イスラエルの人々はエジプトから脱出し、荒野の旅路を続け2ケ月目となりました。荒野では食べ物が十分に得られないという問題に突き当たりました。確かに、今迄エジプトでは奴隷の生活ながらも、彼らは肉、魚、キュウリ、スイカ、にら、たまねぎ、にんにくなどを食べていたようですから(11:45)、いきなり荒野での移動生活となり、家畜も連れてきたので乳製品を食べることは出来たかもしれませんが、移動しているために家畜を肉にするという工程も出来ずにいました。そして、直前で砂漠のオアシスにて水となつめやし(15:27)を得ることができましたが、この先、旅を続けていく上で先が見えない状態だったのでしょう。不安になるのはわかりますが、今まで神様の素晴らしい奇跡や救出を体験してきたので、不平をいうのではなく、「食べものはどのように得られるのですか?」と聞けばよかったのです。しかし彼らは、水がない時も「何を飲んだらよいのか」と不平を言ったように(15:24)、今回も不平をモーセとアロンに言いました。「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(16:3)このモーセとアロンに向けられた不平を主なる神様が聞き、モーセに「天からパンを降らせる。」と言われました。そして、民がモーセとアロンに向かってではなく、実は、主に向かって不平をのべているということを、はっきり言われましたが(8節)、民は相変わらず、神様の言われた指示を聞かないという、頑なだったことが続いて記されています。
マナとは「これは何?」(15節)という意味だそうです。これは毎朝地表を霜のように覆い、それを集めて食べると、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェハースのような味がする食べ物でした。5日間は確認人数分をこのマナを集めて、その日に全部食べ切ること、6日目は2日分を集め、7日目は安息日だからマナが降らないので、自分の所にとどまり、家にいなさいと神様は指示されました。これが天からのパンで、この後、人の住んでいる土地につくまで40年にわたってこのマナを食べることになります(35節)。新約聖書でイエス様は、この肉体の必要を満たす天からのマナと対比させ、天からの霊的ないのちを与えるまことのパンが、ご自身であることを言われました(ヨハネによる福音書6:32-35)。このイエスを食べる(信じる)者は、決して死ぬことがなく、永遠に生きると(6:35,48-51)。旧約聖書の事は、様々な形で、予表としてイエス・キリストの救いの御業をこのように指し示しています。
イスラエルの民族は40年間、シナイ半島をテント生活でぐるぐる移動して、カナンの地へ到着することになります。彼らにはその期間が必要だったと、出エジプト記、民数記を読んでいくと分かります。そして、その荒野での40年の生活を通して、神様が彼らを支え、神様の与える掟に従うかどうかを試し、神の民として訓練していくのに必要だったのです。
荒野の40年にように、私たちの人生においても、もしかしたら単調で、実りがないように思える、忍耐を強いられる時期があるかもしれません。また、物価が上がり、失業し、生活に困るのではないかという不安に駆られるかもせいません。しかし、その試練の時期は、私たちに必要な時期であり、無駄なことはなく、全てを益と変えて下さる神様の約束(ローマの信徒への手紙8:28)を信じ、神様に委ねていきたいと思います。そして今日の必要が満たされるなら、明日の事を思い煩わなくてよいという主イエス様の約束(マタイによる福音書6:34)を信じ、不平ではなく、「日々の糧を与えてください」と信頼して祈ればよいのです。そして神様の時、タイミングに、新たな展開が開かれるまで、今与えられている恵を感謝し、神様の御言葉に示されて地道になすべきことを続けていきたい、そのような姿勢をこの出エジプトの40年から学ばせられます。