良い評価を保つために難しい命令に従順に従わせ続けるのです。
しかしキリスト教は今も、そして昔も律法主義に基づていません。

神様に仕えることがただルールを守るだけなら、関係が欠如しています。
神様はアダムとエバとの親しい関係を楽しんでおられ、アダムから生まれる者全員と関係を築きたいと願っておられました。
罪はその関係を破壊し、人を神様から引き離してしまったのです。
それ以来、父なる神様は私達を「園へと戻したい」と願ってこられました。
そのためにこそ、神様は御子イエス様を与えてくださったのです。
伝道はそれくらい単純なのです。
人々を園にあった父なる神様との親しい関係に連れ戻すこと。それなのです。

私達が神様の救いという素晴らしい贈り物を受け入れる時、私達は自分の嗜好を守ったり、内側にある本当の問題から注意をそらすために「律法主義」カードを引っ張り出さなくてもよくなるのです。
私達クリスチャンが本当にイエス様との関係があるなら、ありとあらゆる方法でイエス様に愛を示したいと願います。

イエス様と生きることは自由をもたらします。恐れに基づいた宗教からの自由、束縛からの自由、自分の利己的な欲求からの自由、そして本来の自分になっていくための自由です。
悲しいことに一部のクリスチャン達は、罪からの自由ではなく、罪への自由として、イエス様が惜しみなく注いでくださった恵みを用いています。

キリストが私達のために勝ち取ってくださった自由は境界線がないものではありません。
パウロが説明している通りなのです。
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)

ヨハネ14:15でイエス様は言われています。
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」


もし私達が本当にイエス様を愛しているなら、その愛のゆえに私達はイエス様が言われることをするのです。
キリストの命令を守ることが重荷ではなく、喜びとなります。
この節で主が語られている事は、イエス様にたいする私達の愛を明確に測るのです。
もし私達がイエス様を愛するなら、イエス様とイエス様の命令に従っている中でそれが表れていきます。
しかし私達クリスチャンは、口では「愛」と言うのですが、私達の行動は愛が欠如していることをはっきりと物語っているのです。

私達が許すなら、愛と恵みとアカウンタビリティーが合い働いて、私達を完全な者へとしていきます。


影響下で

マタイ24:10-13で、イエス様は言われています。
「また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」


ウィルカーソン師はこの事を理解していたのです。
しかし、1978年に著書「Sipping Saints(飲酒する聖徒達)」が発売された時、彼は教会の多くの人達によって迫害されました。

この著書は、妥協で満ちている教会文化にたいする彼の応答だったのです。
この本に書かれているメッセージは、今日にも当てはまります。
ウィルカーソン兄弟は、私達の敵が罠をかけ、その罠を魅力的に見せていることを正しく理解していたのです。

その罠は非常に魅力的で、事実、神の民は初めてイエス様のもとに来た時に解放された罠に再び捕らわれてしまっています。

一部のクリスチャン達が、自分達の愛しているものを攻撃的とも言えるほど必死で守っていることに私は驚いています。
私が言っているのは、伝道やイエス様の命令ではなく、個人的な嗜好や習慣、この世的な欲望のことです。
ご自身で確かめてみてください。
ソーシャルメディアに2,3投稿して、クリスチャン達からどんな反応があるか見てみるのです。

多くの人達は、自分が「これはあまりにも熱心過ぎる(度を超えている)、非現実的な考えだ」と思うものにたいして言葉の争いをしたくてたまらないのです。
お酒についての忠告ほど怒りを引き起こすものはないようです。
より高い基準を語ると、誰かしらの怒りを買うのです。

私は、教会のスタッフを(付き合いでの)飲み会に誘った牧師を思い出します。
誘われたスタッフである若い牧師は、以前、キリスト教信仰に基づいたリハビリプログラムの助けによって、長年のアルコール依存症から解放されていました。
悲しいことに、(付き合いでの)飲み会に新たに足を踏み入れた事によって、彼はかつての依存症に逆戻りしてしまったのです。
ほどなくして、彼はミニストリーと家族を失いました。
しかし問題はそこで終わりませんでした。

その教会は、若い信者達の中にある妥協によって打撃を受けました。
数人の若い人達が古い生活習慣と依存症に逆戻りしてしまった時に、ドミノ効果が浮き彫りになりました。
またその教会のある人達は教会を去り、結局、主からも離れ去ってしまったのです。

元アルコール依存症だった人達のそれぞれのストーリーには全て、1つの共通点があります。
彼らは皆、お酒を飲むときに悪魔の支配あるいは影響と闘ったのです。

しかしなぜイエス様に従う者達は、いかなるものであれ自分を支配する可能性がある「影響を与えるもの」が自分の人生に入ることを許してしまっているのでしょうか?
使徒パウロは、(疑問の余地がある)影響を与えるものについて、立場を明確にしていました。
「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されません。」(Ⅰコリント6:12)


