アブラハムに再び、主(神様)が現れたと記されます。アブラハムがマムレという場所に天幕をはっていた時、目を上げると、突然3人の人が立っていたとあるので、この3人は人間の旅人のように遠くから歩いてきた様子もなく、突然アブラハムの目の前に現れたと言えます。彼は走り出て3人を迎え、地にひれ伏して彼のもてなしを受けて下さいとお願いします。おそらく、主のみ使い(天使)か主ご自身が人の形となった現れたのかと、アブラハムは気づいたのでしょう。この3人の人が来た目的はアブラハムとサラの間に待望の子が来年の今頃生まれること、そしてもう一つは、ソドムという町の滅亡を前もって知らせるためでした。
この当時この地域の習慣では、知らない人であっても旅人をもてなすことをしていたようです。砂漠地帯がほとんどで、オアシスが点在するようなパレスチナ地域には、宿屋がある町がたくさんなかったからでしょう。新約聖書に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブライ人への手紙13:2)とも記されています。いつ、主や天使が、どのような姿で私たちの傍におられるかわからないので、分け隔てなく、人々の必要に気づき、親切に主を愛する愛をもって助けることの大切さを思わされます。
一人の人が「あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」(10節)とアブラハムに行ったことを、当時89歳になっていたサラは後ろの天幕の入り口で聞き、心の中で笑いました。そのことに対して主は「なぜサラは笑ったのか…主に不可能なことがあろうか」(13節)と、サラの不信仰を指摘します。しかし、サラは謝ることもせず、恐ろしくなり嘘をついて「わたしは笑いません」と言ってしまいます。しかし主はサラに自分の不信仰を認めるように指摘します。「いや、あなたは確かに笑った。」(15節)このように、主はわたしたちの心の中を全てご存じであるので、私たちは素直に不信仰を認め、悔い改める必要があると身が引き締まる思いです。
その後、彼ら見送りにアブラハムが行く際、主は「ソドムとゴモラの罪を非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。…果たして、わたしに届いた叫のとおりかどうか見て確かめよう」(20-21節)とご自分の計画を話されます。それは主が、アブラハムの甥ロトがソドムに住んでいることもご存じで、その計画を彼に知らせ、その計画の中で彼を用いようとされたからでしょう。そのことを聞いたアブラハムは、ソドムとゴモラに住んでいる正しい人(義人)のために神様に執り成しをし始めます。彼は、その町に何人かの義人がいても、他の悪人とともに滅ぼしてしまうのでしょうか?と、神様の公平さや憐れみ深さに訴えて交渉をします。その町に「義人が50人いれば滅ぼさないでくださいますか」、45人では、40人では、30人では、20人では、10人ではと粘り強くバーゲンするのです。このことからアブラハムは大胆に神様に執り成しの祈りをするほど、信仰が練られていたことがわかります。単なる、甥のロトを助けたいという思い以上に、正しい人が少しでもいたら、町全体を滅ぼさないでくださいという、他人のために必死で滅ぼさないでくださいと、滅びる者への愛が見られます。また神様は公義とあわれみをもって、アブラハムと語られ、「10人のために滅ぼさない」と言ってくださいました。
主イエス・キリストは今も、父なる神の右の座にあって私たちのために、執り成して下さること(ローマ8:34、ヘブライ7:25 1ヨハネ2:1)を思い起こし、その深い愛に感謝したいと思います。私たちも、憐れみと恵により先にイエスキリストを信じ、救いを受けた者として、「主に不可能なことがあろうか」という主の奇跡の力を信じて、まだ信じていない人々の救いをとりなす者へと、変えられていきたいと願います。