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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 本日の箇所は、福音書でマルコとルカにも並行記事がのっているところです。しかし、マタイとはことなり、このふたつとも、塩のことと灯火は別の場所で、別の文脈で記されていますし、「あなたがたは塩である」「あなたがは光である」ではなく、塩と灯火の役割と、それらを持つようにとのイエス様の教えとなっています。 

マルコによる福音書 9:50では

「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 マルコでは塩とはイエス様の教えと恵であり、それらを私たち自身の内に保ち、平和的にすごすようにとの教えとなっています。人間関係において平和を保つために塩気を内に保ちなさいということでしょう。

ルカによる福音書14:34-35 では

「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

ルカでは、イエスの弟子となる条件の文脈で記されているので、弟子として塩けを持つようにとのことで、聞く耳のあるものは聞きなさいと記されています。

 では、本日の箇所マタイによる福音書は、どういう意図をもって、イエス様の言われたこの二つのことを一緒に記しているのでしょうか。ここではイエス様は弟子たちに「あなたがたは地の塩、世の光である。」と言われましたが、これは弟子たちにむかって、あなたがたは将来こうなるだろうという未来形でなく、こうなりなさいという命令形で語られていないところに目を留めたいと思います。つまり今の私たち、キリスト者に向かって、イエス様があなたはこうであると言われています。

 そうなると私たちは、塩や光のように自身がそのような世に対して何か影響力を持つ存在になるとは考え難い、理想ではないかと思いがちです。しかし、私たちがどうであれ、キリストを信じる者であるならば、イエス様は今の私たちを「地の塩・世の光」と呼んで下さっています。私たちの存在が、気が付かないうちに塩が防腐剤的役割をもつように、世が滅びないために影響を及ぼしているということです。食物には、賞味期限というのがあります。食物のなかで賞味期限が記されていないのは純粋な塩だけです。塩は塩だけだと劣化しないので賞味期限がないのです。そして、塩の働きは、肉などにつけるとその劣化、腐敗を防ぐ働きをします。また、料理には塩はかかせないのは、ほんの少々塩を使いますと、他の素材を生かしておいしくなります。

 では塩に塩気がなくなるというどういうことでしょうか。イエス様の活動されたガリラヤ湖の南側は死海があり、そこでは岩塩が取れ、今でもイスラエル旅行のお土産にも売られているようです。しかし、岩塩も不純物が混ざると、劣化し塩として役に立たなくなるそうです。このことを「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(13節)と、役にたたないだけでなく、人々に踏みつけられるという厳しい言葉が続いて記されています。

 パウロは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」(コロサイ4:6)と記しています。塩で味付けされた快い言葉とは何でしょうか。私たちが語る言葉が聖霊の導きにより、相手の徳を高めたり、励ましたり、勧めたり、慰めを与えるような言葉として相手に伝われば、それは塩味の聞いた言葉になるでしょう。ですから、語る時に思い付きで自分の思いを話すのではなく、一瞬立ち止まり、何を話すか、御言葉ではどういっていたかなと思い巡らせたいと願います。思いつかなければ、黙って相手の話を聞き、最後に「神様に委ねて祈りましょう」と共にいのれば、聖霊の導きで相手も平安な心に導かれます。誰でもイエス様のみ名で祈り合えますし、必ずしも牧師だけが信徒の為に祈るわけでもないのです。皆が神様の恵みを含んだ言葉を自身が語れるよう、心に御言葉を蓄えて、引き出しから時機にかなって取り出せるようなれればと思います。ユーモアも多少はあってもよいでしょう。ありすぎると、そのうけたことのみ聞き手の記憶に残り、神様の恵みの言葉を邪魔します。よくダジャレを連発していた日本人の牧師さんが、英語スピーカーもいる講演で話をした時に、日本語から英語にへ同時通訳する人が、だじゃれを訳せなくて困っていたのを見たことがありました。しかもダジャレの部分が強烈で、神の言葉が記憶に残らないと、それは問題でしょう。

また、私もよく言葉で失敗しますが自分の考えだけを相手に伝えると、相手におしつけたり、塩味どころか、まずいものとして相手に言葉が伝わる危険があります。しかしながら、私たちは言葉で失敗する者であっても、クリスチャンがクリスチャンであることを止めることはありません。失敗を省みて、神様に悔い改め、祈って神様の恵みを含んだ言葉を話せるよう、祈り求めていきたいと思います。

