6月19日 創世記22章 イサクをささげる
75歳の時に神様に呼ばれて以来、アブラハムの信仰が様々な出来事を通して練られてきたことが聖書に記されています。100歳の時、90歳のサラを通して約束の子を授かるという神様の奇跡を目の当たりにし、神様の約束:アブラハムを祝福し、彼のの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やし、地上の諸国民はすべて、彼の子孫によって祝福を得る、を期待しつつ、どんなにか独り子イサクを愛し、大切に育ててきたことでしょう。そんなアブラハムに神様は非常に厳しい試練を与えます。つまり、神様の命令に従うかどうかアブラハムを試されたのですが、なんと神様は、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(2節)とアブラハムに命じたのです。彼はその命令を拒否することも出来たはずです。まだ若い、未婚のイサクを捧げ物ととして殺してしまっては、イサクの子孫を通してなされる神の祝福はどうなるのか?と、どんなに苦しんだことでしょう。しかし、アブラハムは一言も言わず、翌朝神様の命令を実行するために、モリヤの山へ息子イサクと従者2人を連れて、3日かけて出かけていきました。アブラハムの心中も神様への問答も何も記されず、ただ、息子イサクからの問い「捧げものに羊はどこに?」に彼は答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」(8節)アブラハムは神様のむごいともいえる命令をわが子に伝えず、しかし嘘もつかず、ただ彼が「神様は必ず何かお考えがあるに違いないと、神が必要なことは備えてくださる」と約束を必ず実現させる方であることを信頼しての答え方だったのではないでしょうか。そして、そのとおり神様はイサクをささげる寸前でアブラハムにストップをかけて、息子に手をかけずにすみましたし、すぐ横の藪の中に雄羊が見つかり、代わりに捧げものをとして祭壇で捧げることができました。
新約聖書のヘブライ人への手紙の著者は、このアブラハムの試練を以下のように記しています。
「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」
アブラハムはたとえ、イサクが死んだとしても神様が生き返らされることもできると信じ、約束の子だから返してもらえると信じていたと。
このアブラハムの出来事は、一つの神様の救いの御業をあらかじめ示す型であるとされます。父なる神様は、その独り子のイエス様を私たちの罪が赦されるために、十字架で私たちの代わりに死なれることで、私たちの罪を贖ってくださいました。イサクが捧げられようとしたモリヤの山は、歴代誌下3章1節によるとソロモン王が神殿を建設した場所、今日のエルサレムと記されています。イエス様はエルサレムの城壁の外のゴルゴダの(丘)で、十字架にかけられました。ですから、イエス様が全人類の罪を負って十字架で代わりに処刑された場所が、はるか昔アブラハムがイサクを捧げるように命じられたところでした。
神様はご自身の御子イエス・キリストの命を犠牲にするほど、私たちを愛してくださった、その計り知れない愛の前に、ただただ感謝しかありません。だからこそ、キリストを信じて頂いた新しい命を持って、神様に仕えていきたいと思わされます。