2017年の記事の再投稿です。
かなり長い記事ですが、ぜひ最後まで読んでみてください😊
神の基準
〜ただ1人の称賛だけを求めて生きる〜
ミスティー・エドワーズ
私達の人生の価値と、私達が人生で成し遂げたことを神様はどのように評価するのでしょうか?
ある有名な映画スターが、聴衆の前でこう尋ねられました。
「数多くの映画に出演するという小さい頃からの夢がついにかなって、どんな気分ですか?」
インタビュアーが、このスターが夢を実現するために沢山の苦難を乗り越えてきたことについて触れると、聴衆は、沢山の困難を乗り越えて、ようやく「成功」し、長年夢見てきた者となった彼の偉大さに拍手喝采しました。
しかしこの俳優の答えは、全員を驚かせました。「つまらないですね。映画に出演することがずっと僕の人生の夢だったけど、今はそれがつまらないものだってことに気がついたんだ。」
私はそのインタビューを観ていたのですが、彼の声からひどい幻滅感に近いものを感じました。
彼は、自分にやる気を起こさせ、自分を形づくってきた夢が、いざ実現すると、自分にむなしさを残していったことにショックを受けていたのです。
一時的な夢に動かされ、ようやく夢が実現したけどむなしさを感じ、目標を失ってしまう人達の話しはそこらじゅうに溢れかえっています。もし成功とはこういうものだという自分の考え方や他の人の考え方に基づいているなら、人生の本当の意味を見つけることは不可能です。
人々はあなたのことを愛したと思ったら、次の瞬間にはあなたのことをあざ笑います。1年間、あなたは時の人でかっこいい人と思われるけど、次の年には時代遅れとなってしまうのです。ある時期、あなたは成功しているけれど、次の瞬間には失敗者となっている。
これは、経済、人間関係、ミニストリー、影響力に当てはまります。人生におけるすべてのことは、あっという間に色あせていくのです。
それなら、一体何が、人生で本当に大切なことなのでしょうか?自分の期待以上に長続きすることで、私達ができることは何なのでしょうか?いやむしろ、神様にとって重要なことで私達にできることは一体何なのでしょうか?
クリスチャンとして、私達は、死んだ後、私達の造り主であるキリストのさばきの座の前に立つことを知っています。(Ⅱコリント5:10参照)
そこは、いつの日か私達がイエス様によって評価され報いを受ける場所です。
スポーツ選手が、オリンピックの表彰台の上にたってメダルを受けるのと同じように、私達も最後に、私達の人生の創始者の前に立つのです。イエス様だけが、私達が「成功(目的を達成)した」かどうかを判断できるお方です。
イエス様は、人間の設計図を持った創造者であるので、私達の人生を評価する者となることができるのです。イエス様だけが、私達を評価する基準を持っています。イエス様はまた、この地上を歩まれ、私達に模範を示されたお方です。全ての点で私達と同じように試みを受けられ、私達の苦しみをよく知っておられます。(ヘブル4:15)
イエス様は完全なる神であり、完全なる人で、私達を全き正義と真理でさばくことができる唯一のお方です。
だから私達はお互いのことを評価したり、成功しているかそうでないか判断を下すことはできないのです。
私の人生で一番重要な日は、私の人生の偉大な評価者であるイエス様の前に私が立つ日です。
私は一人のお方の前に立って、会話をします。私の全人生が目の前に広げられて、イエス様が私についてどう考えているかが明らかになります。私の人生の目的の全ては、イエス様を喜ばせることです。(Ⅱコリント5:9-10参照)
だからこそ私は、人々が定義する人生の意味にまったく興味がないのです。イエス様がどのように目的を定義するかだけが大事なんです。たとえ私がしたことがすごく立派なことで、模範的な人間だとういことで、世界が私を称讃したとしても、イエス様が同意されないなら、何の意味もありません。まったく無意味なんです!