 そして個人として、またキリストの体である教会として、私たちはこの世にあって塩の役目を神様から委託されていると言えます。教会はこの世が滅びないように、キリストの福音を宣べ伝える者として神様から召されて、呼ばれている者の集まりだからです。

 私たちが塩という存在でなければ、私たちがもはやキリスト者でなくなるということです。そうなると、信じる以前の自分がそうだったように、神様への信仰がない、罪の支配の下でこの世の生活を過ごすと、外からの攻撃に無防備になり、人々に踏みつけられてしまうような希望のない、辛い状況となってしまうでしょう。しかし、私たちが、今の自分自身をどう評価しようとも、キリストを信じているだけで、キリストに結ばれており、キリストにあって存在しているので、私たちは世に対して塩という存在であることを信仰で受け止めつつ、世の塩として神様に用いて頂けるよう願っていきましょう。(引用 新共同訳聖書)

 

次にともしびについてですが、マタイは山の上にある町は、隠れることができまないと記します。エルサレムの町はかつて王国時代には、山の上に神殿がそびえたつ美しい都でした。山の上に神殿や町を建てるのは建築法的にも難しく、時間がかかることでしょう。しかし、山の上にある町は遠くからでもその明かりが見え、これを隠すことができません。同様に、燭台の上に置かれた光は家の中を照らします。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」とあるように、燭台にともしたともし火をわざわざ隠す人はいません。ともし火は周りを照らすために使うのであって、いったんつけられたともし火の光は周りを明るく照らします。

ヨハネによる福音書8:12、9:5で「私は世の光である」とイエス様が言われたように、光そのものとして、世に光を与えられるのはイエス様ご自身です。つまり、まことの光はキリストおひとりであります。しかし、私たちがキリストに結ばれ、一つとなっていれば、キリスト者はその光を反射する存在にさせられ、光の担い手となれるから、このようにイエス様は「あなたがたは世の光である」と言ってくださります。パウロは

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つでしょう。」(ピリピ2:14-16)

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)

と記していますように、私たちは主イエス様に結ばれているから、光となっているのです。キリストの体であるから世の光となれる、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、そしてその光は隠れることができないのです。パウロは、私たちにイエス様につながって、光の子として歩みましょうと勧めています。

私たちが「地の塩・世の光」であるのは、私たちは恵によってイエス・キリストに結ばれているからです。そして、周りの人に益となる言葉を語り、助けになることを何かすることが出来たり、更には「なぜあなたはそんなに親切なのですか?」と聞かれたら、キリストを証しできるチャンスとなるでしょう。そして、ついにはその相手がキリストを信じるという神様の奇跡に私たちが参加させていただければ、大きな喜びとなります。

私は生きていて、一番うれしい、喜びを感じられるのは、そのような奇跡がその人に起こるのを目の当たりにすることです。そして、人々はその業を見て「ああ、神は素晴らしい」と言うのです。決して私たちが素晴らしいと言われるのではなく、神様があがめられることが、ともし火の光の効果であり、これが神様に栄光を帰すことでしょう。私たちは皆、マザー・テレサのようにはなれません。しかし、私たちにはイエス・キリストのように変えられていくという希望があるとパウロはコリント信徒への手紙Ⅱ 3:16-18に記しています

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

私たちは、この希望があります。主の霊の、つまり聖霊の導きと助けにより、私たちが塩で味付けされた快い言葉、つまり神様の恵みを含んだ言葉を語れるよう、また私たちのちょっとした動作であってもキリストの光を放つことが出来るよう、キリストの荷姿に変えられていくという希望です。わたしたちは聖書に記されている弟子達や歴史に残る伝道者のようにならなければならないのではなく、一人一人に神様から任されたことがあり、一人一人ことなります。共通することは、「神様はすばらしい」と他者が反応し、キリストを信じる信仰へ導かれることです。このキリストの荷姿、つまりご性質に変えられて、地の塩・世の光として神様に用いられるよう、ことを互いに祈り求めていきましょう。