「あの人はあんなに素晴らしい働きをしているのに、自分の働きはこんなにちっぽけ。自分は一体、何をやっているんだろう?」
「神様に仕えたいと思っているのに、こんなに小さな働きしかしていない」
「あの先生は、大きく用いられている。だから神様に沢山愛されているに違いない。」
神様に大きく用いられている人を見ると、こう思ってしまう人も少なくはない筈です。
でも本当にそうでしょうか?
本当にあなたの働きは小さいのでしょうか?
神様に大きく用いられている=神様に沢山愛されている。ことなのでしょうか?
そもそも誰が、あなたの働きは「ちっぽけで、大したことがない。」と決めたのでしょうか?
私達が願おうと願わなかろうと、私達はこの世の在り方、この世の価値観に影響されています。
「自分はこの世の影響は受けてない!」と強く否定したとしても、「数や大きさ」に目が行っている時点で残念ながら影響を多少なりとも受けています。
この世の価値観で縛られていると「どれだけ大きな働きをしているか。」に注目してしまうんです。
でも、イエス様は私達の「心」を見られるお方です。
イエス様は、あなたがどれほど大きな働きをしているかに関心があるのではありません。
イエス様はあなたの働きの大きさを喜ばれるのではなく、あなたの「イエス様に仕えていきたい!」というその心を喜んでくださるのです。
(ここで勘違いしないでいただきたいのですが、大きな働きをすることは全然悪いことではありません。神様に大きく用いられることは素晴らしいことです。)
これは信徒にも牧師にも当てはまることなのですが、マザー・テレサやハイディー・ベイカー、その他偉人と言われている人達、また神様によって大きな働きをしている人達と自分を比べる必要はありません。
その人達が他の人達よりも優っているのではなく、ひとりひとり神様から与えられた使命が違うだけです。
私達はこの地上での人生において、神様によって人々から注目される場所に置かれる時もありますが、逆に人々から注目されない場所に置かれる時もあります。
喜びに満ちたクリスチャン人生を生きていきたいなら、「人々から注目されたり、大きな働きをなすようになったら自分は完全な者になる。心が満たされる。」という考えを今すぐ捨てる必要があります。
なぜなら・・・皆さん、覚悟して聞いてくださいね。これはある意味で悪いニュースですよ。
なぜなら、この地上の人生においては、人々から注目されない場所に置かれる時の方が圧倒的に多いからです!
それにイエス様さえ、33年というこの地上での生涯で大きな働きをなされたのは3年間だけでした。
私達が「大きな働きをすること」に価値観を置くなら、惨めな人生になります。
イエス様に仕えるどころか、「なぜイエス様、あなたは私を大きく用いてくださらないんですか?あの人よりも私の方が霊的にずっと優れている。だから私の方が大きな働きをする資格があります!」とイエス様に不平不満を言い、絶えず自分と人を比べる喜びの無い人生に。
イエス様は一回も「わたしは、あなたの働きの大きさに関心を持っている。」とは言われませんでした。
イエス様が願っておられるのは、私達がイエス様に信頼して、一歩一歩忠実にイエス様に従っていくことです。
世界最大の日曜学校を導いているビル・ウィルソン先生の著書「この子だれの子」(いのちのことば社)の中で、読む度に涙が出て来る話しがあります。
ある時、ビル先生の教会の大人礼拝で英語のできないプエルトリコの女性がイエス様を信じ救われ、礼拝後、この女性がビル先生の所にやって来て、通訳を介して「神様のために何かがしたいです。」と言いました。
英語ができない彼女を見て、ビル先生は「たくさんのバスがありますから(ビル先生の教会では、バスで子ども達の家を回って、礼拝に毎週連れて来る)、毎週、違うバスに乗って、子ども達を愛してあげてください。」と答えました。
彼女は、バスに乗る前に、「I love you」と「Jesus loves you(イエス様はあなたを愛しているのよ)」という言葉を英語で覚え、そして、バスの最前列に座って、一番みすぼらしそうな子を自分のひざに抱き上げて、教会学校に着くまで、また帰りもずっと、「イエス様はあなたの愛しているのよ。」「I love you」と囁き続けたそうです。
それが彼女にできるすべてでした。
ある時から、彼女は、特定のバスに乗るようになりました。
いつも汚れた一言もしゃべらない3歳の男の子に特別に愛情を注ぎたかったからです。
その子は毎週、アパートの前で教会学校のバスが来るのを待っていました。
その子がバスに乗ってくると、彼女は彼を膝に抱き上げて、教会学校に着くまで、また帰りもずっと「イエス様はあなたを愛しているのよ。」「I love you」と囁き続けました。
彼女は何ヵ月も忠実にそれを繰り返したんです。
そんなある日も、教会学校が終わって、彼女がいつものように彼を膝に置き、両腕で抱きしめながら「I love you」「イエス様はあなたを愛しているのよ」と言い続けていました。
ビル先生はこのように書いています。
