〇ギリシャ人がイエスに会いたいと願う理由
あるギリシャ人たちがイエス様と会いたいと弟子のフィリポにお願いし、フィリポはアンデレに相談して、そのことをイエス様に伝えました。どうしてギリシャ人がユダヤ教の神様を礼拝しにエルサレムへ来ていたのでしょうか。当時、エルサレムから離散したユダヤ人たちが地中海周辺の世界各地に住んでいたので、ユダヤ教では、神に選ばれたイスラエルの民(ユダヤ人)という選民意識が強く、彼らはこの場所へ住んでも律法を守り、彼らの伝統・文化を保ち続けていました。ギリシャ人の中でも、彼らの影響を受け、ユダヤ教に改宗した人や、改宗をしていなくともユダヤ教の神を畏れて神殿に巡礼し、祈っていた人々も当時いたそうです。このギリシャ人は、そのような人でエルサレムの神殿に礼拝にきていた人たちだったと思われます。
このギリシャ人がなぜイエス様と話したいと思ったのでしょうか。おそらく彼は、イエス様の話を神殿の境内で聞き、そして、イエス様が神殿に入られてから、境内で売り買いしていた人々を追出し、両替人の台を倒して、「わたしの家はすべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところがあなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」(マルコ11:15)p84と言われたことも見ていたかもしれません。そして彼はイエス様がユダヤ人の神殿を「すべての国の人の祈りの家」と言われたことに、つまりこの神殿はユダヤ人だけのものではなく、自分たちギリシャ人も含めたすべての人のための、神への祈りの家でもある、ということに引き付けられた。つまり、自分は神様に祈りたい、信じたいと思っていても、ユダヤ人でなくてはだめだ、割礼を受けて改宗者とならなければだめだ、律法を守る者にしかアクセスできない敷居の高い宗教だと思っていたとしたら、このメシアだと言われているイエスは、そのような隔ての壁を取り除くような方かもしれないという希望が、このギリシャ人にはあったのではないか、と思うのです。
〇人の子が栄光を受ける時
これに対しイエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)と言われました。イエス様がこのギリシャ人と直接話されたことは記されていませんが、異邦人であるギリシャ人がイエス様を求めてきたことを受けてこう言われたのです。この「栄光を受ける時」とは、十字架、復活、昇天のことです。イエス様が十字架の死によって、多くの人々が、つまりユダヤ人だけでなくギリシャ人も含むすべての人に永遠の命が与えられ、生かされる時が来たからです。
このヨハネの福音書ではイエスが神から遣わされた救い主であり、その任務を全うする姿を、十字架での苦難、苦しみとして描写せず、続く復活・昇天とともに神の栄光が現れること、また死に対する勝利として記しています。そしてこの栄光が現わされる時、全ての人にイエスの福音が伝えられ、キリストを信じる共同体(教会)が形成されることが神の栄光が現わされることでもあり、その時がきたと、ギリシャ人の来訪をもとに言われたのではないでしょうか。
〇一粒の麦が死ぬと多くの実を結ぶという意味
そしてイエス様は一粒の麦の話をなさります。麦一粒は、地にまかれなければ一粒のままです。しかし、他の種も同様ですが、地に蒔かれて、麦の皮が破られて、新しい命が芽をだす、そして葉がなり、幹がのび、いくつもの麦の穂が育っていくことを、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままであるが、死ねば多くの実を結ぶとイエス様は譬えられたのです。種が発芽することを死ぬと表現されています。この一粒はイエス様ご自身の十字架の死を指し、それによって多くの人が永遠の命を得ることを示します。
