この章では、ヤコブの一族がスコテに家を建てて、滞在していた時起こった事件についてが記されています。彼の娘ディナがスコテの町に住むハモルの子シケムに強姦されてしまったのです。しかしその後、シケムは彼女に優しい態度で、自分の妻にしたいと父に願い、ハモルはヤコブに申し出ました。族長のハモルはこのことをきっかけに、イスラエルの民と縁を結ぼうとヤコブに提案。しかし、ヤコブはこの件について、はっきりとした判断を下す家長として責任をとることをしませんでした。従って、何もしない父親を見て、息子たちが怒りに任せて報復を企て、実行してしまいます。その企てとは、縁を結ぶ条件として自分たちと同じようにハモルの一族の男子はみな割礼を受けてもらいたいと、そしてそのことを了承し、その町の男子がみな割礼をうけたら、その傷が治っていない状態で皆殺しにし、その妻子と家畜を略奪するという計画です。
レイプは犯罪であり、赦されるべき行為ではありません。だからといって何十倍の仕返しを自分たちでしてしまうことも許されないことです。この報復は更なる他からの報復へと広がります。現代はそうならないためにも、犯罪を個人で扱うのではなく、司法という国家権力がその役割を担っています。当時は人々には他民族の間を裁く法律がなかったとしても、族長どうしが話し合い、しかるべき罰を当人が受ける、謝罪をするなどの措置がとられていれば、こんなことにはならなかったでしょう。ヤコブは族長として、また家長として、このことを怠ったがゆえの、更なる周辺の部族からの攻撃の危険にさらされてしまいます。
一方、このハモルも息子の不祥事を謝ることもなく、企みをしていたことが記されています。ハモルの提案(両民族の婚姻による結合、土地の使用の共有)は、「割礼を受ければ・・・彼らの家畜の群れも財産も動物もみな、我々のものになるではないか」創世記34:23と言っているように、ハモルは実はヤコブの一族を自分たちのものにしようとする意図があったことがわかります。
ヤコブの息子たちは割礼という契約信仰にかかわる行為を悪用するという、信仰的にも神に従っていたとは思えません。ヤコブの息子らの行為は、ヤコブが子供たちに対して霊的・道徳的感化力を及ぼしていなかったことの現れです。一家のあるじの信仰の堕落は家族全体に重大な影響を及ぼすということを学ばされます。もちろん、親の責任に全てするのではなく、子も、結局は大人になって神様と向き合い、自分の信仰を自分自身で確立していかなければならないでしょう。
この事件は、後のイスラエルの王ダビデ王が、息子アムノンによる異母姉妹へのレイプに対し、何もしなかったこと、それで同じ母を持つ兄のアブサロムが報復してアムノンを殺害し、さらなるダビデ一族の間での大きな流血に広がってしまった事件を想起させます。父親が家族内のリーダーシップを失うと起こる顛末、罪を犯した子と向き合わず、放置することによる子どもたちへの影響。子供の甘えを受け入れる、叱らないで優しく対応することは、その子の親への信頼、愛着のためには乳幼児期に確かに必要なことですが、それ以降の時期に悪いことは悪いと叱らない親、子供がしたことに対してその責任を取らせない親の子供への影響という、子育てについて考えさせられます。ましてや信仰に関しては(もちろん親の信仰ではなく、子供が自分自身で神を求め、信じるという決断が必要ですが)、親の信仰の姿勢はヤコブの子供たちのように影響を及ぼすという重大性を、肝に銘じ、神様の助けと知恵を求めつつ、子育てをしていきたいと思わされます。