イエス様が愛されたように互いに愛し合う
マイケル・ブラウン
何度もみことばを読んできて記憶しているので、すぐに引用することができるのですが、前回読んだとき、葛藤を覚えました。どうしてこんなにも急激に私達はしるしを見失ってしまうのでしょうか?どうして私達の主にとって重要な事を、私達は重要視しないのでしょうか?
本題に入る前に、皆さんに伝えたいことがあります。この記事はクリスチャン向けなので、クリスチャンではない方は読んでくださっても結構ですし、読まなくても大丈夫です。しかし、もしあなたがクリスチャンであるなら、じっくりと読んでください。
いやむしろ、時々読むのを止めて、祈り、それからまた読んでください。この記事を通して神様があなたに語ってくださるかもしれません。
イエス様は裏切られる夜、弟子達にこう言われました。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)
なんと衝撃的で強烈なことばでしょうか。この世の人達は、私達が互いに愛し合うことによって、私達がイエス様に献身的に従う者達であることを知る。しかも、その愛は、イエス様が私達に抱いている愛に匹敵するものでなければならないとは。
私達は、この点で惨めにも失敗しています。
愛し合うことによってではなく、私達はけなし合ったり、噂話をし合ったり、きつい言葉を言ったり、卑劣なコメントを書いたり、肉的で未熟な態度をすることによって知られています。本物の深い、キリストのような愛というしるしがついていないなら、この世の人達はどうやって私達がイエス様の弟子であると知ることが出来るのでしょうか?家族のような愛情を抱いていないなら、どうやって私達が神の家族であると人々は認めることが出来るのでしょうか?
私はしばしば、ソーシャルメディア上での私達クリスチャンのお互いにたいする態度を見て、悲しくなります。私達はあまりにも忍耐に欠けていて、すぐに人を裁くのです。非常に上から目線で、短気で、残酷になり得るのです。この中のどこに、神様の愛があるのでしょうか?
真理を語る時でさえ、多くの場合、私達は愛をもたずに語ります。あたかも誰かの誤りを暴露することの方がその人の魂を回復させることより大切であるかのように、また自分自身の正しさを証明することの方が他の人達が真理の光を見出すのを助けることよりはるかに重要であるかのように。
この互いに愛し合うようにという呼びかけは、新約聖書全体で何度も繰り返されています。
・あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。(Ⅰペテロ1:22)
・何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(Ⅰペテロ4:8)
・光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。(Ⅰヨハネ2:9-10)
・私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3:14-16)
・愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(Ⅰヨハネ4:7-8、11)
私達のことを世の中の人達がしっかりと見ているというのに、私達の互いに対する態度が酷いので、私はしばしば恥ずかしさを覚えます。
毎日、数多くのノンクリスチャンの方達が私のSMSやwebページを訪れて来られますが、彼らの多くがコメント欄を読み、またコメントしてくださいます。この中には、無神論者もいれば、熱心なユダヤ教徒、イスラム教徒、また私のwebページやSMS以外では福音にまったく触れることのない方達もいます。
彼らは、キリストの体にたいしてどのような印象を持つでしょうか?どのような愛を彼らは目にするでしょうか?
彼らは「凄い。このキリストに従う者達は、どうやって互いに愛し合っているんだろう!」と思うでしょうか?
それとも、彼らは頭を振って「一体全体何が、このクリスチャン達をこんなにも意地悪く、また怒らせているんだろう?」と不思議がっているのではないでしょうか?
1971年の大晦日にキリストを信じた時、私はヘロインとLDS常用者でロン毛のヒッピーロックードラマーでした。
それだけではなく、非常に短気で、人を言葉で激しく攻撃していました。
1972年の初め頃に、何かのことで牧師の長女に腹を立てた私は、彼女に怒りをぶちまけました。しかし牧師は、「明日、君と話したいことがある」と電話をかけてきたりすることはせず、むしろ、私のために祈ってくれていたのです。
その晩の水曜礼拝で、牧師はパウロの愛の書、Ⅰコリント13章からメッセージを語ったのですが、その一つ一つの言葉が私の心に深く切り込んできました。牧師が講壇でⅠコリント13章について読みながら、普通ではない優しさでメッセージを語っている時、私は神様に向かって叫びました。「ごめんなさい。俺が間違っていました。悔い改めます。どうか、彼のメッセージを止めてください。これ以上、罪の意識に耐えることができません」
メッセージが終わって(長くはなかったのですが、永遠のような感じがしました)、私がすぐに牧師の所に行き、あんなひどい態度を取ったことを赦してください、と言うと、彼は何も言わずに微笑みました。彼も彼の家族もすでに私のことを赦してくれていたのです。
彼は、私に、パウロの言葉を具体的に行動で示してくださり、このパウロが書いた言葉がそれからずっと私の日々の祈りとなりました。
パウロは書いています。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:4-7)
ご自身の愛する子達が地上で、互いに攻撃し合い、けなし合ったり、残酷な言葉や態度を互いに取り合っているのを見た、私達の天のお父様の気持ちはどのようなものでしょうか?
もう一度尋ねますが、どこに神様の愛がありますか?
神様が、今日、私達の不親切な言葉や行動についてはっきりと指摘してくださり、私達の心を貫いてくださいますように。
神様が、私達を自己義から解放してくださり、私達が他の人達を裁く前にまず自分自身を裁くようになりますように。
神様が、私達の心に、神の民、家族にたいする大きな愛を与えてくださり、私達が何かをしたり、言う時はいつでも、愛が動機となりますように。
私達が互いに愛し合うなら、神様のことをまったく知らないこの世の人達は、「あの人達は本当に、互いに深く愛し合っている。きっと、イエス様を信じているからに違いない。私達もイエス様について探ってみないと。」と、私達が何か違うということに気がつくようになります。
不可能に思えますか?人間にとっては不可能です。でも神様には不可能はありません。
それゆえ私は祈ります。「神様、私達に互いにたいする愛の新鮮なバプテスマを与えてください!」と。
マイケル・ブラウン博士
メシアニックジュー。ラジオ司会者。30冊以上の著書を持つ。
1976年に同じくメシアニックジューである、ナンシー夫人と結婚。2人の娘と4人の孫がいる。
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