私がイエス様の前に立つ時、そこにいるのは私とイエス様だけです。私がどんなに素晴らしい人であるか、私がどれだけ沢山のレコードを売ってきたか、私がどれだけ沢山の人達に影響を与えてきたか、イエス様に伝える人は誰もいないのです。
私がどれだけ悪い人で、どれだけ沢山の罪を犯してきたかをイエス様に言う人もいません。その日には、真実が明らかにされるのです。
だから、私の人生で一番重要な事は、イエス様がどう考えるか、なのです。私がイエス様の前に立つ日に、イエス様が考えることが何であれ、それが私の人生で一番重要なことです。今でもそうです。私が主の前に立つ日、イエス様が私に尋ねられることは、私の心がどれだけイエス様に敏感に反応していたか、なのです。それこそが一番大切な事なのです。
私達の熱望はイエス様を喜ばせること
使徒パウロはこのことを理解していたので、イエス様から評価されることに心が奪われていました。
これが彼に、忍耐して競争を走ろうという意欲を起こさせたのです。
Ⅱコリント5:9でパウロはこう言っています。
「私たちの目的とするところは、主に喜ばれることです。」(ASV)
私たちはイエス様を喜ばせたいのです。
なぜならイエス様が創造者だからです。私たちは、イエス様の喜びとなるために造られたので、イエス様の心を満たすまでは私たちが心から満足することはありません。イエス様はまた裁判官です。イエス様だけが私たちの人生の価値を評価し、私たちに生きがいを与えることができるお方なので、私たちはイエス様を喜ばせたいのです。
パウロの人生で、神様を喜ばせることを彼の人生の一番の夢にすると、意識的に決断した時がありました。
主と共に歩み、主を喜ばせるために全人生を生きること、彼はそれを人生における最大の関心事とすると決心したのです。
「自分の目的とするところ」とは、つまりそれこそが自分がこの世で生きている一番の理由だという意味です。
パウロは「私は、これを自分のやることリストのトップ10に入れました」と言っているのではありません。
違います。これこそが彼の人生における一番の夢だったのです。
私たちの心には数多くの夢があります。そしれそれらは聖書的なものであり、神様に関する夢です。ミニストリー、他の人達に影響を与えること、お金、結婚、健康に関する夢があります。こういったとても大切な事柄に関する夢や約束を私たちは持っています。
これらは聖書的で、神様にとっても重要なものです。
けれど、これらは、2番目に重要なものとならなければいけないのです。
主を喜ばせることをあなたの人生の一番の目的とすることができる人は誰もいません。あなたが選択しないといけないのです。だからこそ、それは神様の心に響く力強いものなのです。なぜなら誰かから強制されたものではなく自発的なものだからです。そう、愛だからです。
あなたは、神様への愛に溢れてこの人生を生きようと心を決めなくても、救われることはできるでしょう。
イエス様を救い主と知って、受け入れ、天国に行く人達は沢山いるでしょう。しかし彼らは、神様についてさほど考えることなく人生を生きました。彼らは救われています。そして義の賜物を受けたという意味では、イエス様を喜ばせています。しかし、私達がイエス様の前に心を尽くして生きようと、決心する時に、そこにはまた別の主を喜ばせる要素があります。
これこそパウロが語っていたものなのです。あなたがこれを、自分の人生の一番の夢としようと決心するなら、あなたはこれを自分の人生の目的とし、何度も何度も繰り返し自分自身の心を調整する必要があります。
この目的から注意をそらしてしまうという弱さが私たちにはあるのです。だからこそ、私たちは頻繁に立ち止まって、これ(主の前に心を尽くして生きること)を人生の一番の夢とするために自分達の心を再調整しなければならないのです。
あなたが自分の将来を想像する時は、結婚し、幸せな家庭を築き、沢山のお金、沢山の友達がいる人生、いわゆる典型的なアメリカンドリームだけを想像しないでください。こういったものは良いものですが、それ以上のものがあなたの人生にあるのです。
