イエス様は宗教を始めなかった


ロバート・アンソニー

人生の大部分、およそ5年前まで、私は神様を全く誤解していました。10年前に、私は「イエス様は宗教を始めなかった(Jesus Did Not Start a Religion)」という本を書き始め、自分の人生、また育った宗教のことさえも解明しようとしていたのです。

私は傷ついて、悲しんでいました。私の両親は長い結婚生活の後、離婚したのですが、両親の離婚にたいする教会の対処の仕方を見て、私はもう二度とクリスチャンになりたくないと思いました。
若い時にした多くの失敗のゆえに、また自分の世界が崩壊していくのを見た時に私は傷つきました。すべてが終わってしまうかもしれないと恐れていました。友人が私からビジネスを盗ろうしたので私は傷つき、ひどい孤独を感じていました。私は悲しんでいました。

ある晩主は、私の悲しみのど真ん中に現われてくださいました。
私は1年以上教会に通っていなかったし、ほぼすべての知り合いのクリスチャン達を避けていました。

教会にいるよりもバーにいるほうが安心感を感じました。しかしそれでもなお私はイエス様を愛していました。主は、何年も前に私の心を捕えていて、共に過ごしてきたそれまでの年月を捨て去ることができないほど私とイエス様は親しかったのです。

滑稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば酔っ払っている最中に私はイエス様に話しかけていました。時には、バーやパーティーに来ている自分以外の傷ついた人達に説教することもあったのです。惨めな年月を過ごしていた、ある予期せぬ晩に、主が現れてくださったの です!

朝2時頃に、主が私を起こしました。部屋の中に主の臨在を感じました。
私はただこう言いました。
「はい。主よ、何でしょうか?」

「ロバート。私は宗教を始めたことは一回もないよ。」

主が言われたのはたったこれだけでした。

主がそう言われた時、私は、カンフーの技術を脳にダウンロードされた時の(マトリックスの)ネオのような気分でした。
主が、あの一行を言われた時、完全で新しい啓示が私の魂にダウンロードされたような感じだったのです。
その後から、私の人生は全く変わりました。それ以来、逆戻りすることはありませんでした。

宗教を見つけようと、聖書をもう一度読むようになりました。するとイエス様の人生とメッセージに関して沢山の事が目につくようになりました。はっきりと見えるようになってきたのです。イエス様は、宗教的な人達とはまったく違った事をされました。

今、ある意味で、私はイエス様が完璧な宗教だったと思います。けれども、私達の文化では、宗教というのは組織化された感があります。イエス様にはそういうのがありませんでした。
事実、これらの組織化された権力者達の一部、偽の宗教人達こそが、最終的にイエス様を殺したのです。
聖書のページから私の目に飛びこんで来たのは、イエス様のミニストリーの仕方が他の人達と全く違っていたことでした。20年以上もイエス様を知っていたにも関わらず、実はイエス様のことをほとんど知っていなかったことに私は気がつくようになりました。

宗教的な足し算引き算をまったくしないで神のことばを読めば読むほど、聖書に書かれている話がより明確になっていきました。

私が思っていたよりもはるかにイエス様は良いお方だったんだ!

私はずっと、この世の権力を持った人達や、有名な人達を尊敬していました。どのようなタイプか分かりますね。

組織や企業を率いる男性、目的意識を持って突き進む人、カリスマ性がある人、機知に富んだ人、歯に衣を着せずに物を言う人、野心家、自説を曲げない人、そして強い人。

20代の時に、私が称讃していた男性達の多くは、私達の中におられる栄光の希望であられるキリストをほとんど現していなかったことを私は思い知らされました。
しかし、この世の文化の中では、クリスチャンの文化の中でさえも、こういった男性達こそが、尊敬を受ける男性、卓越した男性達なのです。若者達はこのような男性達を見習い、称賛するようにと教えられています。
しかし、イエス様は全く違いました。

私達がイエス様を顔と顔を合わせて見る日、私達は驚くはずです。イエス様が私達と同じ人として生きていた時代に戻って、イエス様と共に歩むなら、私達全員イエス様というお方に驚かされるはずです。

