礼拝メッセージ「主が憐れみ、あなたにして下さったことを知らせなさい」 マルコ5:18-20 | ester-chanのブログ

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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

〇悪霊に憑りつかれていた男を救い出すイエス様
 イエス様はあえて、マルコ4:35「向こう岸へ渡ろう」と弟子達に言われて、夕方弟子たちと舟に乗った理由は、このゲラサ人の地方の汚れた霊に取りつかれた人を解放するためでした。この地方は、ヨルダン川の東側の地区で、イスラエルの12部族でいいますとガド族が割り当てられた土地だったとも言われます。
マルコによる福音書は、本日の箇所のようにイエス様が汚れた霊や悪霊に対して持つ力を強調し、これらの霊に憑かれた人々から悪霊を追い出して救い出す記事を詳しく記しているとされます。悪魔や悪霊の起源は、黙示録第12章によれば神に反逆した天使が悪魔で、その仲間とともに天から地に落とされたと記されています。天使も神様の被造物ですから、神様、イエス様の圧倒的な力には及ばないということが、例えばマルコ3:11-12に「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して」とあるように、イエス様が神の子であり、その力の前にひれ伏すしかない存在であることがわかります。しかし人間からすると、悪魔や悪霊は超人間的力を持ち、目に見えない、なんとも恐ろしい存在として捉えられます。しかし、これらの天使的な、霊的存在、目に見えない勢力については、パウロはそれらをもってしても、「キリストに表される神の愛からわたしたちを引き離すことができない」と宣言しているので(ローマ8:31)、わたしたちはキリストにあって恐れる必要はないといえます。
 この悪霊につかれた男性の様子を読むと胸が痛みます(マルコ5:3-5)。この非人間的状況、裸で墓場に住み、昼も夜も墓場や山で叫び、自傷行為をし、彼が暴れるので人々は鎖や足かせで縛ろうとしたのに、それを引きちぎってしまう、そんな人がわたしたちの身内にいたら、どう思うでしょうか。現代でも、原因は必ずしも悪霊につかれていることが原因とは言えませんが、たとえば薬物中毒や、何らかの精神病もしくは生まれつきの障害があって暴れまわり、自傷行為をし、人とコミュニケ―ションもとれず、薬を打たれて閉鎖病棟に入院させられている人、施設で一生暮らしている人も現実にはいます。そういう方々をかわいそうにと思う心を、わたしたちは持つ機会があるでしょうか。もしくは、「怖い」と恐れて近づかないように距離を保つでしょうか。
 イエス様は当時のパレスチナ地方で、医療も福祉もない時代、病気やうまれつきの障がいで苦しむ人々、悪霊につかれて正気が保てない人々を見ると、「かわいそうに」と憐みの心をもたれ、病を癒し、悪霊を追い出されました。そして、弟子たちにもその権能を与え、神の国の福音を宣べ伝えさせながら、イエス様と同じように、苦しみから人々を解放する業を行っていたことが福音書に記されています。本日の箇所も同様ですが、他の悪霊追出しと少し異なる、ユニークな点を見ることができます。
 イエス様はこの男と出会うと、すぐさま彼に取りついている悪霊に「汚れた霊、この人から出て行け」と命じていたので(5:8)、悪霊たち(イエス様に名を聞かれて、「レギオン」と答えたのは、それがローマ軍隊の単位で6000人の部隊の名で、それほど多くの悪霊がこの男の体に入っていたことになります)は、まず、イエス様が神の子であるとわかり、ひれ伏してお願いします。6節「いと高き神の子イエス、構わないでくれ、後生だから、苦しめないでほしい」とお願いします。「後生だから~してほしい」という訳より、原語の聖書では「神によって」という言葉が書かれてあり、それを生かして訳すと「神に誓ってお願いする、苦しめないでくれ」 英語訳In God’s name don’t torture me!”となります。10節で「そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに(何度も)願った」とあります。ルカによる福音書の並行記事(ルカ8:31)によれば、彼らは底なしの淵へ行けと命令しないよう懇願していたと記されています。底なしの淵とは黙示録20:3に出てきますが、最終的に悪魔と悪霊が閉じこめられる場所として記されていますが、そこへ行く前に、彼らは地上でのさらなる自由、つまり人に乗り打ってその人を苦しめ滅ぼそうとする活動、つまりこのゲラサ地方にいて、人々を悪霊の支配下に置きたかったのでしょう。汚れた霊どもは、イエス様の権威ある神の力を知っていたので、せめて豚の群れにのり移らさせてくれて願います。そして悪霊が2000匹の豚の群れに入り、豚は崖から湖になだれおち、湖へ落ちておぼれて死んだと13節に記されます。豚は急にたくさんの霊が入ったのでおそらく驚いて制御がきかずこうなってしまったのでしょう。のりうつった豚の肉体が死ぬとともに汚れた霊も滅ぼされたでしょう。

