妻が夫に対峙すべき時



エディー・ハイアット


最近、ある晩餐会で、非常に正統派の信仰を持ち、ヘブル語が堪能なユダヤ人夫妻の隣に座りました。
事実、成功したビジネスマンになる前は、ジョージはラビになるための訓練を受けていました。お互いのことを知って行くうちに、私はチュマシュ(ユダヤ教の家庭やシナゴーグで広く用いられている、トーラーの注解書)で読んだことについて、彼らに質問してみようと思いました。


創世記2:18の新しい観点


私の質問は、KJVでは「配偶者」、NKJVでは「対等の助け手」と訳されている、創世記2章18節の「エゼル・ネゲド」という言葉に関するものでした。古代と現代のラビ達の注釈が書かれたチュマシュは、「『ネゲド』とは文字通り『立ち向かう』という意味なので、神様は文字通り、男のために、彼に『立ち向かう』助け手を造ろうと言われたのだ。」と言っています。チュマシュの注釈者達は続けてこう言っています。


「理想の結婚は、必ずしも夫婦が全ての面で完全に同意しているわけではないと、多くの人が指摘しています。しばしば、夫と対峙し、彼が軽率な行動をしないように止めたり、質問をしたり、批評したり、議論することによって彼が夫婦共通のゴールを達成することができるように助けるのは妻の責任です。それゆえ、この節の意味は文字通り、夫に対峙することによって妻が最高の助け手となる時があるということです。」(The Chumash, Stone Edition,13)


夫妻はチュマシュに非常に精通していて、このネゲドの意味を支持していました。私は「助け手」と訳されている、最初の言葉「エゼル」には、卑しい服従(男尊女卑みたいな)という含意がないことを知っていました。
この言葉には、「取り囲んで、守る」という意味があり、人間の「助け主」であられる神様について語る時に旧約聖書でよく用いられています。


その後、私は、自分がどのように、異邦人の情報元を使って創世記を独自に研究したかを思い出しました。その中で、ネゲドは「対応する」という意味で、2人の人が顔と顔を合わせて立っている光景を現わしています。
この解釈は、別のユダヤ人の友人と一致しています。私は、その友人と以前、この節に関して議論したのですが、友人は、「ネゲド」は2人の人が「鼻を突き合わせて」立っている光景を含んでいると言っていました。


「エゼル・ネゲド」には、現代、福音派で一般的に教えられている意味を含んでいないことが分かって来ました。創世記2章18節で、神様が創造された「助け手」は、夫に挑戦したり、意見を言うことが一切ない、おとなしくて従順な「そうね、あなた」というタイプではないことが非常にはっきりしてきたのです。神様が造られた助け手は、夫が間違っている時に、夫に対峙する権利と責任を有した強くて、同等の人であるというチュマシュの真理を私は理解し始めました。


興味深いことに、イエス様が結婚と離婚について質問された時、イエス様は人々に、神様が人を創造された時の男女関係にたいする本来の計画とモデルがどのようなものであったかを指摘されました。マタイ19:3-10で記録されている議論の中で、少なくとも2回、イエス様は、彼らが従うべき本来のモデルについて指摘されました。


私はまた、聖書の中の、妻が夫に対峙した良い例と、妻が夫に対峙すべきだったのに怠った結果、起こった悲惨な例を思い出しました。


聖書で妻が夫に対峙する場面


旧約聖書で、サラはアブラハムに対峙し、イサクにたいしてひどい振舞いをするイシュマエルを追い出して欲しいと要求しました。
アブラハムはそうするのを渋っていました。聖書は、サラの要求は、彼にとって「非常に不愉快であった」と語っています。


しかし、神様はサラの味方をし、アブラハムに、「サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」と言われました。(創世記21:12)
誰が誰にたいして権威を持っているかが重要なのではありません。その状況で何が正しいかが重要だったのです。
この場合、偶然にもサラが正しく、彼女が対峙したことによって、アブラハムは神様の御心のど真ん中にいつづけることができたのです。


一方、新約聖書の例は、それとは正反対でした。自分達の土地の売却金と、献金額について教会に偽るという夫の不正な計画に関して、サッピラは夫に「それは間違っている!」と対峙しませんでした。
むしろ、彼女は夫の狡猾な計画に服従し、結果的に2人とも命を落としました。(使徒5:1-11)