「バスがアパートの前に止まった時、彼はいつものようにバスを飛び降りることはしませんでした。降りようとした時、彼は後ろを振り向き、そのプエルトリコ人の女性、神様のために何かをしたいと願っている女性の方を見ました。そして、彼女の目の前で、初めて言葉を話そうとしたのです。『ア、ア、アイ、ラララ、ラブ、ユユユーウ、トゥトゥ、トゥー』彼はそう言ってから、いつも自分を愛してくれるその女性を両腕でギュッと抱き締めました。それは土曜日の午後、2時30分のことでした。そして、その同じ日の夕方、この子の死体が、アパートの非常階段の下のごみ袋の中から発見されたのです。私達の働き人が、壁を打ち破り、彼の人生に触れたと思った瞬間、まさにその日の夕方、母親が彼を殺してしまったのです。母親は彼を殴って殺し、死体をごみ袋に入れて捨てたのでした。・・・英語をしゃべれなかったあの女性のおかげで、1人の小さな少年が、今、天国にいるのだと私は信じています。」(『この子だれの子』ビル・ウィルソン著より)
またアメリカで活躍した大伝道者チャールズ・フィニー。彼の働きによって多くの人が救われましたが、その背後にはダニエル・ナッシュという男性の熱心なとりなしの祈りがありました。
ナッシュは牧師をしていたのですが、教会役員によって牧師を首になった人です。
牧師をやめた彼は、チャールズ・フィニーの伝道集会のために祈りに専心することを決めました。
フィニーが伝道集会をする町に、数週間前から入り、その町の幾人かのクリスチャンと人々が救われるようにととりなしの祈りをささげたそうです。
ある時には宿屋に泊っても、3日間一切食事を取らずに、顔を床につけてうめき声をあげ祈ったので、宿屋のおかみを怖がらせたこともあったそうです。
しかし伝道集会で聖霊様が人々の心を溶かしてくださるようにというナッシュの必死のとりなしの祈りがあったからこそ、多くの人が救われました。
やがて、ナッシュが天に召されると、チャールズ・フィニーは巡回伝道をやめて、教会の牧師になりました。ナッシュのとりなしの祈りがあってこそ伝道集会ができると分かっていたからです。
あのプエルトリコの女性もダニエル・ナッシュの働きも、多くの場合、人から見向きも評価もされない働きかもしれません。
しかし、神様の目から見た時、それはもの凄い価値のある尊い働きです。
2人とも神様に任されたことを従順にそして忠実に果たしました。
やがて私達が神様の御座の前に立つ時、主が評価されるのは、「私達が神様にどれだけ従順であったか」なのです。
どれだけ大きな働きをなしたかではありません。
私達がイエス様を心から愛し、イエス様がしてほしいと願っておられること、イエス様に任されたことを私達が喜んですること。
それこそ主が願っているものであり、喜んでくださるものであり、また評価してくださるものなのです。
今、主があなたに願われていることは何でしょうか?
主があなたの人生に置かれた両親や兄弟、友達の話しに耳を傾けて、ただ愛すること。
子どもの面倒を見、育てていくこと。
置かれた職場で一生懸命に仕事をすること。
誰かのために祈ることかもしれないし、あるいは誰かに笑顔で接すること。
人からのけ者にされている人のところに行って、その人の友となること。
人々にイエス様を伝えていくこと。宣教師や牧師になること。
もしくは、沢山の教会員を愛し、導いていくこと。国中、世界中を駆け巡って、伝道することかもしれません。
今、主があなたに願っておられることが大したことがないように見えようと、偉大なことに見えようと、大切なのは主があなたに願われたこと、任されたことを忠実に行っていくこと、そして神様を心から愛し、目の前の人に愛を注いでいくことなのです。
最後に
このブログを読んでおられる方の中には、イエス様を信じてはいるけれどもまだイエス様の愛が良く分からない。という方もおられるかもしれません。
その方はまず神様に「私にはあなたの愛が分かりません!教えてください。あなたの愛を体験させてください!」と正直に求めてください。
なぜなら神様の愛が分からない状態で「イエス様に仕えよう」とするなら、遅かれ早かれ燃え尽きてしまうからです。
実際、私がそうでした。
まず、何もできなかったとしても、あなたの想像をはるかに超えた大きな愛で神様があなたを愛してくださっていることを知ってください。
私達が神様の愛を知って、置かれた場所で喜んで忠実に神様に仕えていくことができますように!
そしてやがて神様の御座の前に立つ時、「良くやった。良い忠実なしもべよ」と言われる者達でありますように!
「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。 』」(第1サムエル15:22)
「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」 (第一サムエル記16章7節)
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