また一粒の麦から実った多くの麦の一粒一粒が、次の収穫のための種となり得ます。種がその中に命を持つように、神の命も次の種に受け継がれ、そこから豊かに実を結ぶことができます。一粒の麦が示すことは、イエス様の死を通してすべての人がイエスに引き寄せられることを続く32節でイエス様は言われています。(12:32)「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」そして私たちイエス様から頂いた永遠の命を、他者に繋いでいく者として用いられます。
<Oさんの話> 約50年前、Oさんの当時7歳だった長女さんが脳腫瘍となり、彼女が教会付属の幼稚園児だったので、病床で洗礼を受けて召天した。以降、Oさん夫婦はその教会の召天者記念礼拝を通して、教会と共に娘さんを偲び、教会と交流を保っていたが、この1月にお連れ合いを亡くされた。現在は益子町に一人で暮らしで、ご自身も癌の末期という状態を抱え、近隣に住む三女さんが日々支えています。次第にOさんは神様を信じて娘と一緒の天国に入りたいという思いが強くなり、残る人生はキリストを信じて教会の礼拝に行こうと思い、洗礼を受けられた。この7歳だった娘さんは一粒の麦になられたと言えるのではないでしょうか。彼女の命の種が蒔かれて50年後、芽をだした、つまり岡田さんご家族へ永遠の命が受け継がれていったのです。
一粒の麦は、必ずしもこの体の命が死んで他者へ影響を及ぼすケースだけに限られません。この一粒の麦の聖書の言葉を通して、生かされながら、多くの命のために神様から用いられて、この御言葉によりキリストが与えられた命を他者へ、私たちを通して繋ぐことは可能です。なぜなら神の言葉に力があるからです。
〇永遠の命に至る
ヨハネ12章25節で、イエス様はイエス様に仕えようとする者について説明されています。人が自分の肉の命を守ろう(自分の命を愛し)として、イエス様に従わないならば、イエス様の与える永遠の命を失うことになるが、自分の肉の命を憎んで、つまり自分の命より主イエスに従うこと、イエス様を信じぬく人は永遠の命を持ち続けるという約束をされています。私たちは、イエス様を信じて、弟子として仕えようと願います。弟子の覚悟については、他の福音書でも「私に従いたいと思うものは、自分を捨て自分の十字架を背負ってしたがいなさい」とイエス様が言われていますが、ヨハネ福音書では「十字架を背負って自分を捨てる」という表現の代わりに、「わたしに仕えたいと思う者は私に従いなさい」と言われています。
私たちは日常生活の中で、常にイエスに従うか従わないかが問われます。パウロもキリスト者のことを、「私たちは罪に死んで、神に対していきる」(ローマ6:11)と言っています。自分は主イエスに自身を明け渡しているか、それはキリストに仕えるか、自分に仕えるか、神の栄光を受けとるか、自分を喜ばせるかの2者択一です。そしてキリストに仕えるとは、目の前の他者に仕えることになります。
また、同時にイエス様から永遠の命を頂いたひとは、自分のこの肉の体の命を失う危険があっても、つまり迫害などで殺されたとしても、永遠の命は失われないということをも意味します。すると、イエスに従う人は、イエス様のいるところにいることができ、天の父はその人を大切にしてくださるといわれます。この「いる」が意味することですが、イエス様が最後の弟子達への説教の中(ヨハネ14章20節、17章23節)で、父と御子との一体性を、そして御子と弟子たちが一つになることを表現するのに「いる」が使われています。ここでもわたしたちを一つにして下さり、神様が大切にしてくださるという約束を言われています。
ヨハネ福音書記者は、イエス様の「種まきのたとえ話」を知っていたはずです。彼はその譬えをそのまま記さず、どこに蒔かれても、たとえ実を結ばない種があったとしても、いずれにしても種は地に蒔かれると死ぬけれども、その種が実を結べば豊かに実をむすび、それらが次の麦の種となり、命が受け継がれていくことを記しています。私たちも、そのキリストが与える永遠の命に連なる者とされていることを深く受け止め、私たちを通して命を繋げられるように祈り求め、聖霊の助けを得て、キリストに仕えるよう他者に仕えていきたいと願います。
(引用:新共同訳聖書)