半年前の夏、私は財布を失くしてしまいました。最後に使ったのは郵便局。その後財布を手に持って車に乗ったはずなのですが、そのあたりも曖昧で、いつ、どこで失くしたか記憶が飛んでいたのです。車の中、郵便局の駐車場、家の中もすべて探しましたが見つかりませんでした。警察に届け、運転免許証、その他カード類をすべて再発行の手続きを行い、拾った人が届けてくれないかと期待しましたが、結局何の連絡もなく、失われたままでした。 ところが先日、他の探し物をするために夫と二人で居間を片付けていた時のことです。埃がたまった棚の下を除くと、奥の方に何かが落ちているのを見つけ、床にはいつくばってそれを引き寄せました。なんとそれは半年前に失くした財布だったのです!無くなったものと諦めていたので、驚きでしばらく呆然としましたが、とても嬉しかったので、家族や、教会に来ている方々にこの喜びを分かち合い、皆さんも喜んで下さいました。
私は無くした銀貨の譬え話を思い起こしました。ある女性が銀貨を10枚持っていましたが、一枚がなくなり、ともし火をつけ、家をはいて、見つけるまで念をいれて探し、見つけました。するとその人は友達や近所の女性たちを呼び集めて「無くした銀貨をみつけたのよ、一緒に喜んで下さい!」と言ったのです。このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがあると、イエス様は譬えの内容を解説されます*。ここで「罪人」(つみびと)というのは、神様から離れている状態の人のことを意味します。つまり、人は神によって創造された存在であることを認めず、神を否定し、神を知らずに自分で善悪を決めて人生を歩んでいる人です。その結果が今の世の中の有り様ではないでしょうか。
聖書に記される神様は、一人の人が神様を信じて戻ってきてほしいと願われていて、ただ待っているだけでなく積極的に探し、見つけ出そうとし、なんとか救い出したいと思われる、憐れみ深い方です。その神様の慈愛の思いが現わされているのが、この世に人となってきてくださった神の子、イエス・キリストです。キリストは人類の罪を全て負われて、その罪の責めを代わりに引き受けて十字架刑で死んでくださいました。そして3日後によみがえり、キリストを通してすべての人が神様のもとに戻れる道を開いてくださりました。これがキリストの福音(良い知らせ)です。私たちは自己責任だからとほおっておかれるのではなく、私たちを愛するために創られた神様は、自分の力でどうしようもない苦しい状態から解放しようと、私たちの魂に語り掛けてくださる、私たちはただ、その愛に応答すればよいだけです。私が財布を見つけて大喜びしたのなら、それに比類しない程に、失われていた人が神のもとに戻ってきたことに対して天国中で大喜びの声が上がることを考えると、その喜びを私たちも共有したいと願いつつ、日々神様が見つけて下さる方が起こされるよう祈たいと思います。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 (人の子→イエス・キリスト) ルカによる福音書19章10節
*ルカによる福音書15章7-10節