アナニヤとサッピラの話しは、「神様はもっぱら代理権を通して働かれるから、例え夫が間違っていたとしても、夫の権威に従うのが妻の務め」という、教会内でもてはやされている教えが間違っていることを示しています。
そうです!
神様はアナニヤとサッピラを同等に見ておられたので、彼らの行動にたいして、それぞれに責任を取らせたのです。


同様に、神様は現代の私達1人1人にも、自分の行動にたいする責任を持たせています。パウロがⅡコリント5:10で語っている通りです。
「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」


チャールズ・フィニーは、妻が夫に対峙するように勧めていた


アップステート・ニューヨークで行われた力強いリバイバルの最中に、1人の女性がチャーズル・フィニー(1792-1873)のもとにやって来て、リバイバル集会に参加してはいけないと命令してきた未信者の夫に何と言えばいいですか、とアドバイスを求めて来ました。
フィニーの答えは、現代の福音派の中で非常に広く行き渡った、男性の指導的地位に関する極端な教えが、実は昔からあるものではなく、新しいものであることを示しています。


フィニーは言いました。
「私は、彼女に、彼女が最初に従わなければいけないのは神様であると伝えました。ですから、たとえ夫の命令に反したとしても、彼女は、神様の命令に従う義務があることは明らかでした。・・・夫の要求に従うために、神様にたいする彼女の義務を怠ることはできません。私は、彼女に、『あなたの夫は不信者なので、神様の事に関しては彼の意見を尊重すべきではない』と言いました。」


フィニーは、この女性が彼のアドバイスに従って、夫の命令を無視し、リバイバル集会に来たと語っています。
彼女が帰宅すると、夫は怒り狂っていて、家にあったほとんどの家具を壊してました。


妻を見た夫は、大きなナイフを取り出して来て、「お前を絶対に殺してやる」と誓ったのです。それから、彼は声の限り叫びながら、家中、妻を追いかけまわしました。ついに、3階で逃げ場所がない所に妻を追い詰め、ナイフを掲げて怒り狂いながら、妻に近づきました。


この時点で、妻はひざまずき、手を天に上げて、自分自身と夫のために憐れみを求めて、神様に叫んでいました。
突然、神の御霊が夫を「捕え」、圧倒しました。彼は、床に倒れて、むせび泣きながら神様と妻に心を注ぎ出し、憐れみと赦しを乞いました。


フィニーは語っています。その時から、「彼は、素晴らしく変えられた男性となり、私が知っている中で一番熱心なクリスチャンとなりました。」
ところで、フィニーはリバイバリストであり、奴隷廃止論者であった他、女性の権利の提唱者でした。上記の話しは、彼の自叙伝から抜粋したものです。聖書は別として、この本は私が一番良く読む本です。


パウロも同意した


そうです。私達の結婚は、第一に、相互の愛とサポートと励ましによって成り立たなければいけないものです。
しかし、私達は皆、欠点があるので、最も親しい人-おそらく伴侶-に対峙してもらわなければならない時があるのです。
伝統は、この権利を夫には与えて来ましたが、妻には与えて来ませんでした。
しかし、聖書はこの件に関してはっきりしています。妻は、夫に対峙する権利と責任があり、夫は妻の言う事を聞く責任があるのです。


もし、パウロに訴えてやりたいと願う人がいるなら、私は、パウロは彼自身が記した文脈と、創造と、聖書全体を踏まえて説明する筈だと言いますよ。
私はまた、女性について彼が書いたこと全ての文脈から、パウロは明らかに女性達の友であり、キリストにある男女平等の擁護者であったと見られる、と解釈している私の著書「Paul, Women, Church(パウロと女性達と教会)」を読むようにと、その人達に勧めます。
そうです。パウロも、夫が間違っている時には、妻は夫に対峙すべきであると同意していたのです。


エディー・ハイアット博士
「女性達にたいする神のことば」の委員。創造の時にあった、またキリストにある男女の平等の支持者。
「Paul, Women, Church(パウロと女性達と教会)」の他、数多くの著作を持つ。

Reprinted with permission from Charisma
Copyright Charisma Media, USA. All rights reserved. www.charismamag.com.