柔和さ、静かさ、優しさ、寛容さ、隠し立てしない開かれた心、共感、正直さ、そして真理を語る大胆さというイエス様の特質は、しばしば男性達、また私達クリスチャンの中でさえも評価されない特性です。

イエス様の弟子達はイエス様を救い主だと信じるのに苦労した時があった筈だと私は確信しています。
なぜなら、イエス様は、彼らが期待していたユダヤ人の「王」のような人物ではなかったからです。

イザヤは、イエス様はまったく魅力的でなかったと語っています(イザヤ53:2)。弟子たちはしばしば、イエス様の前で、口論し始めることがありましたが、イエス様は、彼らが直接尋ねてくるまでは口論に口をはさむことがほとんどありませんでした(マタイ18章)。
自分を非難してくる人達を正すことができたはずなのに、何一つ答えませんでした。
彼は静かで、傷ついた、悲しみの人として知られていましたが、ここぞという時に大きな憐れみと大胆さを持つことができるお方でした。

恐れを知らないお方で、時にあまりにも率直に真理を語るので、人々はその場で彼を殺してやりたいと思ったほどでした。
しかし、彼はまた、ご自分の友ユダが口づけで自分を裏切ることを許し、止めませんでした。なんというお方でしょうか!

実のところ、人々はイエス様が十字架にかかられる前日に初めてイエス様を打ちたたいたのではなく、イエス様の公生涯のほぼ最初から最後まで打ちたたいていたのです。

彼らがイエス様を拒絶し、群集が怒り狂う時、そしてイエス様が彼らのためにしてくださった全ての驚くべきことのゆえに彼らが神様を崇めない時には毎回、それはあたかもイエス様の顔につばを吐いているようなものだったのです。
彼は苦しみのメシアでした。地上を歩んだ人達の中で一番愛情深いお方でした。

しかし、他の人達のために苦しもうとする愛情深い人というのは、この世の在り方では評価されることがほとんどない人物です。
それゆえに、私達はしばしば、本当のイエス様を見ようとはせず、イエス様を再定義し、神の子の完全さ、麗しさ、愛をゆがめようとするのです。私達がこのようなことをしているとは悲しいことです。

私達一人一人のうちにはそのような醜さがあります。しかし、イエス様は本当に素晴らしいお方です。
私達にはとてつもない恐れと疑いがあります。しかしイエス様は、信仰と希望と愛で満ちておられました。
私達は頻繁に憶病になりやすい者達です。しかしイエス様は非常に大胆で、まったく恐れを知らないお方でした。

イエス様はお金持ちだったと語っている牧師達のグループを私は知っています。彼らは、ペテロは漁船を所有していたから富んでいた。パウロは天幕を作って、売っていたビジネスマンだったと語っていました。
けれども、自分の持ち物全てを捨てて、イエス様と共に歩むというペテロの真の模範に誰かが従ったという話しを聞くことはほとんどありません。(マタイ19:27-30)

本当のところ、私達はあまりにも恐れていてイエス様をありのままで見ようとしないのです。この福音のすべてを受け入れるのがあまりにも恐ろしいので、私達は自分達の宗教を築くのです。イエス様をありのままで見ようとしないので、キリストの中に秘められた神様の力が私達には欠けているのです。自分達のやり方で事を行なおうとして、バビロンを再構築してしまったのです。
私達はバビロンに戻ってしまい、神の町に戻ることを拒否してしまったのです。悲しい事ですが、事実です。

しかしそれでもなお、イエス様は私達のために死んでくださったのです。私達が神様の聖なる尊いものを不当に扱うと知りながら、それでもなお、イエス様は私達のために死んでくださったのです!