ケニー・ラック牧師はこのように書いています。
「飲酒の目的は、飲酒している人達を支配することです。
人は限界を押し広げるのが大好きで、可能な限り断崖に近づこうとします。
残念ながら、アルコールは境界線を曖昧にし、白黒はっきりした問題をかすんだグレーに変えてしまうのです。
そのようなグレー状態の時に、私達は他の「霊」の支配下で考え、言葉を発し、行動しうるのです。
聖書は、私達が自分の体と思いと魂を神様以外のものに決して明け渡すことがないように、「自制心」を保ち、酒に酔ってはならないと明確に語っています。
私達のほとんが、支配を放棄した後に目覚めた体験があります。そしてそれは決して心地よいものではありません。ですから、私達は断崖から離れることを選びとり、賢くなる必要があるのです。」

聖書そのものは、この問題をはっきりとさせています。
箴言20:1は「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。」と言っています。
そしてエペソ5:18でパウロはこのように書いています。
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」


模範を示して導く

イエス様の命令によるなら、クリスチャンは導くようにと召されています。
全ての人が教会やミニストリーを導くために選ばれてはいませんが、しかし私達一人一人は人々を、特に滅びていく人達を導くようにと
召されているのです。
問題は、私達がどのようなリーダーシップを発揮するか?なのです。

箴言31:4-5はこのように助言しています。
「酒を飲むことは王のすることではない。『強い酒はどこだ』とは、君子の言うことではない。酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。」

信仰のリーダー達として、未亡人や孤児達、必要を抱えている人達、とりわけ依存症からの解放を求めて来る人達を助けるというライフスタイルにおいて、私達は強く、聡明で、焦点を合わせた者となるようにと召されています。

マタイ18:5-7でのイエス様のことばははっきりしています。

つまずきは来ますが、私達がつまずきをもたらす者となることが決してないように各自が全力を尽くさなければなりません。

私達リーダー達それぞれが持つ許容範囲が若いクリスチャン達を古い罪の奴隷に再びしてしまうなら、私達は悪魔に用いられる器となってしまうのです。

私は「あなたはお酒を飲むことを選んでいるから救われていない。罪の中で生きている」とクリスチャン達に言う事は絶対にしませんが、このようには言います。

「お酒を飲むことによって、多くの人生に変革や癒しをもたらすために神様に用いられるという大きな機会をあなたは失う危険性があります。」と。

例えば、私はしばしば、アル中からの解放を求めている人達から祈ってほしいと言われます。
この束縛に捕らわれている人達が「この先生はお酒を多少なりにも飲んでいるな」と思ったら、祈りを求めて私のところに来ると思いますか?

私は思いません。
私が付き合いで、もしくは本当にたまにしか飲まなかったとしても、彼らにとっては飲酒は飲酒なのです。
私の飲酒の程度は重要ではありません。なぜなら、解放を求めているほとんどの人が、最初は付き合いで、そして適度に飲んでいたからです。

イエス様が、預言者イザヤの書を読むために会堂で立ち上がられた時、ここで語られている命令はご自身にたいしてだけではなく、ご自身に従ってくる全ての人達にたいするものであることも知っておられたのです。
私達も信じる者達として、「捕らわれ人に解放を告げる」(ルカ4:18)ようにと命じられています。
私達が捕らわれている人達と同じ霊によって縛られているなら、このような公かつ個人的な布告はほとんど力がありません。

妥協が私達を神様の律法にたいして無感覚な者とすることを私達が許すなら、それは私達の愛を痛ましいほどに冷たくする「危険な道」なのです。
私達人間は、「自分の人生は全て自分がコントロールすることができる(そしてすべきである)」という生まれ持った信念があります。
私達がイエス様に主となってくださるようにと求める時、これは問題となるのです。
自分の自由を守り、運転席に居つづけたいという根本的な願いは、自分を主とすることを選ぶことであり、私達がイエス様が必要だと思う時にイエス様が飛び乗ってくださることを期待していることなのです。

私達が裁きを恐れているなら、自分は一体何を隠そうとしているのか自分自身に問う必要があります。
公正な裁判官の前に立っている無実の人は恐れることがありません。
それどころか、真実を明らかにし、自分の潔白を証明しようと熱心です。
私達の裁判官は正しいお方なので、私達が罪ある時であっても真実を明らかにすることは私達にとって有利なのです。
私達は自分の間違いを受け入れ、認める必要があります。

主がどのような手段方法を選ばれるのであれ従う用意ができていないなら、私達は主に「導いてください」と求めるのをやめるべきです。
「私の人生の主になってください」と私達が祈る時、私達は自分の過去、現在、未来にたいする全主権を主に与えていないのではありませんか?
もしそうであるならば、私達は腕を広げて、主の、命を救い、素晴らしい将来を与える懲らしめ、導き、裁きを受ける必要があります。


ロン・プラット
アラスカ州の滅びていく人達に伝道し、福音を伝えるために訓練し、遣わすThis Generation Ministriesの創設者であり代表。

Reprinted with permission from Charisma
Copyright Charisma Media, USA. All rights reserved. www.charismamag.com.