聖書箇所 ルカによる福音書5章1-11節
本日の箇所は、マタイ4章とマルコ1章にも並行記事がありますが、少しルカだけ異なっているところは、漁師たちを弟子にする前に、イエス様が説教をするために、ペトロの持ち船を借りて、岸から少し漕ぎだして話をした後、ペトロと会話しているところです。ある学者はマタイとマルコの記事とルカの記事は別の機会であり、ルカはイエス様の2回目のスカウトを記しているのではないかと言っています。そうだとすると、一度目は「わたしについてきなさい」とシモン(ペトロ)とアンデレ、ヤコブとヨハネは言われて、網を捨てて従ったけれども、完全に従ったのではなくしばらく一緒にイエス様と巡回して、また漁業に戻っていたところ、イエス様が再び彼らを弟子として呼んだとのではないかとしますが、どちらが正しいかは不明です。いずれにしても、ルカの福音書では、群衆が「神の言葉を聞くために」押し寄せてきたと記しています。イエス様にとって「神の国の福音を告げ知らせ」ることが第一であり(ルカ4:43-44)、このためにペトロの持ち舟に乗って、岸から少し漕ぎ出すように頼んだとを記しています。ルカはこの状況を教会の基いとして描いているようです。つまり、イエス様の説教壇は舟、岸辺が会衆席で、神の言葉を会衆は聴くということです。
教会で神の言葉を聞くと、私たちは変えられて行きます。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ人への手紙 4:12)とあるとおりです。ペトロはイエス様が舟の上で話していた時、一番近くでイエス様のお話を聞くことになります。今までにない権威ある教えに、ペトロはこの方はメシアかもしれないと思ったかもしれません。だから、イエス様の命令「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われて、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と自分の漁師としての経験から、そんなことをして捕れるわけないと思いつつも、イエス様の「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」とイエス様に従いました。すると、奇跡がおきたのです。捕れるはずのないところから、大量の魚が網にひっかかり、ペトロの船だけでは対応できなくて、他の船も応援に呼ぶほどの魚が捕れたのです。超自然の奇跡を起こすこの方は、人ではない?神なのか?と思わざる得ない奇跡にでくわします。つまり、シモン・ペトロはイエス様の真の姿:神を見ることが出来、同時に、神様の光の中で自分自身を見つめざるをえなくなります。すると自身の罪を認識し、罪の告白へと導かれます。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)。
ペトロを含む漁師たちは、自らもイエス様によって捕らえられ、自分の罪を認めて、神の国のわざに専念するイエスの弟子になるようにとの招きに答えて、自分の職業・生活を捨てて「人間を捕る漁師」という新しい使命を与えられました。私たちも同様に、御言葉の福音を通してイエス様と出会うと、自分の罪深さを自覚します。そして、その罪からの救いを求め、それを唯一与えて下さる方がイエス様だと知り、そして信仰に導かれます。罪の自覚のないところに、救いはありません。さらに、罪が赦されたただけで終わるのはなく、キリストの復活の力で、永遠の命が与えられ新しい自分が生きるという、恵みが与えられます。
教会とは建物ではなくと、イエス・キリストによって呼びだされた者(エクレシア)が集まる共同体であり、各々イエス様から託された任務を行う、キリストにあって一つの体であります。海はこの世の人々が住む世界であり、あらゆる海の場所へ網が投げられる。すると神様の奇跡で魚が網にかかる、つまり御言葉がその人の心に届き、イエス様の愛を知り、自身の罪を認識し、悔い改めて、イエス様を信じる信仰へと導かれる。その後、捕られた魚は、今度はそれぞれ使命が与えられ、主イエスに従う弟子と呼ばれていきます。私たちは与えられた信仰によって、深みへ(不可能な状況、無駄に見える場所においても)、網(神の言葉)を投げ続ける、それが私たちのなすべきことであり、神様が捕れた魚と例えられる人びとを救って下さいます。人を救うのは神様であり、私たちのすることは網を投げ続けること。その救いの御業に参与できることを、喜んで、主イエスに「お言葉ですから」と従っていきたいひ救うのは神様であり、私たちのすることは網を投げ続けること。その救いの御業に参与できることを、喜んで、主イエスに「お言葉ですから」と従っていきたい。私たちは主イエスの弟子として、神様の救いの御業に喜びを持って参与させて頂くことを祈り求めていきましょう。 (引用 新共同訳聖書)