聖書の学び 出エジプト記33章 「共にいてください」神の臨在の願い | ester-chanのブログ

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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 金の子牛事件(イスラエルの民が金の子牛の像を造って神として拝んだこと)により、神様はイスラエルの民に対して怒られましたが、モーセの必死の執り成しで民を滅ぼすことはしませんでした。神様は、簡単に言うと「今後、わたしはあなたたちと共にいない。使い(天使)を遣わすからそれによって約束の地へ上っていきなさい」とモーセに言われ、そのことを民に伝えると民は悲しんだと記されています。神様は民があまりにもかたくなで、おそらくまた同じことを繰り返しかねない、神様に対して逆らう性質の民だと分かっていたので「かたくなな民」と神様は言われました。

 モーセはその神様のお言葉に対して、再び神様と交渉を始めます。つまり、モーセとしては神様にこの民と共にいてほしいのです。そのための宿営の真ん中に幕屋という、神様を礼拝する場所を建てる指示を神様から頂いたし、神様は霊的存在なので目には見えませんが、共におられることを栄光という形でご自身を顕わされます。それが強い光だったり、雲や火の中だったりしますが、モーセは神様に、天使でなくて、あなたがこの民と共にいてください、一緒に約束の地まで上ってください(15-16節)と大胆にお願いし、更に神様に臨在してくださること、そして神様の栄光の顕われを見せてくださいとまで迫ります(18節)。それに対して、神様はモーセの願いを聞き入れてくださいます(17節)。しかし、神様ご自身を直接見せることは出来ないので(人が神様を直に見たら死んでしまうと言われました20節)、神様の栄光がモーセの前を通り過ぎる時、神様の後ろを見ることが出来るようにと、岩の裂け目にモーセを入れて、通り過ぎられました(21-23節)。

 モーセは、イスラエルの民が頑なであっても、シナイ山の麓で、神様はこの民と契約をしてくださったこと、それゆえ、イスラエル民は神の民、契約の民であることに訴えて、神様がこの民の中に臨在してくださいとお願いしたのです。モーセのこの大胆な執り成しの姿は、イエス様の執り成しを想起させます。

 現代の私たちは、神の御子イエス・キリストを救い主として信じれば、神の霊、聖霊が心の内側に与えられます。すると、聖霊が私たちの内におられるので、神様が共に聖霊として臨在してくださります。聖霊は五感で感じらることが難しいので、わたしたちはそのことを聖書に示される御言葉で信じ、信仰で受け止めています。一方で、黙想をして祈っていると、神様の声が内側から聞こえる場合もあります。それは素晴らしい体験でありますが、忙しい世の中に住んでいると、なかなかそのような黙想の時、神様と向き合う静かな神様との語らいの時を持つことは難しいかもしれません。モーセは、この章で臨在の幕屋というのを民の宿営の外に別に立てて、そこで神様と語ったと記されていますが(7-11節)、現代でもわたしたちは、一人静かにできる空間があれば臨在の幕屋が可能であると言えます。また、不思議なことに、聖書に書かれていることが本当に自分のこととして理解できたり、私たちの思いにいわゆるインスピレーション的に、神の御心にそった思いが与えられたり、結果的に神が導いて下さったことを知ることで、聖霊が働かれていることが理解できます。逆に言いますと、信仰生活の上で聖霊の臨在は必須であります。モーセの時代は、まだイエス様が来られる前の段階でしたので、モーセという仲介者が神様との間を取り持って下さり、必死に共にいてくださるように頼み、神様はモーセが頼まなくてもその必要をご存じなのかもしれませんが、このように神様は人と会話をなさる、コミュニケーションを取って下さる方です。

 現代の私たちは、イエス・キリストの名によって神様へ祈ることが出来ることは幸いです。イエス様が神様と人間の間の完全な仲保者となってくださっていること、今でも天で私たちを神様にいつも執り成してくださること(ローマの信徒への手紙8・34)は、本当に感謝であり、心強いことです。