私たちの心を一番の目的に合わせるのを助けることができる1つの要素は、私たちにたいする神様の見方を理解することです。
パウロは、重要な予定があることを理解していただけではなく、自分を評価する裁判官は、自分の人生の細部にまで深く関わり、投資されたお方であることも知っていました。
イエス様が私達の人生に関与しておられ、他の人達が何の関心も示さない私達の努力を気にかけてくださっていることを私達が知るなら、イエス様が私達の小さな従順の行いを見ておられることを私達が知るなら、そして自分はイエス様によく知られている、だからイエス様はこれらの事を本当に気にかけ、また覚えておられ、ご自分の本に書いてくださっていて、永遠に報いてくださると、私達が本当に信じているなら、私達の人生は変わるのです。
いつの日か、私達の造り主であるお方の前に立つという重要な予定があり、造り主ご自身が私達の人生の本当に複雑な細部まで知っておられ、私達のすることがイエス様にとって重要であることを私達が知るなら、私達には生きる目的があります。
イエス様は、心と思いを探られるお方です。(黙示録2:23参照)
すべての人を平等にするもの
心躍らすことは、あなたの才能やあなたの人生における地位の程度に関係なく、キリストの裁きの御座は素晴らしく平等であることです。なぜなら主は、神様にたいする私達の応答によって私達を評価するからです。
主はあなたのミニストリーの大きさや銀行口座にどれだけ沢山のお金が入っているかを評価するのではありません。それどころか主はあなたがどれだけ沢山の人に影響を与えることができたかを評価することさえしません。主が評価するのは、あなたの心の大きさです。これこそ人を測る真の基準です。
あなたより才能があり、沢山の人に影響を与える人達はいるでしょう。しかしもしあなたの神様にたいする応答が彼らと同じものであるならば、同じ報いを受けるのです。報われるということは、あなたがどのようにイエス様を愛したかについてご自身がどう感じておられるのかを、イエス様があなたや他の人達に明らかにしたい日が定まっているということです。イエス様はおおっぴらに明らかにすることを願っています。
私のこの地上での生き方についてイエス様が語る事がほとんどないなら、その日はなんと悲惨なことでしょうか。イエス様が小さなことにも注意を払っていて、私達が語った些細な事さえも覚えておられ、イエス様にたいする本当に小さな努力にも報いてくださるという確信が私達にあるなら、それは信仰です。イエス様が造り主として、これほどまでに注意を払っていて、これほどまでに熱心であると私達が信じる時に、私達は主を喜ばせたくなります。
イエス様が期待しているものを、イエス様にささげようと決心して生きている人は、この世が何をもたらそうが、永遠に偉大な者となることができるのです。(マタイ5:19参照)
これこそが本物の自由です。このように生きている人に匹敵す者はいません。その人はお金を取り去られ、人間関係や地位を失うかもしれません。また牢に入れられ、迫害されたり、殉教死するかもしれません。しかしそれでもなお、その人は目指していたことに到達するのです。
その人は、教育を受けておらず、魅力がなく、
後ろの席に座っていて誰にも気づかれない人かもしれません。けれどその人は神様の目から見ると、人の目から見て最も教育があり、美しく、成功している人と、まったく同じだけの永遠に偉大な者となる可能性があるのです。
神様は、人が測るように、私達を測ることはしません。パウロはこの事を知っていました。教会の歴史は、自分達の信仰のゆえに牢に投げ込まれた時でさえ、「一人の観客」の前で生きたので、心は自由だった男性女性達で満ちています。永遠の目、つまり神様の目の前で生きることが、人の力であり、価値であると歴史は証明しています。そしてそれは誰でも、そう、すべての人ができることなのです。私はイエス様の方法が大好きです!
