〇天地創造の前の選びと神の秘められた計画
本日の箇所、エフェソの信徒への手紙は、著者はパウロとされ、彼が伝道して建てたエフェソの教会の信徒へ宛てた手紙でありますが、この手紙はエフェソだけでなく、公同書簡のように他の教会にも回覧されていたと言われています。
15節「こういわけで」というのは、1:1-14節の内容を受けています。概略を述べますと、神がイエス・キリストにあってわたしたちの救いのために「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(1:4)、神様はご自分の計画を遂行し、神の恵みによって「この御子において、その血によって贖われ、罪を赦され」(1:7)、イエス・キリストによって救いの御業が完成され、キリストによってすべてのものが一つにまとめられ、私たちが福音を聞きキリストを信じて、約束された聖霊が与えられたこと(13節)、その聖霊は御国の相続分の保証(手付金)であり、わたしたちは、完全な救済への神の約束を待ち望みつつ、神の栄光をたたえる、賛美・礼拝することになること(14節)を受けています。
ここはパウロの祈りが記されている箇所です。まず、15-16節でエフェソの信徒の信仰と彼らの間にある愛について、他の人から聞いているので、そのことを神様へ感謝していること、たえず、彼が祈るときに、エフェソの人々のことを思い起こして神様へ感謝を表しています。パウロが伝道旅行で約2年間滞在して彼らにキリストの福音を教え、ユダヤ人もギリシャ人も多くの人がパウロの教えを聞き(使徒19章)、その信仰の内に他者との共に生きる生の中でキリストから頂いた愛がはぐぐまれ、実行されていくということを聞いた時、パウロはどんなに嬉しかったでしょうか。互いに愛し合っている教会、共同体、つまり神の国がそこに広がっている様子を聞いて、神様に感謝をまず捧げています。
〇パウロのエフェソの信徒のための執り成しの祈り
続いて、彼らために3つの執り成しの祈りをしるしています。
一つ目は、神様を深く知るために、知恵と啓示の霊があたえられるように。彼らの心の眼が開かれるようになるということを祈っています。聖霊に照らされると心の眼が開かれて、神様のことを深くするようになる、理解できるようになるということです。エフェソの信徒の人々のためだけでなく、私たちに対する祈りとしてとらえることが出来ます。パウロは1コリント2・9-12で
「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。 11人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」
パウロはここでも、神の霊によってしか、神のことを知ることはできないと説明しているとおりです。私たちは聖書を読んで、説教を聞いても、またまだ神様についてわからないことがたくさんあります。一方で、何度も読んだ箇所を読んでも、以前と違う、新たな理解が与えられたり、気づきがあったりします。それは聖霊の働きです。ですから、それはこのパウロの祈りがわたしたちのためにも聞かれているということでしょう。
二つ目の執り成しの祈りは、18節「そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」とあるように、どのような希望がわたしたちに与えられているかとわたしたちが相続するものがどれほど豊かなのかを悟ることが出来るようにと祈っています。この希望は遠い将来の希望のことだけではなく、今この世でキリスト者として生きる上での、神の招きに関する希望と言えます。つまり、各々が今おかれている職業、今の生活を含めたキリスト者の生き方において、神様の御心にそってこの世でのあゆみに関わる希望です。苦難や困難、悲しみにあっても、神が共にいて下さり、聖霊が私たちの言葉にならない呻きを執り成し(ローマ8・26)、天におられるキリストも執り成して下さっているので(ローマ8・34)大丈夫であるという、その約束に基づく安心が希望につながり、困難の中にあっても私たちを神の愛から引き離すものはないという希望です(ローマ5・3-5、8・35-39)。
そして聖なる者たちの受け継ぐものに関しては天国でのことなので、これは将来のことであります。天国での相続財産については、1ペトロの手紙1・4にも「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼなない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」と記されています。エフェソの信徒への手紙はコロサイの信徒への手紙と非常に構成的にも類似しているところがありますが、そのコロサイの信徒への手紙 1:12でのパウロの祈りは「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。」と記されています。つまり、天国にいる聖なる者たちがいて神から相続している分があり、それがどんなに栄光に輝いたもの豊かなものであるかを私たちが知り、それを将来私たちも与れる(1・14)と理解できるようにという祈りでしょう。
