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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 本日の箇所はパリサイ派の人と徴税人の祈りの譬えですが、イエス様はルカによる福音書14章7-11節の上席を好む客でも「高ぶれば、低くされる。謙遜になれば、高く上げられる。」と話されていて、ここでも再び繰り返し言われています。福音書著者のルカは、ここでイエス様がファリサイ派の人々に向けて語ったとは記していませんので、14節に「だれでも」とあるように、弟子たちと群衆に、つまり私たちへも向けて語られていると言えます。

 

 まず、二人の祈りについて見てみますとファリサイ派の人の祈りは自分は他人と違うということを神に感謝する祈りです。自分自身が律法で定められた以上の断食と十分の一を献げていますという自分の敬虔さのアピールで、神様の前に謙虚さもなく、悔い改めもなく、代わりに徴税人や他の人を軽蔑しています。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 」こんな祈りをする人がいるのだろうか?、譬えだから極端なのかと思いがちですが、実は、当時からユダヤ教の教師ラビが似たような祈りをしていたという記録がありますので、当時の宗教家たちはこのような祈りをしていた可能性があります。ファリサイ派の人々はなぜこのような祈りをするようになったのでしょうか。

 

パリサイ派の人というのは、イスラエルが常に神の律法を忠実に守ることによって、祭司の国となり、聖なる民となることを願う人々です。他民族はもちろんのこと、同じ民族でも律法を忠実に守ろうとしない人々から自らを分けて、決して交わることがなかったので、彼らはファリサイ(分離された者たちという意味)で呼ばれたとされます。自分たちを律法を守らない人から分離し、結果的に彼らを見下すようになってしまったのでしょう。

 

一方、徴税人は外国の支配者のために働き、さらに規定以上の税を集め自分の懐に入れるという不正をしていたので、同胞のユダヤ人から憎まれていました。彼はただ遠くに立って、目を天に挙げようともせず、胸をうちながら(深い悔恨や悲しみを顕わす)近くで祈ることができず、おそらく神殿の一番外に近い「異邦人の庭」で祈っていたのかもしれません。「罪人の私を憐れんでください」と、自分が罪人であることを告白し、神様の憐れみにだけにすがっています。

 

どちらの人を神様が正しいとして下さったかの理由を、二人の祈りの姿勢から私たちは読み取り、そして自分がどの立場にいるのかと心を探られます。このファリサイ派の人のような祈りはしていなくとも、ファリサイ派の人のような傾向性が自分の内にないだろうか。クリスチャンとして信仰生活を続けてきても、プライドを持ち、自身の罪に対して悔い改めずにいて「これこれをしているから、神様は良しとしてくれるだろう」というような意識があれば、パリサイ派の人の高ぶりと同様です。他者を見下しているつもりはなくとも、例えば、キリストを信じていない人に対して、自分に敵対してくる隣人に対してどのように思っているでしょうか。もしくはクリスチャン同志であっても、信仰が弱い人、自分と信仰観が異なる人々を「あの人と自分は違う」と分け隔て、彼らから分離する心を持っていないでしょうか。自分の教派だけが正しいと他教会を批判的な目でみたり、自分のことは棚にあげて他者を批判する状態にいないか、もしそういう部分があれば、神様がその高ぶりを低くされるでしょう。自分は神様に憐れんでいただいたから今の救いを受けている自分があり、これからの自分もあります。人のことをどうこう言う前に、自分自身が神様の前に出て、神様と向き合う必要があるからです。

 

 他者が気になるのは、イエスの弟子たちの中にもいつもあった現象でした。弟子の中で誰が一番偉いのかと論争したり、また弟子のペトロが復活されたイエス様とガリラヤ湖畔で、再び弟子として呼ばれた後(「わたしの羊を飼いなさい」と3度)ヨハネの福音書の著者である弟子を見て、「この人はどうなるんですか?」とイエス様に質問しました。ペトロはどうしてもこの弟子がどうなるかを気にしてしまったのでしょう。しかしイエス様は言われました。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ 21:22)私たちは、神様の前で、このファリサイ派の人のように人と比較する必要はないのです。人と比較せず、自分がイエス様に従うこと、そして自分と神様の間で悔い改めるべき罪があれば告白して、イエス様の十字架のお陰で赦しを頂けることを感謝したいと思います。その時、高ぶる心で祈っても、悔い改めにはなりません。

