アブラハムの孫、ヤコブについては創世記で一番多く紙面をさいて記されています。彼は前章までで、父イサクと兄エサウを騙して、父より家の継承者としての祝福を得たことにより、結局故郷をされなければならなくなりました。一つには、兄エサウの復讐から逃れる為、またもう一つにはヤコブの妻を母方の親族から迎えるために、一人で遠いハランの町へ旅にでることになったのです。母リベカの出身地ハランは、カナンの地から直線ですと約640Kmです。彼は、今まで家族に庇護の中に安全に生活してきましたが、この旅では全く一人であり、故郷で持っていたものが何一つ通用しないわけですから、どれ程孤独と、無力さを感じたことでしょうか。人が真の自立を経験するには故郷を離れ、父と母を離れなければならないでしょう。経済的にも、心理的にも子が親に依存しているうちは、自分自身の弱さと向き合えないからですし、自分のことを自分で責任を取るという経験が出来ないからです。人は、蒔いた種を自分で刈り取るような、そういう辛い目にあうことは、ある意味自立するチャンスなのかもしれません。そんな時、自分自身を省みる時であり、謙遜になれる時であり、人にも頼れず、神様を求めるチャンスでもあります。人は、たとえクリスチャンホームに育とうとも、まったく異文化、異なった宗教の家族に育とうとも、親の宗教ではなく、自分自身の神と出会う必要があります。
そんな時、神様はヤコブの夢に現れて下さいました。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていて、主なる神様が傍らに立って「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(13-15節)父イサクから聞かされて、共に神を礼拝はしていたかもしれませんが、ヤコブ個人としての神を知らなかったので、この時、アブラハム・イサクの神が、「ヤコブの神」となって下さったのです。彼は、たった一人でしたが、「わたしはあなた共にいる・・どこひっても守り…約束したことを果たすまで決して見捨てない」との神様のお言葉が、この旅路において、また今後の歩むにおいてもどんなに勇気づけられ、安心感が与えられたことでしょうか。彼はこの場所をベテル(神の家)と呼んで彼の救いの記念としました。この記念は彼の救いの原点として覚えておくためにも、また今後様々な困難なことがあった時、信仰の原点に返る必要があります。与えられたものの10分の一を捧げるという彼の誓願は、ヤコブの信仰告白と言えるでしょう。
私たちも、神様が共にいて下さるということを、イエス様を通して経験させていただいています。ヤコブの夢の天のはしご は天から降って人となられた主イエス様の救いの働きを指し示しています(ヨハネによる福音書1:51)イエス様は目には見えなくとも、共にいて下さり、守り、また聖書に記されている神様の約束が私たちにも実現し、それまで決して見捨てられることはないという、ヤコブに与えられた主の約束は、現代に生きる私たちにも与えられていることは感謝です。(引用 新共同訳聖書)