〇絶大な働きをなさる神の力を悟れるように
3つ目は19節「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」と信仰者に対して働かれる神の力を悟ることを祈っています。
「わたしたち」に働く神の力を知るには、私たち自らがそれを体験して知ることであり、具体的な出来事で、神の御心がなっていると、そのように事が進んでいき、それに従って自らも行動していて知ることできます。私たちの常識的な考え方では、起こり得ないような、不思議な形で物事が解決したり、展開したりする時、それが神様の力が働かれると知ることができるでしょう。
そしてその神様の力というのがどれ程かというのは、イエス様を死者の中から復活させた力、そして天で神様の右の座につかせて、すべての支配・権威・勢力・主権の上に置き、すべてのものをキリストの足元に従わせる程とあります(20-22節)。つまり、キリストが昇天しておられることに関わってきます。
『右の座に就く』というのは、詩編110編1節からの引用です。「わが主に賜った主の御言葉。『私の右の座に就くがよい。私はあなたの敵をあなたの足台としよう』」。右の座につくとは、神様の右側につくという意味で、神様と同等の権威を持つことを意味するそうです。イエス様ご自身も、十字架に掛けられる前に最高法院で裁判にかけられていた時、「お前がメシアならそうだというがよい」と言われたことに対して、「しかし、今からの後、人の子は全能の神の右に座る」と言われています(ルカ22・69、他並行記事)。つまり、神様の力とは、イエス様を死から甦らせて、天に昇らせ、神様の右において神様と同じ権威をもち、すべての支配・権威・勢力・主権をイエス・キリストの足元に置かれる、つまり万物を支配されるという絶大な働きをされるイエス様を通して現わされる力であります。
それでは、どのようにこのキリストにおいて神様の力が私たちにも及ぶのでしょうか。22節「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」と、すべてを超越して支配されるキリストを頭として、キリストの体である教会に与えることによるとパウロは説明しています。私たちはキリストと結ばれていて、キリストの体に組み入れられているというイメージをパウロは1コリント12・12-27で、
「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」と記し。教会はキリストの体であるというのはパウロの重要な思想の一つで、キリスト者は皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったと記しています。一つの体であるというその一体性を、エフェソの信徒への手紙ではさらに、キリストがその体の「頭」であると記し、キリストを頭とする体が、教会の一致を説明するためのイメージとして用いられています。神の御心の計らい(秘められた計画、1・9、3・3)は、人種が異なっても社会での階級が違っても、信じる信仰で同じキリストの体となって、一致へと向かうように成長していくことであり、エフェソ3・6では「異邦人も福音によって同じ体に属する者、同じ約束に預かる者」ということを記しています。つまり、手紙の著者はここでの「教会」を、一つの地域的教会というよりも、キリストに結ばれた使徒と預言者の上に基礎を置く、すべての信徒を含むひとつの公同の(普遍的な)教会を想定して記しているからです。公同の教会とは、個々の地域の教会の基礎となる、目に見えない全体的なキリストの体、教会のことを言います。つまり場所、人種等の人間の条件、時間にを越えた、普遍的な、一つの世界的教会であるといことです。
〇すべての教会の頭であり、天におられるキリスト
こうして、神様はキリストを全てのものの上にある頭として教会に与え、キリストの体として結ばれている教会は、体の頭であるキリストの祝福と救いの力が流れこむ場となるという幸いを「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」(22節後半)として述べています。つまり、天に昇られ、神様の右の座につかれているキリストが、今日に生きるすべての教会を一つにし、復活されたキリストは、今もその圧倒的な力と支配力を持っておられることを私たちは常に忘れてはならないと思います。たとえこの世が戦争や、災害、犯罪がおこり、平和とは程遠い状態であっても、すれらをもキリストが支配しておられるということです。従って、キリストに結ばれている私たちは苦難や試練の中にあっても、このキリストと一体となっている教会という場に神様の力が働いてくださり、キリストの満ち溢れる恵みの中に一人一人が置かれているということを確認し、日々励まされます。
また私たちの本国が天にあること(フィリピ3・20)、そしてそこへ向かっての私たちの地上の歩みがあり、神様のご計画とキリストの支配がやがて完成となる時を待ち望むという信仰の姿勢をこのパウロの祈りから学ぶことができます。私たちはこのキリストにある希望を常に抱きつつ、今の時間、歴史の中を歩んでいけるよう互いに、祈っていきたいと願います。
(新共同訳聖書引用)