この章では、イスラエルの民が守るべく、一年に一度の儀礼「大贖罪日」について記しています。太陽暦では毎年9月の後半から10月初旬、彼らの暦の第7の月の10日(29節)で、現代のイスラエルの人々の間では国民的祭日(ヨム キプール)となっています。現代はここで記されるような祭儀は行われず、この日は仕事をしないで、会堂に集まり礼拝を神様に奉げています。この日は、断食などの苦行をする日(最も厳かな安息日)とここで示されています(31節)。
祭司は、自身と民の罪を贖うための儀式を行いますが、この日だけ、祭司は幕屋の最奥部、至聖所とよばれる聖なる場所へ入ることができます。この日には、神様が至聖所に置かれる「贖いの座」:神の箱の上の蓋のことを指す で雲の内に顕れるので、この日以外に誰でも至聖所へ入る人は死んでしまいます(2節)。今まで規定されてきた儀式とほぼ同様の作法で行われますが、異なる点は儀礼の供え物の内一匹の雄山羊を祭壇で焼かないで、その山羊の頭の上に祭司が両手を置いて、自身とイスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪を告白し、これらを雄山羊に移させて荒野に放つことです(21-22節)。この雄山羊は、アザゼル(ヘブル語アザールは「放つ」という意味)の雄山羊と呼ばれ(26節)、一般でも「スケープゴート」(誰かの罪責の身代わりを引き受けること)という表現がこれに由来していますが、この儀式は聖書学者の間でも様々な解釈がなされているそうです。人間の一年分の罪をおった雄山羊は、二度と帰ってこないように荒野に放たれるというのも、この儀式によりかれらは自身の罪から放つたれることが表象されているのでしょう。しかし、問題は他の儀式もそうですが、毎年しなければならない程、人間は日々神様の前に罪を犯し、それに対する贖いが必要とされます。罪が贖われないと、神様と人は交わりが出来ない、つまりそれ程神様は聖い存在であるということ、それ程人間の罪は深く、重く、簡単になくならないということを意味します。
しかし、神様はこれらのことは来るべきことの予表として示されていると解釈されます。つまり全人類の罪を背負うスケープゴートを神の子、イエス・キリストに引き受けさせて、それもただ一回だけで完全に罪の贖いを成し遂げられるようにされ、それを2000年前の十字架刑で実現させました。そのことが記されているのが新約聖書のヘブライ人への手紙9:12-15です。動物犠牲はもはや必要はなく、一度のキリストの犠牲のおかげで、全ての人の罪の贖いがなされ(つまり罪が赦されるということ)、それだけでなく、キリストを神は復活させ、その救いを信じた者が神様の子とされ、天国に迎えられ、永遠の命を与えられ、天での永遠の資産を受け継ぐことができるとの約束が与えられています。そして、信じた者のうちに、聖霊が与えられるので、その働きで、徐々に罪を犯さないように内側の心が変えられていくという希望があります。
クリスチャンというのは、何か清くなってから、聖書の知識を得てから、修行をしてから「なります」というのではなく、ありのままで信じて、洗礼を受けクリスチャンとされ、洗礼の儀式の意味するところは古い自分のお葬式、新しい自分の誕生日として新しいスタートが始まることであり、内側の性質がキリストに倣って、神様の愛を他者に表わせるように変えられていくという希望が、信仰と共に与えられます。神様は、全ての人をこの神様の救いへと招いておられます。私たちがすることは、その招きを信じて受け取るだけです。そして、見た目は変わらなくとも(変わる人もいますが)、その人の内側が日々新しく造り変えられていく、この世において新しい生き方に生きるという、神様の計り知れない不思議な恵みが与えられることは感謝です。