永遠に偉大な者となりたい人は、誰でもなることができます。私達は人間の浮き沈みする好意に翻弄されているのではありません。私達の偉大さの定義は、私達の人生における任務によって影響されるものではありません。もちろん私達にはまかされた重要な任務があり、誠実さをもって任務を果たします。しかしこれらの任務における成功の尺度は、私達の手中にはありません。私達は自分に与えられている任務によって自信を持つことはできません。私達の自信は、一人の観客、神様の前で、自分にまかされた任務を果たしていくことにあるのです。
次に、私達は誰から称讃を受けるために生きているのかを問う必要があります。私達にまかされた任務は、長年同じものかもしれませんが、主は、私達に、自分の心を見直してほしいと願っておられます。
任務があまりにも難しいから、燃え尽きてしまうのではありません。
間違った称讃を求めて、神様以外の目の前で任務をこなしているから、燃え尽きてしまうのです。多くの場合、人から批判される時に自分の心が明らかにされます。もし、人からの批判でうろたえてしまうなら、間違った目の前で生きているのです。
失敗もまた私達の心を試す試練です。私達の人生でまかされた任務が失敗したように思える時、お金を失い、ミニストリーが小さくなり、人間関係が失われたりする時、もちろん痛みを感じます。しかし、これらのことによって打ちのめされてしまい、これらのことのゆえに自分の全人生は失敗したと結論づけてしまうなら、それは私達がただ一人の観客の前で生きていない証拠です。人からの称讃のために生きてしまっているのです。しばしば、イエス様は私達が誰に自分の価値を置いているか示すために、このような方法で私達の心を試されるのです。主の目の前で生きるために、私達は何度も何度も自分の心を再調整する必要があります。
痛みの中で神様を愛するということ
ミズーリ州、カンザスシティーにあるIHOPの創立者マイク・ビックルの弟、パット・ビックルの話しは、私が最も感動した話しです。
パットは高校生の時に、フットボールで怪我をし、首から下が麻痺していました。33年間麻痺した体で過ごし、晩年には、容態が非常に悪化して、食べることも飲むこともできなくなってしまいました。意識ははっきりしていて、今までと変わらずウィットに富み、人々にたいする愛で満ちていましたが、話すことができませんでした。何週間も、パットはその状態で横たわっていました。
一方、マイクのミニストリーは成長していき、何千もの若者達が彼のカンファレンスに集まってきていました。説教をするために世界中を旅し、何冊もの本を執筆し、何千もの人達に教え、多くの人達に影響を与えていたのです。
天に召される前の数週間、パットが横たわっている時、マイクはほぼ毎日、彼に会いに行ってました。そんなある日、マイクはパットと2人きっりで病室にいました。多くの人が苦しむ以上に苦しんでいて、話すことも、動くことも、水を飲むこともできない状態で横たわっているパット。そんな彼を見て、マイクは言いました。
「パット、たった今僕と何の変わりなく、君の人生にたいするイエス様の御心を君は成し遂げることができるんだよ。今のパットにたいするイエス様の御心は、君が何の怒りももたずにイエス様を愛すること、そして今でも主は自分の事を見ておられると君が信じることさ。僕と同じように、主を喜ばし、主の心に触れることができるんだ。主は、僕の主にたいする愛を見ておられるのと同じように、まったく変わりなくパットの主にたいする愛を見てくださっているんだよ。」
苦しみの中にあってでさえ、たとえそれが本当にひどい状況の中で主を愛するということだけだったとしても、神様の御心を成し遂げることが自分にもできるんだと信じた時、涙がパットの頬を流れ落ちました。召される前の数か月間は決して無駄なものではなかったのです。ひどい苦しみの中にでさえ、彼の人生にたいする目的がありました。イエス様は彼を見ておられ、彼の心の全ての動きに報いてくださると約束してくださいました。パットは有名な兄と変わらず、天で永遠に偉大な者となることができるのです。なぜなら、イエス様は、私達のミニストリーやビジネスの影響の大きさによってではなく、主にたいする私達の心の応答、主にたいする私達の愛に基づいて、私 達を評価 するからです。
主はあなたを見ておられます
イエス様を喜ばすという私達の人生の第一の目的が、私達を突き動かすもの、燃えるような夢となる必要があります。私達はイエス様に心奪われたいのであって、人の意見には心奪われたくありません。これこそが私達の前にある目標であり、私達の心の錨となる必要があります。主を喜ばすことがあなたの一番の動機であるなら、あなたからその夢を取り去ることができるものはありません。そしてその夢は、あなたの置かれている状況に関係なく、かなえることができるものなのです。
