外見が全てではない



リサ・ビビア


「外見はあてにならないことがある」という格言があります。
本当にそうです。外見は、私達の心の性質を正確に測ることはできません。時に、外見と中身が矛盾することもあるのです。
しかしそれでもなお、私達は、目で見るものから強い影響を受けることに変わりはありません。


聖霊様によってのみ、私達は目に見えるものに左右されることなく、内側にあるものに気付くことができるのです。
聖書が言っているように、人はうわべを見ますが、主は心を見られます(Ⅰサムエル16:7)。


私は、人からうわべによって判断されるという痛みを、幼い頃に知りました。
5歳の時に、私は癌で右目を失いました。手術を受ける前は、両親が私を連れて行く所どこででも、人々は立ち止まって「なんて可愛い女の子なの!きれいな目ね!」と言ってきました。


そのようなほめ言葉は、幼い頃の私にとって不愉快でした。それに、皆、私のことを見ているのに、私ではなく両親に私のことをほめるので、まったく訳が分からなかったのです。母か父が、私の代わりにほめ言葉を聞いている間、私はただじっと立っていました。そしてその後に、両親のどちらかが必ず「何て言うの?」と促して来るのです。


下を向いたまま、もしくは横を見ながら「ありがとうございます」ともごもごと言っていました。


可愛いと言われたからといって嬉しくもなんともありませんでした。というより、私にとって、可愛いと言われるのは、ほぼ侮辱でした。
「凄い!木登りが上手ね!」とか「魚のように泳ぐのね!」と言われたかったのです。


それが私でした。「可愛い」は女の子ぽっくて嫌でした。自分はおてんば娘だと思っていたんです!


手術で右目を取ってから、人々からほめられるという事はほとんどなくなりました。むしろ、皆、妙な顔つきをするのです。


私のことを遠くから見(それでもかなり近かったのですが)、声を潜めて、母に「リサは元気?」と聞くのです。


「元気よ。目で判断しないで!私は弱くないのよ。変わってないわ!」と叫びたかった。


右目を取り除く手術をしたのは学校に入学てからでした。学校の子達は、私のことを「1つ目」とか「シクロプス」と呼んでからかってきました。幾日も、道路の反対側で同級生達が意地悪い言葉を言ってくる中、学校から家までの2マイルを走って帰りました。


聞こえないふりをして、家に着くまで泣くのを必死でこらえていました。母は私を抱きしめて、この年頃の子達は残酷なの、大きくなったらましになるからと言い聞かせてくれました。


5歳でありながら、人が思っている自分と本当の自分は違うことを理解していました。外見によって判断できるという考えに必死で戦いました。けれども、後に、私自身がこの浅はかな基準を受け入れていたのです。


子どもの時には、文化の影響をすぐに受けることはありません。これらの影響力が私達の心という金属を形成するのには時間がかかるのです。しかしひとたび、金属が鋳造されるなら、自分や人をひっきりなしに測る、固い、柔軟性のない基準となってしまいます。


少女が大人になりたがるのに時間はかかりません。彼女達は、お化粧やジュエリーで自分を飾るのを心待ちにしています。着せ替えごっこをしたり、一番可愛い時にお化粧をするのです。


ティーンになるやいなや、それまでは遊びでしかしていなかったものを、毎日するようになります。
すっぴんだと自分は可愛くないと思い始め、それまでは特別な時だけだったのが、毎日の儀式となるのです。
大人っぽい恰好、振る舞いをしたくなります。


それから、恐ろしい事が起こります。ようやく憧れの年になりました。ところが今度は、年を取ることを心配しだすのです。
16歳から26歳までが一番綺麗な年齢なら、この長い人生で見るとほんの一瞬ってことになります。
若い女性が30歳になると、もはや年より上に見られたいとは思わなくなるのです。年より若く見られたいんです!


これは女性にとって何の得にもならない状況です。男性は、女性ほど自分の年齢を気にすることがありません。


彼らの成熟過程は、女性に比べると普通です。彼らは成長して、自立したいと思っていますが、大人っぽく見られたいと慌てふためくことはありません!


一部の女性達は年齢をごまかしたり、ありとあらゆる努力をして実際年齢よりも若くみせようとします。自分の本当の年齢に満足することができず、若く賢く見られたいと思っているのです。


しかし、多くの場合、若さと知恵は相伴わいものです。知恵は、時間と従順さと真理を適用することによってやって来ます。
これらの洞察力の重要性に気がつく年になるまでは、得ることができないのがほとんどです。


価値ある飾り


若い女性達は、自分の顔や体型により頼み、一方で朽ちることのない価値あるものに関心を払わないという過ちを犯しています。
私達は皆、Ⅰペテロ3:3-4のみ言葉を知っています。
あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。


神様は私達に、単なる外面的なものだけを飾りとしないようにと戒めています。だからといって、着飾ってはいけないと言っているわけではありませんよ。神様は、髪を手入れせず、ジュエリーを一切つけず、ぼろぼろの服を着ることを推奨しているのではありません。


しかし、私達の飾りは外側のものではなく、心の中の隠れた人柄であるべきだと強調しているのです。神様は、私達に、ご自身の朽ちることのない内に秘めた穏やかな美しさで心を飾って欲しいと願われています。それは年を取っていくことも、盗まれることも、白髪になることもありません。


神様は一時的なものではなく、永遠に残るものに目を留められます。だからこそ神様は私達にご自身秘伝の美のレシピを与えられるのです。その美とは細部に渡る美しさであり、神様のためのものです。


世の中の人達は、あなたの最新のデザイナーズブランドや髪の色、ジュエリーよりも、あなたが内なる平安と安息を持つときに「ハッ」とするのです。この世の人達は、世の中の外見的なものは全て持っています。彼らにないのは、平安です。
「これこそ、神の御前に価値あるものです。」(Ⅰペテロ3:4)


この世の人達は、何が価値あるものなのかが分かっていません。混乱しています。彼らは心の虚しさを隠すためにおしゃれをしますが、私達は神様に喜ばれるために心を清くします。
私達が輝く時に、彼らは隠れているのです。


残念なことに、私達もこの世のマーケティングの幻想に影響され、心の中の隠れた人がらを隠し、外見を着飾ってきました。


外見によって判断するがゆえに、多くの場合、私達は謝った判断をしてしまうのです。装飾品とは、中に人工果実が入った美しいガラスボールに似ています。精巧に造られた、カットクリスタルなのですが、その美しさの中にあるのは、味のない人工果実です。
中のフルーツは、ガラスボールの美しさによって一見魅力的に見えるのですが、手に取ってみるやいなや、何の価値もないものであることがわかるのです。


どこかのパントリーには、本物の食材が入ったぼろぼろの木箱があります。それは美しくはありませんが、美味しくて、新鮮で、命を与える食材が入っています。お腹が空いているなら-真理に、本物に飢え渇いているなら-、人工果実で一杯のカットクリスタルボールの美しさには目をとめずに、有用で実り多い木箱に向かうはずです。


神様は、フルーツボールではなく、実で私達を判断されます。神様は、私達の心の飾りが、新鮮で有用なものであることを望んでおられます。冷たく、美しいけど人工的なものではありません。


他の人達を外見によって判断するのはやめましょう。心の美しさに磨きをかけ、外見の美しさを重要視しているこの世の中で輝くだけではなく、神様の心をひきつけようではありませんか。


リサ・ビーバー
ベストセラー作家。女性カンファレンスなどで講師を務める。
ジョン・ビビア師の妻。

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