 

この徴税人は、こう祈っていたからといって、この譬えでは、彼は悔い改めて取税人をやめたとは記していません。もしかしたらこの人は自分不正をしているとわかっていても、同じ徴税人で弟子となったマタイのように、またザアカイのように、その仕事をきっぱり辞めることができなかったのかもしれません。辞めたくても、できない、そんなどうしようもない状態にいて、徴税人は「罪人を憐れんでください」と胸をうって、神様に頭を上げて堂々と祈れない。彼はこんな罪人(新改訳)と自身を呼び「私を憐れんでください」と嘆願するのみです。そして、彼は祈る時、自分と神様の間で、神様に向き合っています。

 

この「憐れんでください」(ヒラスコウマイ)の訳は(神が)「なだめられてください」つまり、「あなたの怒りをとりさってください」の意味です。彼は、罪のゆえに自分は神の怒りを受ける者であることを良くわかっていて、また彼には何か良いことをしている、もしくはしてはいけないことをしないでいるパリサイ派のような、行いによっても情状酌量を請うものが何もないのです。ただ神様の憐れみにすがるだけでした。そして、神様はこの歎願を受け入れ、彼を義と認められ、つまり「免罪されて」家に帰ったとイエス様は語られました。徴税人の「神様が憐れみ深い方なので、こんな者でも赦してくださる」と信じる信仰を、神様は受け入れて下さったのです。イエス様の十字架の救いを信じる信仰も同様です。私たちは、まず自分の神様に対する罪に気づき、悔い改めて、赦しを神様に願います。

 

ルカ5:32でイエス様が来たのは罪びとを招いて悔い改めさせるためと言われています。イエス様は「悔い改めよ 天の国はちかづいた」と言われ宣教なされました。イエス様は、わたしたちを悔い改めに導くために神の子が人となって、私たちのところへ来て下さりました。イエス様はご自身の身を低くして、私たちに悔い改めを呼び掛けて下さったのです。律法の行いによってはとういて義とされない私たちのために十字架にかかり、信仰によって義とされる道を開いて下さったのです。どんな罪であっても、またその罪がまだきっぱり解消していなくとも、キリストによる救いを信じる信仰で、救われるのです。そして、信じてから、神様の力で私たちの内側が罪を犯さないように変えられて行くという希望があります。

 

このように、私たちも自分の心がイライラする思い、他者を嫌う思い、自分のことを優先したい思いで満たされて、イエス様の愛のご性質とはほど遠く、自分が変わることが不可能に思える時、正直に「憐れんでください」と祈ってよいのです。神様は、憐れんでくださいと祈る者を、たとえ、行いや心の内が神の戒めに適っていなくとも、それでもイエス様の十字架の贖いのゆえに、悔い改めを促し、そして義としてくださる 正しいとみなしてくださる方なのです。

 

「高ぶりは滅びに先立ち、高ぶる心は倒れに先立つ」(箴言16:18)。自分が高ぶると、結局神様から離れてしまうので、滅びる方向へと私たちを向かわせないようにという箴言の言葉です。高ぶれば、低くされる。そして謙遜になれば、高く上げられる。ヤコブの手紙にはこうあります。「神の力強い御手の下に、自分を低くしなさい。そうすれば、神はあなたを高く上げてくださる」(ヤコブの手紙4:10)。高く挙げて下さるとは、自分の社会的地位があがることではなく、自分の能力を他者に認めてもらうことでもありません。私たちが自分の罪ゆえに顔も上げられない程落ち込んでいる状態から、罪を赦し、神様が心を引き上げて下さること、そして神様の子供として祝福と恵みを受けられると確信させて頂くことではないでしょうか。

 

私たちは、この徴税人にように、ただ神様の憐れみにすがって、キリストの十字架のゆえに「罪びとのわたしを憐れんでください」という姿勢で祈りつつ、他者に対しても見下したり批判するのではなく、神の愛をもって互いに愛し合うという、主イエス・キリストにある神様との交わりをお互いの間に広げていきたいと思います。

           (引用:新共同訳聖書)