あなたに与えられた領分は関係ありません。あなたは人からまったく注目されない場所にいて、あなたの話しに耳を傾けてくれる人は2,3人しかいないかもしれないし、あるいは何百万人の前でステージに立っているかもしれません。あなたは健康で、カリスマ性と魅力に富んでいるので、努力しなくても人があなたについて来てくれるかもしれませんし、逆に、病気で、はっきりと話すことができないかもしれません。
あなたはお金持ちかもしれないし、貧しいかもしれません。整った容姿かもしれないし、そうでないかもしれない。教育を受けたかもしれないし、教育をまったく受けてないかもしれない。様々な国籍、様々なバックグラウンド。そういったものに関係なく、あなたは、自分にたいしてイエス様がもっておられるビジョンをはたして、永遠に偉大な者となることができ、あなたの人生の目的を果たすということにおいて成功することができるのです。
永遠は全ての人を平等にするものであり、人を測る真の基準はイエス様の目の中にあります。あなたには、虐待や痛みで一杯の本当につらい過去があるかもしれません。また逆に、あなたが虐待によって他の人達に痛みを与えた人かもしれません。けれど、今日でも、あなたは状況を好転させ、あなたの人生にたいするイエス様の夢を成就させることができ、自分の人生は決して無駄なものではないんだと確信をもって生きることができるのです。
あなたは人の目から見たら、決して偉大な者となることはないかもしれません。一生涯、見過ごされたまま生きるかもしれません。けれど、あなたのことを見ている人が1人います。その方は、あなたが考えている事やあなたの最も深い心の内を知っておられるほど、あなたに注意を払っているんです。(Ⅰコリント4:5参照)
主はすべてを見ておられ、すべてを裁くお方です。主の評価が重要なのです。あなたはいつの日か、顔と顔を合わせて主の前に立ちます。主の前に立っている時間は非常に短時間ですが、あなたにたいする主の評価は、永遠にあなたを定義するものなのです。
そのことを知る時、私達の今の人生は力強くされます。あなたに注意を払っている完全なる神様がおられるだけではなく、その方があなたに報いてくださると約束してくださっているのです。あなたが主にささげたすべての愛の行いは、天国で報われます。そしてその時にのみ、あなたの真実が明らかにされるのです。
あなたの人生は隠されていて、主が栄光のうちに現われるまでは、明らかにされません。この地上では、あなたの偉大さのすべてはあなたの目からも隠されていて、主が栄光のうちに現われるまでは、あなたも現されないのです。(コロサイ3:3-4)
この世では、あなたの品位の高さや、邪悪の深さは、肉の目で見ることはできません。
イエス様だけが、最初から最後まで見ることができ、今から後、永遠にあなたがどんな者となるのかを知っているのです。主は結果がどうなるかを知っています。これから来る時代において、イエス様が私達に与えてくださったすべての栄光に関する事実の全容を、私達は見るのです。主の目には、今、私達に栄光があるのが見えているのですが、私達は見ることができません。
億万長者も貧しい人も全く同様に、イエス様の同じ基準と同じ目で評価されます。永遠は、私達が何者であるのか、真実を告げるのです。そしていつか、私達についての真実が見えるようになります。
今、あなたは「永遠の胎」の中にいて、これからやってくる一日のために形づくられている最中なのです。プレッシャーや痛み、喜び、祝福、これらすべては、あなたを主と結ばれる愛の姿へと形づくるために、造り主がたてられた計画です。けれど、その愛は、イエス様によって定義された愛となる必要があります。ヒューマニズムによって定義された愛であってはいけません。イエス様は、主ご自身の条件通りの愛を求めておられます。
その定義は何なのだろうか?そして主を喜ばせるのは一体何だろう?
私達の生きがいは、この質問に答えていく時に見つかるのです。
ミスティー・エドワーズ
彼女はカンザスシティーにある24時間祈りの家、IHOPで10年以上、ワーシップリーダをしています。またグローバル・プレイヤー・ルームの365日24時間の礼拝をささげる14チームを監督するリーダーでもあり、Forerunner Musicのエグゼクティブ・プロデューサー。
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