イエス様は私達とはまったく違ったお方です。人生、またミニストリーの中であっても、多くの時、機会があれば私は神の民を打ち砕いていたはずです。神の聖なることにたいして教会が無関心でいることに私は腹を立てていて、人々に厳しく接していました。
あまりにも厳しくなりすぎてしまったのです。しかも、私はイエスの御名でそうしていたのです。旧約の預言者のように、神様が人々を裁かれても仕方ないと私は感じていました。「結局のところ、彼らは聞こうとしない。」と思っていました。
私はまさにヤコブとヨハネのようで、(私の)イエス様を受け入れようしない場所や人々に炎を下したいと思っていました。
おそらく私は沢山の耳を切り落としたはずです。そしてさらにひどい事に、私はイエス様にミニストリーしようとしたこともあったのです!
主が切り落とされた耳を拾い上げ、私が傷つけた人達を癒すことができることを心から感謝しています。

明らかにイエス様は私とは似ても似つかないお方でした。彼は弟子たちに背を向けることは一度もありませんでした。
そのことに気がついていましたか?弟子たちにがっかりさせられるのが嫌になることもありませんでした。
ユダが自分を裏切り、ペテロが自分を知らないと否定することを知っていました。自分達も罰せられ、苦しむことになるかもしれないと恐れるあまり皆が自分のことを見捨てて行くことをイエス様は知っていたのです。彼らがどれほど薄情者であったか、私達全員がどれほどひどい者達であるかイエス様は知っていました。けれどイエス様は私達のために死んでくださったのです。

イエス様は私達のために生き、私達のために死なれ、そして今また永遠に私達のために生きておられるのです。
本当に美しいストーリーです。力強い、驚くばかりの、愛情深い、そして麗しい神様についての美しいストーリー。

ヨハネはこう書いています。Ⅰヨハネ3:1-3で、ヨハネは私達に「イエス様を見るように」と励ましています。

「見よ(日本語の聖書には書かれていませんが、英語の聖書にはBeholdと書かれています。)」。
続けて、ヨハネは私達に奥義を説明しています。
「私たちはキリストに似た者となります。なぜなら私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」(Ⅰヨハネ3:2)

イエス様を見ることには何かがあるのです。ありのままのイエス様が私達を変えるからです。
それは聖餐式に似ています。(つまり、交わりをもつことです。)私達はイエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むのです。

イエス様を見上げ、ありのままのイエス様を、イエス様がどれほど愛情深いお方かを見て、イエス様を自分の体の中に入れるのです。そうするならイエス様が私達の一部となるのです。そして私達は永遠に変えられます。全く新しい者となるのです!ただのロバートではなくて、ロバートの中におられる栄光の希望キリストです!

私達の多くが教えられてきたことより、本当のストーリーのほうがはるかに良いものです。私達はイエス様のもとに行く必要があります!受けた油注ぎのうちにとどまって(Ⅰヨハネ2:27)、イエス様ともっと時間を過ごす必要があります。

主はすべてを変えられます。実際、主はすでにしてくださっています。今、私達はイエス様の満ち満ちた祝福を受け取る必要があります!けれども、そうする気のある人はいますか?宗教がつくり上げたイエス様ではなく、本当のイエス様を心から受け入れるのは誰でしょうか?キリストのすべてを受け入れる人達はまた、最大限の報いを受ける人達なのです!これこそ私達に与えられた御国の福音です。

だから今、私達はイエス様に近づきます。イエス様が近づきやすいお方なので私達はイエス様に近づくのです。イエス様は私達を追い払ったりはしません。私達がしくじった時に、私達のことを見捨てたり、忘れたりなどしません。
イエス様は私達をあきらめません。
私達は自分のことを諦めてしまうかもしれませんが、イエス様は私達のことを信じるのを決してやめません。主は完全なる神様であり、完全なるお父さんです。だから今、私達は恵みの御座に近づき、そこで憐れみを見出すのです。私達はイエス様のもとに行き、イエス様の足もとに座り、イエス様の方法を学び、霊において真理において神の子ども達となります。

なんという特権でしょうか!私達は信じられないほど祝福されています。私達はいつの日かそのことを理解するのです。私達こそがイエス様を知った者達であったと。もしかしたら、天国に行くまでそのことを本当に理解することはないかもしれません。
けれどもいつの日か、私達はイエス様を本当に見るのです。そして全てが変わるのです。

もしかしたら私達が思っているよりも早く。

ロバート・アンソニー
Jesus Did Not Start a Religionの著者。
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