〇「恐れ」の支配からの解放 「完全な愛は恐れを締め出す」
 この男はイエス様により悪霊の支配から解放され、「服を来て、正気になって座っている」15節、人間らしさを回復できました。この狂人だった人が普通の人に戻れたという素晴らしい奇跡を見て、この地方の人々の反応はどうだったでしょうか。他のイエス様の奇跡の箇所を見ると、こんなことが起こるとはと神を恐れたり(マルコ4:41)、神を賛美したとあります(マルコ2:12)。苦しんでいた人が良くなって、共に喜べないでしょか? よかったねと。しかし、この地方の人々の反応は恐れと、イエス様にここから出て行ってほしいとの願いでした(17節)。ルカでは「彼らは、すっかり恐れに取りつかれていたのである」(8:37)と記されています。つまり、彼らはイエスに自分たちの地域でこれ以上、こんな活動をしてもらいたくないということです。理由はもしかしたら経済的損失かもしれません(豚の群れを失う)。人より豚が大切、いや彼らの利益が大切なのです。そもそも豚を飼うこと自体 律法では違法なので(豚は食べてはいけない動物)、彼らは律法に従わず、異教徒と同じように生活していたことが分かります。とにかく、今のままでいたいので、騒ぎを起こさないでほしいということです。彼らの態度は、ほおっておいてほしい、このままでいたいという、罪の中にとどまりたいという人と共通点があります。
 つまり、彼らは光であるイエス様がこの世にこられて、世を照らされても、暗闇の中にとどまることを好み、光を拒否してしまう人々です。不自由であるけれども、真の自由になることを拒む、そのままでいたいという、罪と死の暗闇にいることを望んでしまう人々です。もしかしたら、その悪の力にあまりにも長い時間なじんでしまい、変化を恐れる、もしくは絶望して諦めていて、光のほうへ踏み出せないのかもしれません。しかし、イエス様のその暗闇から解放するために、この世に来られたのであり、不可能を可能にするために来られたのです。様々なことに縛られていて、諦めている人々は、恐れに支配されている人々は現代の日本でもいます。捕らわれている形が異なるだけです。オンラインカジノにはまり、借金に苦しむ、犯罪に手を染めてしまう、借金のかたで売春をさせられている人たち、人をいじめたり、虐待することで自分のストレスを発散させてしまうような心を持ち、そこから抜け出せない人々、選択の余地もなく戦争をしている国に生まれ育っている人々のことをイエス様は見捨てられないはずです。イエス様は人々を恐れから、罪と死から解放するためにこの世に来てくださいました。「愛にはおそれがない。完全な愛は恐れを締め出します」(ヨハネの手紙1 5:18)とあり、イエス様は完全な愛を持たれているからです。
 イエス様はこう宣言されました。ルカ4:18-21  (詩編61:1-2 70人訳)
 「『主の霊がわたしの上におられる

