ester-chanのブログ

ester-chanのブログ

聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 イスラエルの民は、エジプトから出てきて以来、食べ物がない、水がないとモーセに不平を度々述べます。その都度、モーセは神様に訴え、神様は荒野で水を与え、毎日マナという日々の糧を天から降らせるという奇跡をもって、生きる上で必要なものを満たしてくださいました。しかし、人々はその神様の恵を覚えて、神様が養って下さるという信頼を持っていませんでした。再びイスラエルの民は、モーセに「水がない」と不平を言いました。「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇き殺すためなのか。」(3節)とモーセを石で打ち殺そうとしました。モーセが主に叫ぶと、主はモーセに長老たちと共に民の前に出て、これから行われる神様の奇跡を目撃するように命じた。神様はモーセに杖を取り、岩を打つようにと命令され、その通りにすると水が湧き出て民は水を飲むことができました。

 新約聖書では、使徒パウロがコリント人への手紙第一10章4節で、荒野で彼らと共にあった岩のことを、「その岩こそキリストだったのです」と言っています。岩が打たれると、人々は命の水を得たのです。このように、十字架上で打たれたイエス様は、私たちに命をもたらします。イエス様は言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネによる福音書7章37節)。その命の水は、私たちの罪のために十字架上で打たれたイエス・キリストを通して、私たちに与えられたものなのです。

 旅の途中、イスラエルの民をアマレク人が襲ってきたことが記されています。アマレクはエサウ(ヤコブの兄)の子孫でした(創世記36:12)。そして聖書でアマレク人は、これから先、何世代にもわたり、何度もイスラエルの民を攻撃したことが記されています。アマレク人はまず宿営の後方から、皆についていくのが困難な年配者や、ついていけなかった者たちを何人か滅ぼし、攻撃し始めたのです。ここで、後にモーセの後継者となるヨシュアが初めて登場します。モーセは戦いをヨシュアに任せ、「明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂上に立つ。」(9節)と言います。ヨシュアはモーセの命じたとおりにアマレクと戦い、モーセはアロンとフルと共に丘の頂上に登り、モーセが手を上げている間はイスラエルの民が勝ち、手を下ろすとアマレクが勝ったと記されています。モーセはおそらく両手を上げて祈っていたので、彼が手を挙げ続けられるよう、アロンとフルがモーセの両手を支えていました。ここでは、神様への祈りがどれほど力があるかを示されているのでしょう。そして、ヨシュアとその部隊はアマレクを打ち破ることが出来、モーセは祭壇を築いて神様を礼拝しました。

「アマレク」というのは、私たちの肉の思い、つまり自分の内にある罪を犯そうとする思いを象徴しているとされます。ですから、その罪の根が心に起きた時、すぐにそれを取り扱わずに放っておくと、その罪は繰り返し起こり、さらに拡大して取り返しがつかない事態になることを象徴しています。ですから、神様はそのような肉の思いを、その場で取り去り(滅ぼし)、悔い改めるように私たちに求めます。神様は私たちが肉に従って生き、肉の欲望を満たすことを望んでおられません。それは死へと結びつくからです。

 現代において私たちは、主イエス様の非暴力・敵を愛するという教えにあるように、目に見える人間と武器で戦いません。キリスト者の「戦い」は、神の武具を身に着けて霊的戦いに立ち向かうことです(エフェソの信徒への手紙6章10-18参照)。そして、罪の誘惑に打ち勝つという闘いは、主が共に戦って下さるというのが大きな励ましとなります。「主は代々アマレクと戦われる」(16節)  (新共同訳聖書引用)