 貧しい人に福音を告げ知らせるために 

 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、

 目の見えない人に視力の回復を告げ、

 圧迫されている人を自由にし、

 主の恵みの年を告げるためである。』

 …そしてこの聖書の言葉が今日、あなたがた耳にした時、実現した。」と言われました。

〇宣教の業に派遣される
 一方、この解放された男のお願いは、ゲラサの人々とは対照的でした。彼のお願いは「イエス様といっしょにいたいのですが」でした。こんな劇的な体験をして変えられたこの人が、自分を救ってくださった方についていきたいと思うのは自然なことでしょう。実際、マグダラのマリアという人は、7つの悪霊にとりつかれていたのをイエス様が追い出して下さり、その後から、弟子達と共にイエス様に従っていったとされ、彼女は他の女性たちとともに復活のイエス様に最初に出会うことになります。しかし、彼のケースは異なりました。イエス様は彼に19節「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われました。家にかえって、家族に、彼の地域へ宣教師として任命されたのです。なぜならこの「言い広めた」というこの言葉は、マルコでは福音を「伝える」という語として頻出して使われています。イエス様はこの男には弟子として一緒に宣教旅行をするのではなく、生き証人として、この暗闇にとどまっている人々に、イエス様の御業にあらわされる神様の愛、憐れみ、恵みを告げ知らせる役目を与えられました。彼は劇的に人生が変えられ、その喜びと神様への感謝が彼の宣教、福音を宣べ伝える原動力となったのでしょう。またイエス様はご自身が宣教旅行へ行かれない場所へ彼を代わりに派遣された可能性もあります。もしくは、行かれたとしても事前に彼を遣わして、人々の心を準備させた役割を任じられたかもしれません。いずれにしても、この人はイエス様に従い、主が自分にしてくださったこと、どんなに憐れみ深いかをことごとくデカポリス地方に言い広め始めたので、人々は驚いたのでした。この人は非人間的な状況、狂人として人々から疎外されていたのに、神様の憐れみにより、神様がそこから解放してくださったという、驚くべき体験を、「この地方から出て行ってほしい」と頼むような暗闇にいることを求める人々に、光にでることを勧めるために、イエス様は、この地方の人々を見捨てず、彼を宣教の務めに送り出されたのでした。この人の出来事は、イエス様によって悪霊から解放されて、終わりではないのです。救われた後、その人の生き方も変えられ、神様に用いられるという証しを、私たちにも示しているのではないでしょうか。そして、私たちは、イエス様の側に実際一緒についていけなくとも、聖霊が一人一人に与えられ、イエス様が共にいて下さるという幸いに預かっています。
 現代でも、闇の力に縛られている人々、奴隷状態にされている人々、精神的にとじこもってしまっている人々、様々な圧力により苦しんでいる人々。神様はこれらの人々を自由にすることが出来ると信じ、その方々のために執り成しの祈りをしていきたいと思わされます。私たちも、イエス様によって罪と死から解放され、以前縛られていた見えない鎖や足かせから解放されたこと、キリストにあって自由となったことを思い起こし、改めて深く感謝したいと思います。神様がわたしたちをかわいそうにと思い、憐れんでくださったその愛は、私たちの救いのためにご自身の御子イエス様を十字架で犠牲になさったことにあらわされます。
 私たちはそのような人々と直接、今の生活の中で出会う機会がないかもしれません。教会という共同体は、そのような困っているひとの話を聞く場所として本当はあるべきなのかもしれません。どうしたら、キリスト教に興味がない、教会の存在を知らない人々に、神様の愛を表すために、わたしたちが何か具体的なことができなくとも、ただ相談になる、話を聞くという形で、寄り添うことができるのでしょうか。その人たちのために祈ることを始めれば、神様が人を送ってくださる、または何かきっかけになることを示してくれると信じます。
 そして、主が今も、目に見えなくとも私たちと共にいてくださり、共に歩んで下さることを信仰で受け取り、また私たちの生活の中で主が働かれていることを感じ、認識し、教会の働きにおいて、聖霊の導きにより、キリストの福音を告げ知らせるための何らかの働きが与えられるように求めて、キリストの支配する神の国が広がるように、祈り求めていきましょう。